2011年06月29日
「力道山がやって来た」わが街たかさきエトセトラ
「力道山がやって来た」
わが街たかさきエトセトラ
なんとなく「力道山の時代」を考えた。
ところで、みなさんは・・・・・
“力道山”を憶えているだろうか?
「憶えている」。
とかということは、リアルタイムでの“力道山体験”がなければ始まらないのだが・・・・・・
まあ、昭和24年生まれの僕が10歳の頃の話だから若い人たちからすればだいぶ昔の話になる。
50年以上昔。つまり半世紀前である(^^ゞ
それはまだ太平洋戦争終結、無条件降伏、敗戦から10年そこそこの時代の話なのだから、
僕の末娘に言わせたら、その“力道山”の話は江戸時代とそうは変わらないように感じているらしい(笑)。
憶えているとすればせいぜいが、今50歳代以上の昔の若者しかいないだろう・・・・・・・
僕の街に「プロレス興行」が来た。
台町にあった県立高崎商業高校の校庭に設えた、特設リング。
スカイ・ハイリーにヘイスタック・カルホーン、そして、芳の里、豊登・・・・・・
・レフリー:沖シキナ ・セコンド:ユセフ・トルコ
豊登はあの「パッコ~~~ン」という、腕を振り回すように交差させての、パフォーマンス。
プールで、銭湯で悪ガキ、みんなで真似したもんだった(今でもできる)。
そうだ、力道山は「MG」のオープンカーで、街をパレードしながらその校庭の会場へ入ってきた。
僕が小学校の5年生の頃の話だからそれは、昭和34年の頃。
季節はちょうど今のような梅雨時だったような・・・・・・
あの噛みつき吸血鬼“フレッド・ブラッシー”はまだ参上していなかった。
「吉村」なんかはどうだっただろうか。
そうだ「芳の里」、あの下駄の芳の里だ。
素足にゲートルのようなものを巻き「カタッカタッ」と下駄を鳴らして入場してきた。
キング・コングなんていうのもいた。ボボ・ブラジル、オルテガ、シャープ兄弟・・・・・
身体に鎖を巻きつけバスを引っ張るとかのプロレスラーは何といったか?
それが「ヘイスタック・カルホーン」だったかが定かでない。
おや、自民党副総裁の大野伴睦の姿が・・・・・
(自民党がヤクザな時代いでした)
大分古い話だ・・・・・・
もちろん小学生だった僕がその会場に入れたわけではない。
ひと目でも“力道山”を拝みたいがためにその高商の中を仲間とうろうろ(^^ゞ
とにかくその時代は“力道山”といえば神様のような存在だったのだから。
僕らが子どもの頃の遊びといえば“メンコ”や“ベーゴマ”。
そのメンコやベーゴマにはそのプロレスラーの絵柄が大人気だった。
またプロレスのほかには“相撲”も人気のある絵柄だった・・・・・・
吉葉山、鏡里、千代の山とかで、未だ、「大鵬、柏戸」はいないそんな時代。
そういえば、相撲の場合はベーゴマよりも“メンコ”のほうに人気があったようだった。
白黒のテレビの頃の話だ。もちろん“白黒テレビ”とはいえどこの家にでもあるという代物ではなかった。
当然、僕の家にはまだなかった・・・・・・
僕らは近所の悪がきが連れ立って近くにある魚市場の休憩室にあるその神々しい“電気テレビ”を、
傅くようにして見せていただいた思い出がある。
そうだ「野球は」。、野球といえば当時は“川上”が引退寸前の頃だろうか、
長島がまだ立教の『野球学部』の時代、稲尾、中西、豊田、そして巨人軍の監督は水原茂監督。
赤バットの川上、青バットの青田と、選手も監督もえらく“ゴッツイ”そんな時代だった。
あの時代の「パワー」。今思ってももの凄い時代だったなあとふり返る。
暗殺された、浅沼稲次郎。ズーズー弁の佐々木更三委員長。
野球の解説は、なにかにつけて口癖のように・・・・・・
「まあ、なんと申しましょうか」
と言っていた小西トクロウ。そしてその「「なんと申しましょうか」はその時代の流行り言葉にもなった。
何れも荒涼とした焦土だったが、軍国主義から開放され、国民大衆がようやくその時代の変革を肌で感じ取った・・・・・
そんな時代の“力道山”だった。
英雄“力道山”
敗戦国のニッポン人が戦勝国、占領軍のは巨漢の白人を空手チョップでなぎ倒す。
いや、それは、当時の子どもよりも、その敗戦に打ちひしがれていた大人たちの喝采が。
しかしあの頃の父母たち、今日を想像しただろうか。父は48歳、母は38歳。
こんな未来なんて想像できなかったろうに。
そんな時代の父母の齢をもうとっくに過ぎている僕がここにこうしている。
そんな“力道山の時代”の子どもたち。
みんなどうしてるかなぁ・・・・・・
“力道山の時代”の子どもたち。
そして力道山の突然の“死”は中三の時。
創られた英雄「力道山」
「力道山がやって来た」
わが街たかさきエトセトラ
わが街たかさきエトセトラ
なんとなく「力道山の時代」を考えた。
ところで、みなさんは・・・・・
“力道山”を憶えているだろうか?
