2013年10月18日
10年ひと昔なら、50年は大昔です(^^ゞ
10年ひと昔なら、
50年は大昔ですから(^^ゞ
↑、コレ、だいたい50年昔です(笑)。
その50年昔は明治時代で、日露戦争してました・・・・・
その50年昔は、江戸時代でしたし。
ちょん髷結って、刀差して「士農工商」とか。
人間て、進歩してませんね(^^ゞ
「男尊女敬」
僕の父母もそうだったが・・・・・
父親、国鉄職員で安月給とはいえ毎月決まった給金と、年に二度の賞与。
たしかに、隣の家は戦後の復興ムードの中での「タンス製造業」、その羽振りは結構なものだった。
その隣は、大工、鍛冶屋、米屋、それらほんとんど僕と同い年くらいの子供が3人から5人はいた。
自営業のオカミさんは、それなりに大変だったようだが、
僕の母親なんかは、いわゆる「専業主婦」・・・・・
確かに世の中は忙しかったようだったが、フツウに家庭の主婦が今のように、
パートに出るなんっていう話はほとんど聞くことはなかった。
もっとも、どこの商店だって、大体が店員といえばあの当時は「男性」だった。
高崎中央銀座通りの洋品店とか雑貨屋とか、おもちゃ屋とか、
食堂とかで働いているオバさんほとんどが身内、家族。
ボッとかして、若い女性が見えるときは大ていが、縁石の娘とか、地方からの奉公、賄いさん。
つまり、あの時代、戦後は「オヤジ」、亭主一人の働きでほとんどの家庭が生活していた。
そのうちに、街中も変貌してきて、それを「経済発展」とでも言うんだろうか・・・・・
近所の、中卒のお姉さんが「沖電気」に就職したり、「専売公社」に就職したり。
昭和30年代半ばころになると、
隣のお姉さんが女子高を卒業して電電公社の「電話交換手」になったり「デパガ」になったり。
ちょうど、高崎にも初めてのエレベーター、エスカレーターの百貨店が2店、ほぼ同時に開店した。
今ではもう死語だが「エレベーターガール」、はたまた・・・・・
「エスカレーターガール」なる美しいお姉さんの姿がその時代を彩った。
こんな地方都市、昭和30年代後期、人口は12万人くらいだっただろうか。
中山道、その目抜き通りには「藤五百貨店」「八木橋百貨店」「スズラン百貨店」「中央デパート」、
中銀には「おしゃれデパート」、そして「十字屋」「田原屋」さらに、
月賦の「緑屋」「三和百貨店」が競って軒を並べた。
結果、極端な労働不足で「男性店員」だけではどうにもならない時代。
まさにこうで経済成長時代、沖電気工業、マックス工業、古河鉱業、高崎製紙、
そして、日清製粉、日本製粉が昼夜を違えずに操業、直に、日立製作所に、
キリンビール、第一パンなどが進出してきて人手不足もピークに差し掛かってきた。
そこへ持ってきて、労働力の中心だった「中卒」が全卒業生の数%にまで落ち込み、
やがれそうした工場群、流通業に高卒の新卒が吸収されていった。
もちろんそこには、「男」も「女」もない。
もともと繊維問屋で賑わっていた高崎市だったが・・・・・・
昭和41年高崎市北部に北関東初という広大な「問屋町」ができ、
そこには大小、百数十の、ありとあらゆる業種の問屋が社屋を構えた。
当然、問屋であるから「男子」は営業、「女子」は事務でワークシェアされ、
そこでの僕の友人の初任給が昭和44年、大卒で4万7千円、その翌年には9万円に届いていた。
工業系問屋だったが。
そして、平成25年の今、高崎の街に、その後にできた「ダイエー」「ニチイ」も姿を消し、
高島屋、スズラン百貨店を遺して、その全てが終わった。
その時代、新婚夫婦共稼ぎで二人分の所得があった・・・・・・
今の時代、結婚して、二人で働いても当時の一人分にもならない。
>つまらない世の中になりました。
つまり、経済至上主義とまでは言わないが、「カネ」に追われる毎日では心は荒みます。
母親は大変です。外で仕事をして、子育てをして、家事をして・・・・・
こんな世の中、社会にした自民党政権、ウワズミの1%階層は特権をほしいままにしている。
まっ、それで全てが幸せかとは思えないが、国会の施政方針演説のなんと蒙昧なことか。
「日本の成長する姿を世界に見せる」って、もう成長しきって熟しきってるのでは?
その熟した「果実」をどう分配するかを、見せるべきなのではないですか?
