2010年06月12日
伝説の「うたごえ喫茶」
伝説の「うたごえ喫茶」
今、東京あたりでも、そして地方のチョイとした街でも・・・・・・
なにやら“歌声喫茶”とかが流行らしい。
その東京は、新宿の往年の「うたごえ喫茶」、
♪ カチューシャ ♪ から開催日のご案内が来る↓
6月4日(金)18:00~21:30、久しぶりに如何ですか、
お待ちしております、
『7月』から『12月』までは8月を除き、第2回目は全て祝日の開催になります。
~よろしくお願い致します~☆
音ステージ「き」歌声≪カチューシャ≫
新宿3-2-2紺野ビル2F
03-3341-1492
(開催日時のみ、通話可)
★新宿通り世界堂本店前「どうらくうどん」2F★
もちろん、
“♪お江戸見たけりゃ高崎田町♪”と歌われたくらいだから、
ここ高崎にもそれはあった。
以前、たしか、迷道院さんのブログでも紹介されていた・・・・・・・
♪ 風 ♪
今ではすっかりその趣も変わってしまったが銀座通りに、それはあった。
僕が何度か行ったのはその♪ 風 ♪ ではなく・・・・・・・
伝説の「うたごえ喫茶“灯”」(ともしび)
それは嘉多町、高崎銀座通りのトマクチを、その昔あった、
“嘉多町の交番”へ向かって丁度、半ばくらいのところにひっそりとあった。
伝説とはチト大袈裟が過ぎるとのお叱りもあろうが・・・・・・・
僕にとってはそれは“伝説”なのだからしょうがない。
なぜ、伝説かといえば、戦後生まれで音楽を糧に生活をしてきている僕が、
そこで歌った憶えはないからなのである。
いつ頃がそこが「うたごえ喫茶」だったんだろう。
僕が、17、8のころはその「灯」はたしか“お好み焼き”を商っていたように記憶する。
その“お好み焼”の「灯」へは何度も足を運ばせた憶えがある。
“お好み焼”とはいっても・・・・・・・
そこは、洟垂れ小僧の頃に食った近所の駄菓子屋冬場ついでに商うそれとはそれが違って、
それを今風に言うなら「セレブ」・・・・・
それも大袈裟だが、それでもその頃は最初はなかなか敷居が高かった。
もちろん、お品書きも値段も、横丁のそれとは「月とスッポン」。
それほどの趣をしていたものであった。
で、伝説の「うたごえ喫茶“灯”」だが・・・・・
僕は、残念ながら、「戦後っ子」とは言ってはみても、
その“戦後”とやらに青春があったわけではないからその戦後文化、戦後の風俗というか・・・・・・
戦前、戦中のそれと激変するそれをリアルタイムで知るものではない。
仄聞するところから、
そもそもその「うたごえ喫茶」なるものは、“60年安保”を前後して、
その頃の、労働運動の一環として、
東京など、大都市を中心に流行りだしたらしい。
つまり、「赤化」というか、“ソ連”に感化されてと言うか・・・・・・
まさかその当時のソ連に「うたごえ喫茶」なるものが存在したわけではないだろが。
とにかく、その「うたごえ喫茶」で合唱する歌と言えばほとんどが“ロシア民謡”だったとか。
またその一方では、「日劇ウエスタンカーニバル」とか何とかで、ロカビリーの大旋風。
平尾昌章、山下敬二郎、ミッキー・カーチス、ジミー時田・・・・・
それが、リーゼントにラバーソールでプレスリーの、
“監獄ロック”に“ハウンドドッグ”
ようするに、早い話、“ロカビリー”が、「日劇ウエスタンカーニバル」だったり、「新宿ACB」だったりで、
ダークダックス、ボニージャックスが、新宿のうたごえ喫茶「カチューシャ」とか「灯」ということか。
そして、前者「ロカビリー」は不良文化。
後者、「うたごえ喫茶」は“うたごえ運動”、そして労働、学生運動という政治運動にも転化していったようで、
戦後の青春文化とでも言ったところだろうか・・・・・・
その意味では、昭和10年代生まれの、いわゆる「みゆき族」、「カミナリ族」世代が、
そして「うたごえ運動」世代が、その激変した時代、文化、もちろん風俗を創りその真っ只中にいた世代だった。
そうだ、今ごろ古希にならんとする「戦後文化」を彩った世代。
僕の姉たち、昭和14年生まれの・・・・・そんな世代の・・・・・
今を、「荒れた」などろいう人もおられるようだが、
敗戦、占領、講和・・・・・その中に生まれた「社会」なんて、今ではおよそ想像すらできない、
それこそ・・・・・
「荒れ狂った」
そんな時代だったのではなかったか。
ご案内だろうが、作家、石原慎太郎の「太陽の季節」(芥川賞:昭和30年)、