「憶えている」。
とかということは、リアルタイムでの“力道山体験”がなければ始まらないのだが・・・・・・
まあ、昭和24年生まれの僕が10歳の頃の話だから若い人たちからすればだいぶ昔の話になる。
50年以上昔。つまり半世紀前である(^^ゞ
それはまだ太平洋戦争終結、無条件降伏、敗戦から10年そこそこの時代の話なのだから、
僕の末娘に言わせたら、その“力道山”の話は江戸時代とそうは変わらないように感じているらしい(笑)。
憶えているとすればせいぜいが、今50歳代以上の昔の若者しかいないだろう・・・・・・・
僕の街に「プロレス興行」が来た。
台町にあった県立高崎商業高校の校庭に設えた、特設リング。
スカイ・ハイリーにヘイスタック・カルホーン、そして、芳の里、豊登・・・・・・
・レフリー:沖シキナ ・セコンド:ユセフ・トルコ
豊登はあの「パッコ~~~ン」という、腕を振り回すように交差させての、パフォーマンス。
プールで、銭湯で悪ガキ、みんなで真似したもんだった(今でもできる)。
そうだ、力道山は「MG」のオープンカーで、街をパレードしながらその校庭の会場へ入ってきた。
僕が小学校の5年生の頃の話だからそれは、昭和34年の頃。
季節はちょうど今のような梅雨時だったような・・・・・・
あの噛みつき吸血鬼“フレッド・ブラッシー”はまだ参上していなかった。
「吉村」なんかはどうだっただろうか。
そうだ「芳の里」、あの下駄の芳の里だ。
素足にゲートルのようなものを巻き「カタッカタッ」と下駄を鳴らして入場してきた。
キング・コングなんていうのもいた。ボボ・ブラジル、オルテガ、シャープ兄弟・・・・・
身体に鎖を巻きつけバスを引っ張るとかのプロレスラーは何といったか?
それが「ヘイスタック・カルホーン」だったかが定かでない。
おや、自民党副総裁の大野伴睦の姿が・・・・・
(自民党がヤクザな時代いでした)
大分古い話だ・・・・・・
もちろん小学生だった僕がその会場に入れたわけではない。
ひと目でも“力道山”を拝みたいがためにその高商の中を仲間とうろうろ(^^ゞ
とにかくその時代は“力道山”といえば神様のような存在だったのだから。
僕らが子どもの頃の遊びといえば“メンコ”や“ベーゴマ”。
そのメンコやベーゴマにはそのプロレスラーの絵柄が大人気だった。
またプロレスのほかには“相撲”も人気のある絵柄だった・・・・・・
吉葉山、鏡里、千代の山とかで、未だ、「大鵬、柏戸」はいないそんな時代。
そういえば、相撲の場合はベーゴマよりも“メンコ”のほうに人気があったようだった。
白黒のテレビの頃の話だ。もちろん“白黒テレビ”とはいえどこの家にでもあるという代物ではなかった。
当然、僕の家にはまだなかった・・・・・・
僕らは近所の悪がきが連れ立って近くにある魚市場の休憩室にあるその神々しい“電気テレビ”を、
傅くようにして見せていただいた思い出がある。
そうだ「野球は」。、野球といえば当時は“川上”が引退寸前の頃だろうか、
長島がまだ立教の『野球学部』の時代、稲尾、中西、豊田、そして巨人軍の監督は水原茂監督。
赤バットの川上、青バットの青田と、選手も監督もえらく“ゴッツイ”そんな時代だった。
あの時代の「パワー」。今思ってももの凄い時代だったなあとふり返る。
暗殺された、浅沼稲次郎。ズーズー弁の佐々木更三委員長。
野球の解説は、なにかにつけて口癖のように・・・・・・
「まあ、なんと申しましょうか」
と言っていた小西トクロウ。そしてその「「なんと申しましょうか」はその時代の流行り言葉にもなった。
何れも荒涼とした焦土だったが、軍国主義から開放され、国民大衆がようやくその時代の変革を肌で感じ取った・・・・・
そんな時代の“力道山”だった。
英雄“力道山”
敗戦国のニッポン人が戦勝国、占領軍のは巨漢の白人を空手チョップでなぎ倒す。
いや、それは、当時の子どもよりも、その敗戦に打ちひしがれていた大人たちの喝采が。
しかしあの頃の父母たち、今日を想像しただろうか。父は48歳、母は38歳。
こんな未来なんて想像できなかったろうに。
そんな時代の父母の齢をもうとっくに過ぎている僕がここにこうしている。
そんな“力道山の時代”の子どもたち。
みんなどうしてるかなぁ・・・・・・
“力道山の時代”の子どもたち。
そして力道山の突然の“死”は中三の時。
創られた英雄「力道山」
「力道山がやって来た」
わが街たかさきエトセトラ
Posted by 昭和24歳
at 06:44
│Comments(1)
うちの父は新し物好きで、昭和38年に白黒テレビを購入した(月賦で)。でご近所さんがプロレスを鑑賞しに来てました。
力道山が北朝鮮出身と知った時のは、それから数十年後