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お問い合わせは、 info@gunmawen.net本広告は、30日以上記事の更新がされませんと自動的に掲載されます。 記事が更新された時点で、自動的に破棄されます。2023年02月24日
トットのおじちゃん。
トットのおじちゃん。
「おまえは橋の下から拾ってきたんだ」
いつも聞き分けのない僕を父も母もからかうようにそう言った・・・・・・
僕は「一人っ子」。あの時代そう言う子供は結構いた。
可笑しなもので両隣が一人っ子なのだ。
そう、両隣とも「橋の下から拾ってきたらしい(笑)。
まだ小学校の二、三年頃だったろうか、よく母の実家、豊岡村引間へ夏休みになると本町三丁目のバス停から室田経由権田行きのバスに母に連れられていった。
「まっちゃんによく似て色白で可愛い子だね・・・まっちゃん、おやげないね」
実母は満津子という名前だった・・・・・・
そこは養母の実家で、つまりはお婆ちゃんのちだが、そのころ、おばあちゃんちは村ではただ一軒の万屋を商っていた。
もちろん農業もやっていて、主に、桃、梅を栽培していた。
「今日泊まっていってもいいだろ、冨美子姉ちゃんと寝るんだ」
お婆ちゃんちには10歳と、8歳違いのお姉ちゃんがいた。
冨美子姉ちゃんは桃原、梅原によく僕を連れて行ってくれ、桃原で採りたての桃を湧き清水に浸しておいて食べる。
なんとも言えない美味しさの「天津」と言った大きくてかたい桃・・・・・・・・
今ではその強烈な酸っぱさが故、品種改良され、その美味さを味わうことはできない。
お婆ちゃんちにはその頃、オート三輪があった。
自転車のハンドルのようなのがついた大きなやつだ。
荷台に、桃とか梅をいっぱいに積んで市場まで持って行くのが僕は楽しみだった。
桃原は今の剣崎の桃が丘一帯にあった・・・・・・
僕が8歳くらいのときにはもう冨美子姉ちゃんは18歳になっていたので多分、自動車の免許は持っていたんだろう。
っていうか、あの時代は警察に行けばくれたんだとか、昭和32年(笑)。
で、冨美子姉ちゃんの運転で桃原を縦横無尽に走った。
<トットットット・・・・・>
そのオート三輪の排気音が今でも僕の耳に残っている。
おばあちゃんちの伯母ちゃん、つまり僕の実母なのだが、そのおばちゃんは昭和24年から脊椎カリエスでもう10年から床に臥していた。
つまり僕を産むとすぐに病に臥したまま伯母ちゃんはお婆ちゃんちの奥の部屋でずっと寝たきりだった。
僕ら子どもは病気がうつるかもしれないからとその部屋に入れてもらえる事はなかった。
僕の記憶からも、おばちゃんと呼ばされていた実母に逢わせてもらうことはなかった。
おばちゃん、きっと僕の声を聞いてどんなに抱き締めたかったことだろうかと、僕自身子どもをもうけて胸が痛む。
僕が小学校4年の時についにその時はやってきたのだった。
<トットットット・・・>
「あっ、トットのおじちゃんだ」
僕の家の前で、トットットット・・・とその音が止る。
トットのおじちゃんが来るといつも柔道の道場に連れて行ってくれる。
おじちゃんは、武徳殿という高崎公園の中にある武道館で柔道を教えていた。
「おじちゃんは強いんだぞ・・・ほらっ、黒帯だ」
僕にはよく分らなかったが、とにかく強いらしかった。
トットのおじちゃんは映画にもよく連れて行ってくれた・・・・・・
トットのおじちゃんと最後に観た映画は「土俵の鬼・若乃花物語」だった。
まだこの街が砂利道だらけで映画館の前にはその「土俵の鬼・若乃花物語」」の幟がはためいていた。
そして、明治19年生まれのお婆ちゃんが死んだのは僕が小学校3年の時だった。
トットのおじちゃんの機嫌がやけに悪かったのを覚えている。
トットのおじちゃんは酒が一滴も飲めない。
そのせいかどうか、昭和32年、73歳で死んだお婆ちゃんの振舞い酒に賑やかな客が気に入らなかったようで・・・・・