それなんかがまさにその時代を写しえだろう。
昭和30年・・・・・・
それは昭和30年前後、僕らが丁度、小学校へ上がった頃の時代・・・・・
まだ、近くの商家、八百屋さんや酒屋さんには「防空壕」が残っていて、そこを倉庫代わりにしていたところも何軒かあった。
高崎の市街地もいいところ、“バラス道”で、まだほとんど信号もないそんな時代。
信号もない時代だから当然「自動車」もほとんど走ってない。精々が運送屋かタクシー、バス。そんなもんだった。
別に自慢することではないが、僕が交通事故第一号の小学生だったとかである。
もっとも、信号も何もない時代の話・・・・・・
僕がいつものように下校時、本当は通り抜けてはいけない路地を勢いよく表通りに飛び出したものだから、
そこへ来たバイク、バイクと言っても当時のことだから、「メグロ」だったか「陸王」だったかの、
今で言えば“ハーレークラス”のそれ。
小学一年生の僕などはひとたまりもなく見事に「下肢骨折」。
3ヶ月は入院していた・・・・・
今でも憶えている、高崎の大原病院と、手術のために前橋の関口整形外科へ。
伝説の「うたごえ喫茶“灯”」からだいぶ話がそれてしまった。
そうだ、その伝説の「灯」は新宿の「灯」を真似たのかも知れない。
いや、新宿の「灯」が高崎の「灯」を真似たのかも知れない・・・・・・・・
高崎の伝説の「灯」は、僕が、お好み焼屋「灯」として通いだした頃、昭和40年ころだったろうか・・・・・
商っていたのは、その頃すでに「オジイサン」の趣のマスターで、なにが気に入らなかったのかいつも無愛想だった。
もしもご存命だとしたら40年の上昔の話だから100歳はとっくに超えてるのではないだろうか。
そんな伝説の「灯」だが・・・・・・
実は、僕は一度だけその筋の先輩に連れられて行った「うたごえ喫茶」が、
その伝説のうたごえ喫茶「灯」からそう離れていないところにあったのだ。
それはうたごえ喫茶「風」。
当時もうアーケードは仕上がっていただろうか高崎銀座通り。
そのもっとも華やかりし頃の高崎銀座通り、「正直屋」、「冨士や」、「大正堂」、
そして、「おしゃれデパート」、「うろころ」へとつづくその繁華街のど真ん中、
「マツヤス薬局」とかいった薬屋さんの2階にそれはあった。
ご案内の「ロシア民謡」であった・・・・・・
僕の趣味ではないので、無理やりの「風」だったけど、
伝説を言うなら、その「風」の方が伝説になるのかも知れない。
だいぶ長い間「歌声喫茶」として店を開けていたようだ。
その時代、昭和30年代前後。
ダンスホールやら、うたごえ喫茶・・・・・
それらが数軒、繁盛していたと聞く。
そうそう、「喫茶」ついでに言えば、僕らの青春、そのこそばゆさの中に、
「同伴喫茶」なんていうのも華やかりし時代だった。
キャンドル、マーセル、キャメル ???
そこのあなた・・・・・・
憶えています?
「忘れた」とは言わせませんぞ!!(笑)。
伝説の「うたごえ喫茶」
今、東京あたりでも、そして地方のチョイとした街でも・・・・・・
なにやら“歌声喫茶”とかが流行らしい。
その東京は、新宿の往年の「うたごえ喫茶」、
♪ カチューシャ ♪ から開催日のご案内が来る↓
6月4日(金)18:00~21:30、久しぶりに如何ですか、
お待ちしております、
『7月』から『12月』までは8月を除き、第2回目は全て祝日の開催になります。
~よろしくお願い致します~☆
音ステージ「き」歌声≪カチューシャ≫
新宿3-2-2紺野ビル2F
03-3341-1492
(開催日時のみ、通話可)
★新宿通り世界堂本店前「どうらくうどん」2F★
もちろん、
“♪お江戸見たけりゃ高崎田町♪”と歌われたくらいだから、
ここ高崎にもそれはあった。
以前、たしか、迷道院さんのブログでも紹介されていた・・・・・・・
♪ 風 ♪
今ではすっかりその趣も変わってしまったが銀座通りに、それはあった。
僕が何度か行ったのはその♪ 風 ♪ ではなく・・・・・・・
伝説の「うたごえ喫茶“灯”」(ともしび)
それは嘉多町、高崎銀座通りのトマクチを、その昔あった、
“嘉多町の交番”へ向かって丁度、半ばくらいのところにひっそりとあった。
伝説とはチト大袈裟が過ぎるとのお叱りもあろうが・・・・・・・
僕にとってはそれは“伝説”なのだからしょうがない。
