2010年07月27日
香港メモリー
香港メモリー
昭和57年7月・・・・・
謎の中国人、王家昌氏(ウォン・カァチョン)と、
夜総會で取引の密談をする僕。
まあ、謎の中国人っていうか、僕の方が・・・・・・
謎の東洋人です(笑)。
<当時33歳>
楽器の担ぎ屋でした。
このころの僕はと言えば、場末のクラブとかで演奏しながら、まあ、バンドマンていうやつです(笑)。
それでも若さでしょうか、まっ、若いって言っても34歳でしたし7歳と3歳の娘がいて・・・・・・
で、一端の貿易商を気取ってって、まあ、貿易商っていってもエレキギターが専門でしたけど、
年に何度か香港とLAを往復していました・・・・・
当時は確か「1香港ドル=52円」とか、「58円」とかだったと記憶。
それでも、日本国内で売られている「フェンダー・ストラトキャスター」の値段は215,000円で、
ギブソンのLPに至っては30万円とか40万円とかしていたわけです。
その「フェンダー・ストラトキャスター」が香港では数本まとめ買いをすると、一本あたり900香港ドルで買えた・・・・・・
因みに、その年、サンフランシスコの楽器店で仕入れたギブソンLPのゴールドトップは600USドル(1USドル=300円)で、
日本では40万円近くしていた人気のレスポール・モデルだった。
「フェンダー・ストラトキャスター」
900香港ドルということは約46,000円。日本で215,000円のものが、46,000円!!
これらの、フェンダーを一度に20本から「担ぎこむ」わけです・・・・・・・
つまり、エレキの「国際担ぎ屋」(笑)。
当然、羽田の税関では関税を取られるが、それでも、一本あたり現地購入価格の、確か、20%程度と、
手荷物のオーバーチャージが5万円ほどだったから、一本あたりの輸入原価は7万円・・・・・・
プラス、航空運賃が、当時のエアーインディアで「羽田=香港」のRTが6万円ほどと、ホテル代が一泊90香港ドル。
それら経費をカウントしても仕入れ原価は20本仕入れれば8万円。
それを、当時流行りのロックミュージシャンに、早い話、某大手輸入代理店の卸値、
215,000円X60%で売っちゃうのだから・・・・・
まあ、飛ぶように売れました、っていうか、注文を取ってから買い付けに行くので「ウハウハ」でした。
つまり、輸入関税法改正で「並行輸入」が解禁になったからです。
そんなこんなで、エレキの担ぎ屋稼業・・・・・・・
お茶の水の友人の「ミッションズ・トラベル」で、予約していたチケットを受取ると、
羽田から、機上の人となる。
で、キャリア、つまり航空会社はエアー・インディアです。
なぜ、エアーインディアかっていうと、当時東京=香港が「安かった」からです。
そうそう、今はありませんが「エアー・サイアム」なんていうタイのフラッグキャリアもありました・・・・・
両方とも週に3便で、東京、羽田をトランジットにして、
「LA=ニューデリーorバンコク」
往復しているやつでした。
で、そのエアーインディアですけどあの独特なインド民族音楽・・・・・・・
♪ポンコチャッカ、ポンコチャッカ♪
と言った、シタールとタブラのインドのソレが鳴り止むと機内アナウンスが間もなく香港啓徳国際空港への到着を告げる。
窓から眺めるとエアーインディアのボーイング707は島々の散らばるそれほど高くない海の上を旋回していた。
窓から見下ろすと、大きな客船、貨物船は手が届くようにして見えた。
羽を広げたバッタのよなジャンクが無数に散らばり、
岩肌にへばりつくようなガイドブックとおりの“九龍城”とヴィクトリアピーク・・・・・・
羽田を発ったのが午後の1時過ぎだったから、香港、すでに陽は落ちかけて、
灯し始めた“百万ドルの夜景”はキラキラと海面を照らす夕陽とその美麗を競っているように見えた。
こエアーインディアのエコノミーの乗客には日本人は僕しかいないようだ。
ほとんどがサリーやら、ターバンといった民族衣装のインド人だろうか・・・・・・
もっとも「エアー・インディア」と言うくらいだからスチワーデスもパーサーも民族衣装でサービスしているのだし、
しかし、どうも日本人と言うヤツは“自己チュウ-”で、
「日本人は“一人”しかいない」
という発想になる・・・・・
例の「邦人被害者はこのたびの事件ではいないと現地では伝えています」とかと言ったように。
アナウンスはインド語、ヒンズー語なのか・・・・・・