それまでほとんど怒った事のないトットのおじちゃんが、おばあちゃんを丸い棺桶に納める時すごい顔をしていた。
きっと、トットのおじちゃん、色んな思いがあったのかもしれない。お婆ちゃんに。
「あっちへ行ってろっ !!」
と僕を叱った・・・・・
“そういう時代”
僕には昔のことはよく分からない。大正2年生まれ、僕と同じ丑年だ「トットのおじちゃん」は。
明治17年申年のお祖父ちゃんは日清、日露戦争へ高崎十五連隊から出兵したと聞いていた。
大正2年。
一体どんな時代だったのだろうか。
欧州の戦争で好況に沸く皇国「日本」。そして昭和に入って「世界恐慌」から、太平洋戦争。
「トットのおじちゃん」
束の間の青春だったのかも知れない。
「トットのおじちゃん」は毎日のように高崎の僕の家にきていた。
<トットットット・・・>
と排気音を鳴らしながら・・・・・・
僕が小学校3年の頃には丸ハンドルの「マツダ」のオート三輪に替えていた。
僕はその「オート三輪」が自慢だった。
当時、昭和32年頃にオート三輪なんて言うのがあるなんて高崎では珍しかったからだ。
「トットのおじちゃん」は僕が学校から帰るのを待ってましたとばかりに・・・・・・・
そのオート三輪に僕を乗せて市場やお得意さんを回った。
「マルヨさんには似てねえな・・・」
「ああっ、オッカア似だからな」
トットのおじちゃんは目配せをするようにいつも小声でそう言った・・・僕に聞こえないように。
ずっと不思議に思っていたが、僕にはそのことが何のことだかはあまり分からなかった。
と言うより、知りたくなかったのかも知れない。
「マルヨさん、今度バナナとモヤシこっちに廻してくんねえかい」
「モヤシはいいが、バナナは統制かかってるしな」
マルヨとは、トットのおじちゃんの市場での屋号、仲買もやっていたのでみんながそう呼んだ。
よくは知らないが戦友とかがこの地域のバナナの権利を持っていて相当いい商売をしていたらしい。
もともとその戦友、今風に言えばベンチャー企業化か、モヤシの製造を始め・・・・・・・・
そのモヤシを作るときの蒸気かなんかで青いバナナを蒸すんだと言っていた。
ホントにそうだったかどうかは分からない、あくまでも僕のおぼろ気な記憶である。
そんなことが昭和34年くらいまで毎日のように続いただろうか。
ある日、母とトットのおじちゃんが喧嘩をしていた。
喧嘩とは言っても兄と妹の口喧嘩のレベルだったんだろうが・・・・・・・
それにトットのおじちゃんは母の小言を全く相手にしていなかった。
何せ9歳も年が離れてる・・・母、38歳、トットのおじちゃん47歳なのだから。
「あんまり・・・この子、連れまわさないでよ。お父ちゃんが最近煩くて」
どうやら、トットのおじちゃんがしょっちゅう僕を何かと言っては連れて歩くのが父には面白くないらしい。
父は、実に生真面目な国鉄の職員・・・ほとんど僕の顔をまともに見たことがない。寝顔ぐらいじゃあないだろうか。
今にして思えば、僕が「なつかなかった」のかも知れない。
その父との思い出は生涯たったの2回・・・・・・
父の兄、叔父が亡くなった時に父の実家、静岡県沼津に行った時。
蒸気機関車で丹名トンネルをくぐって顔を煤で真っ黒にして、それを父が手拭で拭いてくれたこと・・・・・・
沼津の海では父の見事な泳ぎっぷりに驚いたこと。
父は最期まで僕にはどことなく遠慮がちだった。
そしてそんな父は、同年代の「トットのおじちゃん」に嫉妬していたのかも知れない。
母と、トットのおじちゃんとの喧嘩。トットのおじちゃんはいつも最後にぼっそっと。
「テメエの子、かわいがっちゃあ悪いかッ !?」
そんな時僕はいつもキューッっと胸の奥が痛くなるのを、今でも覚えている。
そしてそれはついにやってきた。
「おまえはお父ちゃんの子じゃあないんだ」
トットのおじちゃんと父との口論のあとだった。
それにしても、あの時代の人たち、僕ら世代もそうだったけど、戦災孤児、生き別れ、混血児 etc........