独り占めしていては熟した果実、乱熟、やがて腐って落ちて、肥やしにもなりません・・・・・・
30年で消費期限切れの原発がその象徴ではないでしょうか。
10年ひと昔なら、
50年は大昔ですから(^^ゞ
50年は大昔ですから(^^ゞ
↑、コレ、だいたい50年昔です(笑)。
その50年昔は明治時代で、日露戦争してました・・・・・
その50年昔は、江戸時代でしたし。
ちょん髷結って、刀差して「士農工商」とか。
人間て、進歩してませんね(^^ゞ
「男尊女敬」
僕の父母もそうだったが・・・・・
父親、国鉄職員で安月給とはいえ毎月決まった給金と、年に二度の賞与。
たしかに、隣の家は戦後の復興ムードの中での「タンス製造業」、その羽振りは結構なものだった。
その隣は、大工、鍛冶屋、米屋、それらほんとんど僕と同い年くらいの子供が3人から5人はいた。
自営業のオカミさんは、それなりに大変だったようだが、
僕の母親なんかは、いわゆる「専業主婦」・・・・・
確かに世の中は忙しかったようだったが、フツウに家庭の主婦が今のように、
パートに出るなんっていう話はほとんど聞くことはなかった。
もっとも、どこの商店だって、大体が店員といえばあの当時は「男性」だった。
高崎中央銀座通りの洋品店とか雑貨屋とか、おもちゃ屋とか、
食堂とかで働いているオバさんほとんどが身内、家族。
ボッとかして、若い女性が見えるときは大ていが、縁石の娘とか、地方からの奉公、賄いさん。
つまり、あの時代、戦後は「オヤジ」、亭主一人の働きでほとんどの家庭が生活していた。
そのうちに、街中も変貌してきて、それを「経済発展」とでも言うんだろうか・・・・・
近所の、中卒のお姉さんが「沖電気」に就職したり、「専売公社」に就職したり。
昭和30年代半ばころになると、
隣のお姉さんが女子高を卒業して電電公社の「電話交換手」になったり「デパガ」になったり。
ちょうど、高崎にも初めてのエレベーター、エスカレーターの百貨店が2店、ほぼ同時に開店した。
今ではもう死語だが「エレベーターガール」、はたまた・・・・・
「エスカレーターガール」なる美しいお姉さんの姿がその時代を彩った。
こんな地方都市、昭和30年代後期、人口は12万人くらいだっただろうか。
中山道、その目抜き通りには「藤五百貨店」「八木橋百貨店」「スズラン百貨店」「中央デパート」、
中銀には「おしゃれデパート」、そして「十字屋」「田原屋」さらに、
月賦の「緑屋」「三和百貨店」が競って軒を並べた。
結果、極端な労働不足で「男性店員」だけではどうにもならない時代。
まさにこうで経済成長時代、沖電気工業、マックス工業、古河鉱業、高崎製紙、
そして、日清製粉、日本製粉が昼夜を違えずに操業、直に、日立製作所に、
キリンビール、第一パンなどが進出してきて人手不足もピークに差し掛かってきた。
そこへ持ってきて、労働力の中心だった「中卒」が全卒業生の数%にまで落ち込み、
やがれそうした工場群、流通業に高卒の新卒が吸収されていった。
もちろんそこには、「男」も「女」もない。
もともと繊維問屋で賑わっていた高崎市だったが・・・・・・
昭和41年高崎市北部に北関東初という広大な「問屋町」ができ、
そこには大小、百数十の、ありとあらゆる業種の問屋が社屋を構えた。
当然、問屋であるから「男子」は営業、「女子」は事務でワークシェアされ、
そこでの僕の友人の初任給が昭和44年、大卒で4万7千円、その翌年には9万円に届いていた。
工業系問屋だったが。
そして、平成25年の今、高崎の街に、その後にできた「ダイエー」「ニチイ」も姿を消し、
高島屋、スズラン百貨店を遺して、その全てが終わった。
その時代、新婚夫婦共稼ぎで二人分の所得があった・・・・・・
今の時代、結婚して、二人で働いても当時の一人分にもならない。
>つまらない世の中になりました。
つまり、経済至上主義とまでは言わないが、「カネ」に追われる毎日では心は荒みます。
母親は大変です。外で仕事をして、子育てをして、家事をして・・・・・
こんな世の中、社会にした自民党政権、ウワズミの1%階層は特権をほしいままにしている。
まっ、それで全てが幸せかとは思えないが、国会の施政方針演説のなんと蒙昧なことか。
「日本の成長する姿を世界に見せる」って、もう成長しきって熟しきってるのでは?
その熟した「果実」をどう分配するかを、見せるべきなのではないですか?
独り占めしていては熟した果実、乱熟、やがて腐って落ちて、肥やしにもなりません・・・・・・
30年で消費期限切れの原発がその象徴ではないでしょうか。
10年ひと昔なら、
50年は大昔ですから(^^ゞ
Posted by 昭和24歳
at 17:28
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