もちろんタイ語とかマレーシア語、広東語とかで早口にまくし立てているように聞こえているので、
何がなんだかさっぱりだったが、最後の方で英語でのアナウンス・・・・・・・
やっと、それでも何とか聞き取れて僕はシートヴェルトを「カチッ」と締めた。
僕を乗せたエアーインディアは定員150人くらいだったろうか両側に通路をはさんで二席、
三席の随分と小ぶりなボーイングだった。
ほとんどの乗客はシートヴェルトなんかはほったらかしのままで窓を食い入るように覗き込んでいた。
突然「グァ――ッ」と逆噴射のジェットエンジン音だろうか・・・・・・
鳴ったかと思うと高度をグングン下げ始めエアー・インディアはまるで香港の街を爆撃するかのような勢いで、
ぎっしりとつまったビルとビルの間を、
それもビルの窓と言う窓から突き出た竹の洗濯竿をよけるようにして滑走路に進入して行った。
「やばいなこのままじゃあ翼、ビルの縁を引っかけやあしないか」
と、僕は一瞬不安にかられるほどだった。
まさに頭上を飛び交う啓徳国際空港でした。
いや、大袈裟ではなく後で聞くと初めてあの啓徳空港に降りた人は一様にそう言う。
僕も何度もここ香港に来るうちにジャンボあたりで降りたりする時・・・・・・
慣れたとは言え、
「ほんとうかよ」
と言う気持ちにいつもなった。
で、エアーインディアだけど、この機長なんと荒っぽいことか・・・・・・
多分、インド空軍かなんかの出身で戦闘気乗りでもやっていたような滑走路への着地のその瞬間。
飛行機が小さくて軽いせいなのか、車輪が「キュッキュッ」と鳴るごとに何度もバウンドして、
そりゃあ、冷やりとさせられた・・・・・
こう言うのを不時着って言うんじゃあないのと大袈裟におもった(笑)。
まだ着陸態勢だっていうのに周りの連中、乗客は平気な顔をしてすでに手荷物を片付け始めていた。
そうこうする内にエアー・インディアは無事に香港啓徳国際空港に着陸した。
タラップが寄せられたのか外側からいかにも頑丈そうなドアが開けられ「フーッ」と・・・・・
たっぷり湿気を含んだなんとも言えない臭いの空気が、
それまで密閉され、エアコンの効いていた機内に吹き込んできた。
「う~む、これが香港なんだ・・・・・・」
といつもながら、僕はつぶやいていた。
矢鱈と機内が何語かは分らない言葉で五月蝿くなってきた。
おそらくトランジットでこのまま、またバンコクかどこかに寄港しながらニューデリーまで行くのだろう・・・・・・
そのままシートに横になっている人やなんかお祈りしている人や様々(笑)。
で、香港到着・・・・・・
そんな異国の旅人を物珍しそうに横目にしてながら僕は出口へと続いた。
「テイクケア!」
一人一人の乗客に、機長なのか副操縦士かは分らないがそう言って合掌のスタイルで挨拶をしていた。
僕が日本人と分ると「アリガトウ」とウインクをして軽く手を挙げた・・・・・・
どうやら客それぞれの国籍を判断しながら言っているようだった。
「なんだインド人じゃあないぞ !!??? 」
と、僕はつぶやいた。
なんだはないが、それはそれで仕方がない・・・・・・
日本人は外人を見れば大体が、僕等は子どもの頃から“アメリカ人”だと思っていた。
実際はその人が何人かは分らないのに(笑)。
その機長さんだか副操縦士だか白人であることは確かであったが・・・・・・
あの乱暴な操縦振りはいずれにしても「軍人上がりに違いない。」と、勝手に決め付けていた。
イミグレーションを出て的士(タクシー)を拾うと香港島ワンチャイのエクセルシオールホテルに急いだ。
このエクセルシールホテル、そこそこに高級感アリアリなんだけどリーズナブルだったので、
まあ、友人の謎の中国人の店(ブティック)に近いこともアリ・・・・・
いつもそこ、エクセルシールに投宿した。まあ、部屋は広いし、荷物の整理にも便利だったし。
で、僕の香港での何よりの楽しみが「広東飲茶」です・・・・・・
シュリンプ・ワンタンヌードル・エキストラサイズ6香港ドル(当時)
因みにコレって、乾麵で「蝦卵麺」とかで、スーパー“トミー”では輸入販売されてますけど、
なかなか本場で食べるようなわけにはいきません。
チャイニーズブロッコリーとオイスターソースはトッピングに不可欠です !!!
とにかく美味しい !!!
日本で探してもなかなか食えません、どこかで食えないでしょうか !!???
LAとかシカゴのチャイナタウンでは食えたのに、横浜では食えませんでした。
今日も朝からとにかく暑い、ムチャクチャ暑い !!