その時代に翻弄されたのは、生まれた時代が悪かったのか。
ソレを思うと今の僕たちは数万倍幸せなはず。
今でも、トットのおじちゃんにも、父にも時々、夢で逢っている。
今度いつ逢えるかな・・・・・・・・
トットのおじちゃん
「おまえは橋の下から拾ってきたんだ」
いつも聞き分けのない僕を父も母もからかうようにそう言った・・・・・・
僕は「一人っ子」。あの時代そう言う子供は結構いた。
可笑しなもので両隣が一人っ子なのだ。
そう、両隣とも「橋の下から拾ってきたらしい(笑)。
まだ小学校の二、三年頃だったろうか、よく母の実家、豊岡村引間へ夏休みになると本町三丁目のバス停から室田経由権田行きのバスに母に連れられていった。
「まっちゃんによく似て色白で可愛い子だね・・・まっちゃん、おやげないね」
実母は満津子という名前だった・・・・・・
そこは養母の実家で、つまりはお婆ちゃんのちだが、そのころ、おばあちゃんちは村ではただ一軒の万屋を商っていた。
もちろん農業もやっていて、主に、桃、梅を栽培していた。
「今日泊まっていってもいいだろ、冨美子姉ちゃんと寝るんだ」
お婆ちゃんちには10歳と、8歳違いのお姉ちゃんがいた。
冨美子姉ちゃんは桃原、梅原によく僕を連れて行ってくれ、桃原で採りたての桃を湧き清水に浸しておいて食べる。
なんとも言えない美味しさの「天津」と言った大きくてかたい桃・・・・・・・・
今ではその強烈な酸っぱさが故、品種改良され、その美味さを味わうことはできない。
お婆ちゃんちにはその頃、オート三輪があった。
自転車のハンドルのようなのがついた大きなやつだ。
荷台に、桃とか梅をいっぱいに積んで市場まで持って行くのが僕は楽しみだった。
桃原は今の剣崎の桃が丘一帯にあった・・・・・・
僕が8歳くらいのときにはもう冨美子姉ちゃんは18歳になっていたので多分、自動車の免許は持っていたんだろう。
っていうか、あの時代は警察に行けばくれたんだとか、昭和32年(笑)。
で、冨美子姉ちゃんの運転で桃原を縦横無尽に走った。
<トットットット・・・・・>
そのオート三輪の排気音が今でも僕の耳に残っている。
おばあちゃんちの伯母ちゃん、つまり僕の実母なのだが、そのおばちゃんは昭和24年から脊椎カリエスでもう10年から床に臥していた。
つまり僕を産むとすぐに病に臥したまま伯母ちゃんはお婆ちゃんちの奥の部屋でずっと寝たきりだった。
僕ら子どもは病気がうつるかもしれないからとその部屋に入れてもらえる事はなかった。
僕の記憶からも、おばちゃんと呼ばされていた実母に逢わせてもらうことはなかった。
おばちゃん、きっと僕の声を聞いてどんなに抱き締めたかったことだろうかと、僕自身子どもをもうけて胸が痛む。
僕が小学校4年の時についにその時はやってきたのだった。
<トットットット・・・>
「あっ、トットのおじちゃんだ」
僕の家の前で、トットットット・・・とその音が止る。
トットのおじちゃんが来るといつも柔道の道場に連れて行ってくれる。
おじちゃんは、武徳殿という高崎公園の中にある武道館で柔道を教えていた。
「おじちゃんは強いんだぞ・・・ほらっ、黒帯だ」
僕にはよく分らなかったが、とにかく強いらしかった。
トットのおじちゃんは映画にもよく連れて行ってくれた・・・・・・
トットのおじちゃんと最後に観た映画は「土俵の鬼・若乃花物語」だった。
まだこの街が砂利道だらけで映画館の前にはその「土俵の鬼・若乃花物語」」の幟がはためいていた。
そして、明治19年生まれのお婆ちゃんが死んだのは僕が小学校3年の時だった。
トットのおじちゃんの機嫌がやけに悪かったのを覚えている。
トットのおじちゃんは酒が一滴も飲めない。
そのせいかどうか、昭和32年、73歳で死んだお婆ちゃんの振舞い酒に賑やかな客が気に入らなかったようで・・・・・
それまでほとんど怒った事のないトットのおじちゃんが、おばあちゃんを丸い棺桶に納める時すごい顔をしていた。
きっと、トットのおじちゃん、色んな思いがあったのかもしれない。お婆ちゃんに。