なぜ、伝説かといえば、戦後生まれで音楽を糧に生活をしてきている僕が、
そこで歌った憶えはないからなのである。
いつ頃がそこが「うたごえ喫茶」だったんだろう。
僕が、17、8のころはその「灯」はたしか“お好み焼き”を商っていたように記憶する。
その“お好み焼”の「灯」へは何度も足を運ばせた憶えがある。
“お好み焼”とはいっても・・・・・・・
そこは、洟垂れ小僧の頃に食った近所の駄菓子屋冬場ついでに商うそれとはそれが違って、
それを今風に言うなら「セレブ」・・・・・
それも大袈裟だが、それでもその頃は最初はなかなか敷居が高かった。
もちろん、お品書きも値段も、横丁のそれとは「月とスッポン」。
それほどの趣をしていたものであった。
で、伝説の「うたごえ喫茶“灯”」だが・・・・・
僕は、残念ながら、「戦後っ子」とは言ってはみても、
その“戦後”とやらに青春があったわけではないからその戦後文化、戦後の風俗というか・・・・・・
戦前、戦中のそれと激変するそれをリアルタイムで知るものではない。
仄聞するところから、
そもそもその「うたごえ喫茶」なるものは、“60年安保”を前後して、
その頃の、労働運動の一環として、
東京など、大都市を中心に流行りだしたらしい。
つまり、「赤化」というか、“ソ連”に感化されてと言うか・・・・・・
まさかその当時のソ連に「うたごえ喫茶」なるものが存在したわけではないだろが。
とにかく、その「うたごえ喫茶」で合唱する歌と言えばほとんどが“ロシア民謡”だったとか。
またその一方では、「日劇ウエスタンカーニバル」とか何とかで、ロカビリーの大旋風。
平尾昌章、山下敬二郎、ミッキー・カーチス、ジミー時田・・・・・
それが、リーゼントにラバーソールでプレスリーの、
“監獄ロック”に“ハウンドドッグ”
ようするに、早い話、“ロカビリー”が、「日劇ウエスタンカーニバル」だったり、「新宿ACB」だったりで、
ダークダックス、ボニージャックスが、新宿のうたごえ喫茶「カチューシャ」とか「灯」ということか。
そして、前者「ロカビリー」は不良文化。
後者、「うたごえ喫茶」は“うたごえ運動”、そして労働、学生運動という政治運動にも転化していったようで、
戦後の青春文化とでも言ったところだろうか・・・・・・
その意味では、昭和10年代生まれの、いわゆる「みゆき族」、「カミナリ族」世代が、
そして「うたごえ運動」世代が、その激変した時代、文化、もちろん風俗を創りその真っ只中にいた世代だった。
そうだ、今ごろ古希にならんとする「戦後文化」を彩った世代。
僕の姉たち、昭和14年生まれの・・・・・そんな世代の・・・・・
今を、「荒れた」などろいう人もおられるようだが、
敗戦、占領、講和・・・・・その中に生まれた「社会」なんて、今ではおよそ想像すらできない、
それこそ・・・・・
「荒れ狂った」
そんな時代だったのではなかったか。
ご案内だろうが、作家、石原慎太郎の「太陽の季節」(芥川賞:昭和30年)、
それなんかがまさにその時代を写しえだろう。
昭和30年・・・・・・
それは昭和30年前後、僕らが丁度、小学校へ上がった頃の時代・・・・・
まだ、近くの商家、八百屋さんや酒屋さんには「防空壕」が残っていて、そこを倉庫代わりにしていたところも何軒かあった。
高崎の市街地もいいところ、“バラス道”で、まだほとんど信号もないそんな時代。
信号もない時代だから当然「自動車」もほとんど走ってない。精々が運送屋かタクシー、バス。そんなもんだった。
別に自慢することではないが、僕が交通事故第一号の小学生だったとかである。
もっとも、信号も何もない時代の話・・・・・・
僕がいつものように下校時、本当は通り抜けてはいけない路地を勢いよく表通りに飛び出したものだから、
そこへ来たバイク、バイクと言っても当時のことだから、「メグロ」だったか「陸王」だったかの、
今で言えば“ハーレークラス”のそれ。
小学一年生の僕などはひとたまりもなく見事に「下肢骨折」。
3ヶ月は入院していた・・・・・
今でも憶えている、高崎の大原病院と、手術のために前橋の関口整形外科へ。
伝説の「うたごえ喫茶“灯”」からだいぶ話がそれてしまった。
そうだ、その伝説の「灯」は新宿の「灯」を真似たのかも知れない。
いや、新宿の「灯」が高崎の「灯」を真似たのかも知れない・・・・・・・・
高崎の伝説の「灯」は、僕が、お好み焼屋「灯」として通いだした頃、昭和40年ころだったろうか・・・・・