そんなわけで、なぜかあの頃の香港を・・・・・・
まあ、アレから30年近くが過ぎようとしている・・・・・・
ちょうど今頃、この時期の話だ。
香港メモリー
昭和57年7月・・・・・
謎の中国人、王家昌氏(ウォン・カァチョン)と、
夜総會で取引の密談をする僕。
まあ、謎の中国人っていうか、僕の方が・・・・・・
謎の東洋人です(笑)。
<当時33歳>
楽器の担ぎ屋でした。
このころの僕はと言えば、場末のクラブとかで演奏しながら、まあ、バンドマンていうやつです(笑)。
それでも若さでしょうか、まっ、若いって言っても34歳でしたし7歳と3歳の娘がいて・・・・・・
で、一端の貿易商を気取ってって、まあ、貿易商っていってもエレキギターが専門でしたけど、
年に何度か香港とLAを往復していました・・・・・
当時は確か「1香港ドル=52円」とか、「58円」とかだったと記憶。
それでも、日本国内で売られている「フェンダー・ストラトキャスター」の値段は215,000円で、
ギブソンのLPに至っては30万円とか40万円とかしていたわけです。
その「フェンダー・ストラトキャスター」が香港では数本まとめ買いをすると、一本あたり900香港ドルで買えた・・・・・・
因みに、その年、サンフランシスコの楽器店で仕入れたギブソンLPのゴールドトップは600USドル(1USドル=300円)で、
日本では40万円近くしていた人気のレスポール・モデルだった。
「フェンダー・ストラトキャスター」
900香港ドルということは約46,000円。日本で215,000円のものが、46,000円!!
これらの、フェンダーを一度に20本から「担ぎこむ」わけです・・・・・・・
つまり、エレキの「国際担ぎ屋」(笑)。
当然、羽田の税関では関税を取られるが、それでも、一本あたり現地購入価格の、確か、20%程度と、
手荷物のオーバーチャージが5万円ほどだったから、一本あたりの輸入原価は7万円・・・・・・
プラス、航空運賃が、当時のエアーインディアで「羽田=香港」のRTが6万円ほどと、ホテル代が一泊90香港ドル。
それら経費をカウントしても仕入れ原価は20本仕入れれば8万円。
それを、当時流行りのロックミュージシャンに、早い話、某大手輸入代理店の卸値、
215,000円X60%で売っちゃうのだから・・・・・
まあ、飛ぶように売れました、っていうか、注文を取ってから買い付けに行くので「ウハウハ」でした。
つまり、輸入関税法改正で「並行輸入」が解禁になったからです。
そんなこんなで、エレキの担ぎ屋稼業・・・・・・・
お茶の水の友人の「ミッションズ・トラベル」で、予約していたチケットを受取ると、
羽田から、機上の人となる。
で、キャリア、つまり航空会社はエアー・インディアです。
なぜ、エアーインディアかっていうと、当時東京=香港が「安かった」からです。
そうそう、今はありませんが「エアー・サイアム」なんていうタイのフラッグキャリアもありました・・・・・
両方とも週に3便で、東京、羽田をトランジットにして、
「LA=ニューデリーorバンコク」
往復しているやつでした。
で、そのエアーインディアですけどあの独特なインド民族音楽・・・・・・・
♪ポンコチャッカ、ポンコチャッカ♪
と言った、シタールとタブラのインドのソレが鳴り止むと機内アナウンスが間もなく香港啓徳国際空港への到着を告げる。
窓から眺めるとエアーインディアのボーイング707は島々の散らばるそれほど高くない海の上を旋回していた。
窓から見下ろすと、大きな客船、貨物船は手が届くようにして見えた。
羽を広げたバッタのよなジャンクが無数に散らばり、
岩肌にへばりつくようなガイドブックとおりの“九龍城”とヴィクトリアピーク・・・・・・
羽田を発ったのが午後の1時過ぎだったから、香港、すでに陽は落ちかけて、
灯し始めた“百万ドルの夜景”はキラキラと海面を照らす夕陽とその美麗を競っているように見えた。
こエアーインディアのエコノミーの乗客には日本人は僕しかいないようだ。
ほとんどがサリーやら、ターバンといった民族衣装のインド人だろうか・・・・・・
もっとも「エアー・インディア」と言うくらいだからスチワーデスもパーサーも民族衣装でサービスしているのだし、
しかし、どうも日本人と言うヤツは“自己チュウ-”で、
「日本人は“一人”しかいない」
という発想になる・・・・・
例の「邦人被害者はこのたびの事件ではいないと現地では伝えています」とかと言ったように。
アナウンスはインド語、ヒンズー語なのか・・・・・・
もちろんタイ語とかマレーシア語、広東語とかで早口にまくし立てているように聞こえているので、
何がなんだかさっぱりだったが、最後の方で英語でのアナウンス・・・・・・・