「あっちへ行ってろっ !!」
と僕を叱った・・・・・
“そういう時代”
僕には昔のことはよく分からない。大正2年生まれ、僕と同じ丑年だ「トットのおじちゃん」は。
明治17年申年のお祖父ちゃんは日清、日露戦争へ高崎十五連隊から出兵したと聞いていた。
大正2年。
一体どんな時代だったのだろうか。
欧州の戦争で好況に沸く皇国「日本」。そして昭和に入って「世界恐慌」から、太平洋戦争。
「トットのおじちゃん」
束の間の青春だったのかも知れない。
「トットのおじちゃん」は毎日のように高崎の僕の家にきていた。
<トットットット・・・>
と排気音を鳴らしながら・・・・・・
僕が小学校3年の頃には丸ハンドルの「マツダ」のオート三輪に替えていた。
僕はその「オート三輪」が自慢だった。
当時、昭和32年頃にオート三輪なんて言うのがあるなんて高崎では珍しかったからだ。
「トットのおじちゃん」は僕が学校から帰るのを待ってましたとばかりに・・・・・・・
そのオート三輪に僕を乗せて市場やお得意さんを回った。
「マルヨさんには似てねえな・・・」
「ああっ、オッカア似だからな」
トットのおじちゃんは目配せをするようにいつも小声でそう言った・・・僕に聞こえないように。
ずっと不思議に思っていたが、僕にはそのことが何のことだかはあまり分からなかった。
と言うより、知りたくなかったのかも知れない。
「マルヨさん、今度バナナとモヤシこっちに廻してくんねえかい」
「モヤシはいいが、バナナは統制かかってるしな」
マルヨとは、トットのおじちゃんの市場での屋号、仲買もやっていたのでみんながそう呼んだ。
よくは知らないが戦友とかがこの地域のバナナの権利を持っていて相当いい商売をしていたらしい。
もともとその戦友、今風に言えばベンチャー企業化か、モヤシの製造を始め・・・・・・・・
そのモヤシを作るときの蒸気かなんかで青いバナナを蒸すんだと言っていた。
ホントにそうだったかどうかは分からない、あくまでも僕のおぼろ気な記憶である。
そんなことが昭和34年くらいまで毎日のように続いただろうか。
ある日、母とトットのおじちゃんが喧嘩をしていた。
喧嘩とは言っても兄と妹の口喧嘩のレベルだったんだろうが・・・・・・・
それにトットのおじちゃんは母の小言を全く相手にしていなかった。
何せ9歳も年が離れてる・・・母、38歳、トットのおじちゃん47歳なのだから。
「あんまり・・・この子、連れまわさないでよ。お父ちゃんが最近煩くて」
どうやら、トットのおじちゃんがしょっちゅう僕を何かと言っては連れて歩くのが父には面白くないらしい。
父は、実に生真面目な国鉄の職員・・・ほとんど僕の顔をまともに見たことがない。寝顔ぐらいじゃあないだろうか。
今にして思えば、僕が「なつかなかった」のかも知れない。
その父との思い出は生涯たったの2回・・・・・・
父の兄、叔父が亡くなった時に父の実家、静岡県沼津に行った時。
蒸気機関車で丹名トンネルをくぐって顔を煤で真っ黒にして、それを父が手拭で拭いてくれたこと・・・・・・
沼津の海では父の見事な泳ぎっぷりに驚いたこと。
父は最期まで僕にはどことなく遠慮がちだった。
そしてそんな父は、同年代の「トットのおじちゃん」に嫉妬していたのかも知れない。
母と、トットのおじちゃんとの喧嘩。トットのおじちゃんはいつも最後にぼっそっと。
「テメエの子、かわいがっちゃあ悪いかッ !?」
そんな時僕はいつもキューッっと胸の奥が痛くなるのを、今でも覚えている。
そしてそれはついにやってきた。
「おまえはお父ちゃんの子じゃあないんだ」
トットのおじちゃんと父との口論のあとだった。
それにしても、あの時代の人たち、僕ら世代もそうだったけど、戦災孤児、生き別れ、混血児 etc........
その時代に翻弄されたのは、生まれた時代が悪かったのか。
ソレを思うと今の僕たちは数万倍幸せなはず。
今でも、トットのおじちゃんにも、父にも時々、夢で逢っている。
今度いつ逢えるかな・・・・・・・・
トットのおじちゃん