商っていたのは、その頃すでに「オジイサン」の趣のマスターで、なにが気に入らなかったのかいつも無愛想だった。
もしもご存命だとしたら40年の上昔の話だから100歳はとっくに超えてるのではないだろうか。
そんな伝説の「灯」だが・・・・・・
実は、僕は一度だけその筋の先輩に連れられて行った「うたごえ喫茶」が、
その伝説のうたごえ喫茶「灯」からそう離れていないところにあったのだ。
それはうたごえ喫茶「風」。
当時もうアーケードは仕上がっていただろうか高崎銀座通り。
そのもっとも華やかりし頃の高崎銀座通り、「正直屋」、「冨士や」、「大正堂」、
そして、「おしゃれデパート」、「うろころ」へとつづくその繁華街のど真ん中、
「マツヤス薬局」とかいった薬屋さんの2階にそれはあった。
ご案内の「ロシア民謡」であった・・・・・・
僕の趣味ではないので、無理やりの「風」だったけど、
伝説を言うなら、その「風」の方が伝説になるのかも知れない。
だいぶ長い間「歌声喫茶」として店を開けていたようだ。
その時代、昭和30年代前後。
ダンスホールやら、うたごえ喫茶・・・・・
それらが数軒、繁盛していたと聞く。
そうそう、「喫茶」ついでに言えば、僕らの青春、そのこそばゆさの中に、
「同伴喫茶」なんていうのも華やかりし時代だった。
キャンドル、マーセル、キャメル ???
そこのあなた・・・・・・
憶えています?
「忘れた」とは言わせませんぞ!!(笑)。
伝説の「うたごえ喫茶」
Posted by 昭和24歳
at 18:59
│Comments(5)
歌声喫茶といえば、ロシア民謡、労働歌、多かったですね。
赤だ黒だ、右だ左だ、など全く意にも介さず歌ってました。
同伴喫茶も白状しましょう。
やたら背もたれの高い、三等車両の椅子みたいなのが置いてありましたっけ。
昭和は遠くなりにけりですね。
昭和って、情緒がありましたね・・・・・
まあ、スケベに情緒も糸瓜もありませんが(笑)。
懐かしいですね、私は学生時代40~43年まで毎日カチューシャに通っていました。その頃は3海建ての吹き抜けでコーヒーだけでねばってアコーディオンの方ともお友達になり、マイクの前でよく歌いました。
今、アムール河の波の動画を見ながら歌っていて、検索していたら同じ年代かなと思ってコメントしました。
あの頃の歌は全て歌えますよ。
私は共産系では無かったけれど、元気を貰って帰った物です。
現在は神奈川に住んでいるので、行きたくても中々行けません。
本当に懐かしいです。皆でそれぞれの思いで歌うんです。上手下手は関係なく我先にとマイクの前に立ったのが楽しかったですね。アコーデオンの演奏していた方がとても上手でした。
ホンとに昭和の時代の象徴ですね。
綿煮にとっては伝説では有りませんよ。
良き時代の宝物です。
コメント有難う御座います。
ホントですね、でも僕らが20代の頃、昭和45年には歌声喫茶も下火に。エレキ時代でしょうか(笑)。
それにしてもあの時代は活気に満ち溢れてました、消して豊かではなかったのに・・・・・
将来が明るく見えたわけでは消してなかったはずです。
それを想うと、ここまで豊かになった現代に、「将来の夢」が見出せないのは国民自身にも問題があるのかもしれません。
コメント有難う御座います。ブログに載せたいと思いますけど、お許しください。
アコーデオンの方のお名前は水谷さん?デしたかしら40年以上前なので名前は忘れてしまいましたが、本当にお上手な方で皆さんに合わせてくれました。
まだ歌うのが好きなだけで通っていた頃で、「歌手になりたいな」って言ったら、「歌手は辞めて趣味で歌った方が良いですよ」とアドバイスまで頂きました。本当に懐かしいです。
またあの頃は良い時代でしたね。
初めて会った人達が歌うことで其のまま直ぐに仲間入り出来ました。
場内が一つになって歌い、お話しをしている人も、食事をしている人も歌が始まると歌いまくっていました。
本当に先程書いたように私の思い出の宝物です。
近くの町田に歌声喫茶を見つけました。ブログを見て下さってお分かりのようにまだ鬱が完治していません。そのうちにもう少し体調が良くなったら行って見たいと思います。
有難うございました。
今し方URLに入ろうとしたらログインしてくださいとなっていましたのでこちらにコピーさせていただきました。