やっと、それでも何とか聞き取れて僕はシートヴェルトを「カチッ」と締めた。
僕を乗せたエアーインディアは定員150人くらいだったろうか両側に通路をはさんで二席、
三席の随分と小ぶりなボーイングだった。
ほとんどの乗客はシートヴェルトなんかはほったらかしのままで窓を食い入るように覗き込んでいた。
突然「グァ――ッ」と逆噴射のジェットエンジン音だろうか・・・・・・
鳴ったかと思うと高度をグングン下げ始めエアー・インディアはまるで香港の街を爆撃するかのような勢いで、
ぎっしりとつまったビルとビルの間を、
それもビルの窓と言う窓から突き出た竹の洗濯竿をよけるようにして滑走路に進入して行った。
「やばいなこのままじゃあ翼、ビルの縁を引っかけやあしないか」
と、僕は一瞬不安にかられるほどだった。
まさに頭上を飛び交う啓徳国際空港でした。
いや、大袈裟ではなく後で聞くと初めてあの啓徳空港に降りた人は一様にそう言う。
僕も何度もここ香港に来るうちにジャンボあたりで降りたりする時・・・・・・
慣れたとは言え、
「ほんとうかよ」
と言う気持ちにいつもなった。
で、エアーインディアだけど、この機長なんと荒っぽいことか・・・・・・
多分、インド空軍かなんかの出身で戦闘気乗りでもやっていたような滑走路への着地のその瞬間。
飛行機が小さくて軽いせいなのか、車輪が「キュッキュッ」と鳴るごとに何度もバウンドして、
そりゃあ、冷やりとさせられた・・・・・
こう言うのを不時着って言うんじゃあないのと大袈裟におもった(笑)。
まだ着陸態勢だっていうのに周りの連中、乗客は平気な顔をしてすでに手荷物を片付け始めていた。
そうこうする内にエアー・インディアは無事に香港啓徳国際空港に着陸した。
タラップが寄せられたのか外側からいかにも頑丈そうなドアが開けられ「フーッ」と・・・・・
たっぷり湿気を含んだなんとも言えない臭いの空気が、
それまで密閉され、エアコンの効いていた機内に吹き込んできた。
「う~む、これが香港なんだ・・・・・・」
といつもながら、僕はつぶやいていた。
矢鱈と機内が何語かは分らない言葉で五月蝿くなってきた。
おそらくトランジットでこのまま、またバンコクかどこかに寄港しながらニューデリーまで行くのだろう・・・・・・
そのままシートに横になっている人やなんかお祈りしている人や様々(笑)。
で、香港到着・・・・・・
そんな異国の旅人を物珍しそうに横目にしてながら僕は出口へと続いた。
「テイクケア!」
一人一人の乗客に、機長なのか副操縦士かは分らないがそう言って合掌のスタイルで挨拶をしていた。
僕が日本人と分ると「アリガトウ」とウインクをして軽く手を挙げた・・・・・・
どうやら客それぞれの国籍を判断しながら言っているようだった。
「なんだインド人じゃあないぞ !!??? 」
と、僕はつぶやいた。
なんだはないが、それはそれで仕方がない・・・・・・
日本人は外人を見れば大体が、僕等は子どもの頃から“アメリカ人”だと思っていた。
実際はその人が何人かは分らないのに(笑)。
その機長さんだか副操縦士だか白人であることは確かであったが・・・・・・
あの乱暴な操縦振りはいずれにしても「軍人上がりに違いない。」と、勝手に決め付けていた。
イミグレーションを出て的士(タクシー)を拾うと香港島ワンチャイのエクセルシオールホテルに急いだ。
このエクセルシールホテル、そこそこに高級感アリアリなんだけどリーズナブルだったので、
まあ、友人の謎の中国人の店(ブティック)に近いこともアリ・・・・・
いつもそこ、エクセルシールに投宿した。まあ、部屋は広いし、荷物の整理にも便利だったし。
で、僕の香港での何よりの楽しみが「広東飲茶」です・・・・・・
シュリンプ・ワンタンヌードル・エキストラサイズ6香港ドル(当時)
因みにコレって、乾麵で「蝦卵麺」とかで、スーパー“トミー”では輸入販売されてますけど、
なかなか本場で食べるようなわけにはいきません。
チャイニーズブロッコリーとオイスターソースはトッピングに不可欠です !!!
とにかく美味しい !!!
日本で探してもなかなか食えません、どこかで食えないでしょうか !!???
LAとかシカゴのチャイナタウンでは食えたのに、横浜では食えませんでした。
今日も朝からとにかく暑い、ムチャクチャ暑い !!
そんなわけで、なぜかあの頃の香港を・・・・・・
まあ、アレから30年近くが過ぎようとしている・・・・・・
ちょうど今頃、この時期の話だ。
香港メモリー
Posted by 昭和24歳
at 17:47
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