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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション  at 

2016年05月12日

僕の細道「八間道路」


半世紀以上その姿を遺す喫茶「もりえ」


それは僕にとって初めての旅立ちだったのかも知れない。

僕の細道“八間道路”

齢い67にして思えばそれは幼い頃夏の風物詩・・・・・

八間道路の「夜店」。

僕は銭湯「東湯」の帰り道、いつもその「夜店」を母にねだった。

そう、あの昭和30年代夕方、いつもの買い物といえば母に手を引かれての八間道路だった。

それは、その頃どこの横丁にもあっただろう、商店街の賑わいがそこにはあった。
東小学校の通り、“東一条通”と“八間道路”の交差する角には道しるべのようにして天田自転車店。
その辻向かいの小商いには“神田菓子店”とたしか、ナントカ園とかいったお茶舗だったかあってその向かいには金魚屋が?
真夏には毎日のように通った「東湯」。それはその八間道路の四角から駅方面へ100メートルほどのところに。

今では都市計画とかですっかり新改築されて小洒落た自転車店の趣の“街の自転車屋「天田自転車店”の看板が。
その天田自転車店、先々代がどちらかで自転車店修行ののちに戦後すぐ、そこに商いをはじめたと、先代から聞いた。
その先代も数年前黄泉の国へと旅立たれ、今はその御子息がお世継ぎ、つまり「天田自転車三代目」に。

神田菓子店は僕の娘たちも東小学校時代には結構お世話になった。
僕らの時代は神田菓子店といえば“高級菓子店”の趣でお使い物などに母が時々お邪魔するくらいでそれは高嶺の花だった。
またその隣にはやはり菓子店で「太陽堂」というのがあって、そこは僕の同級生の家が商っていて、それは小売というよりは問屋だったような。
記憶の限りだが、その「太陽堂」の社長というかおじさん、三代目「三遊亭金馬」の趣でありながらどこか厳つい・・・・・・
それもその筈、元ボクサーで、夜店の頃になるとイヴェントで古刹「法輪寺」の境内でのボクシング大会ではレフリーを勤めていた。

お菓子といえば僕らの時代はそう、駄菓子屋が花盛りだった。
まあ、とにかく団塊世代、その東小学校の児童生徒数1,000人超で、5円、10円の商いだがその市場規模は絶大だったに違いない。
しかし、それは戦後、まだ10年チョイ過ぎの話だから今日日の不況どころの騒ぎではない。
それどころか食糧統制の時代砂糖、塩、米が配給からようやく専売になった頃のことで食品衛生もへったくれもなかった。

駄菓子屋のそれはその後大いに騒がれた“サッカリン”、“チクロ”にまみれた賞味期限とか消費期限なんかは皆目。
今ならそれこそそんなものがスーパーに並ぼうものなら今日の“食品偽装”どころの騒ぎではないだろう(笑)。
まあ、今でこそ大企業だが、あの「森永エンゼル」だって出自はそんなもんだろう。GHQだまくらかして砂糖を手に入れていたんじゃあないの。

で、そんな駄菓子の中で僕の“ベスト3”は、

第一位・・・・・・ソースイカ
第二位・・・・・・ボタンキョウ
第三位・・・・・・いもようかん

それはご案内の、サッカリン、チクロまみれの駄菓子です。・
それをたらふく喰らってきた僕らのジンバラはそう考えると相当に鍛え上げられているようだ(笑)。
ちっとやそこらのことではそう簡単にはくたばらない。
僕ら世代が言われる“後期高齢者”になった今日日、食いもんには鍛え上げられた爺婆がそこいら中に屯する。
想像しただけでも恐ろしいというか可笑しいというか、まあ、現実そういう時代になっているのでは。

とにかく母に連れられ毎日のようにお使いに行った八間道路の魚屋。
それは八間道路というより数年前まで珈焙屋とかいう小じんまりとした珈琲ショップになっているところの角をちょいと入った、
そう、実は旧道、“大類里街道”の角にあった魚屋、残念、屋号を失念してしまった・・・・・・
その魚屋さん、今は・・・・・あそこは旭町になるんだろうか、真町になるんだろうか、そこのご長男が僕の長女と同級生。
その魚屋さん、都市計画で拡張された東一条通の高層マンション立ち並ぶ一角に暖簾を構えている。

あの時代の夕飯といえばほとんどが旬の魚。
贅沢のようだがなにせ「電気冷蔵庫」というものが存在しなかった時代のこと、とはいえそのおかげで四季折々を食していた。
実は僕は魚は好きなんだが食べるのが得意ではなかった。
さんまも実に美味しいのだがどうもあの骨が苦手、それとあのハラワタを上手くよけられず、
僕が食べたのは尻尾のほうばかり食べていた。

「頭のほうを食わねぇとエラクなれねえぞ!!」

と、いつも父に言われていたことを思い出すが、頭のほうをいつも専門に食っていた父だったが・・・・・
それほどエライ人になっていたとは当時も思っていなかったので、

「エラクなれなくてもいいもん」

と、僕はもっぱら母が上手い具合に骨を取り除いてくれた尻尾のほうを食っていた。

田村という屋号の畳三畳を横に並べたほどの八百屋が、そのかつて珈焙屋だった所の対面にあった。
野菜はいつもそこで買っていた。

その先には江戸吉という鮮魚店、をざき文具店(どういうわけか“お”ではなく“を”)、松源自転車店、宗塚青果店、
路地をはさんで山口精肉、浦野履物店、春山豆店、すかや・・・・・

八間道路の“すかや”

それはすでにない。
しかし僕はなんといっても“そば”は『すかや』だった。
因みに、ラーメンは『成吉思汗』、餃子、焼きそばは『らっちゃん』、スパゲティは『シャンゴ』、やきとりは『ささき』だ(笑)。

実は、その“すかや”にアルバイトを高校生の頃やっていた知り合いがいた・・・・・
その知り合いが言うには、「“すかや”の漬け汁はそんじょそこらの漬け汁とは漬け汁が違う」と、たいそう自慢げに言っていた。
聴けば「たしかに!!」であった。とにかく出汁を取るかつおの削り節を天日に干して手間暇をたっぷりかけるんだとか。
そんなわけでその「すかや」のそばの美味さはどうやらその漬け汁にあったようだ。
もちろん、あそこでおばさんたちが手際よく茹で上げるそばの美味さもあったのだろうけど・・・・・

八間道路には同級生もかなりいた。

ざっと数えただけでも田口君(理容所)、春山さん(豆菓子店)、藤木君(喫茶もりえ)、浦野さん(下駄草履店)、柴田さん(葬祭店)、宗塚さん(八百屋)、田口君(茶舗)、宮口君(豆腐店)、阿部君(鳶職)、
まるで“ちびまるこ”の世界ではあるが、とにかく東小学校の児童生徒数が1000人超いた時代の話なのだから・・・・・

その“1000人”からの小学生の数からも、その八間道路の賑わいが想像できる。

そうそう、その八間道路には当時ではハイカラなご案内の喫茶店“モリエ”なんていうのがあった。
僕が小学校3年の時(昭和32年)にはすでにあったのだから超ハイカラ、僕の同級生、上記の藤木君の家が商っていた。

澤田模型店

あの時代の僕らには夢の世界がそこには広がっていた。
エンジンつきの模型飛行機やら鉄道模型、まだプラモデルといった代物が出現する以前の話だ。
小学生だった僕らはその澤田模型店の前で指をくわえて立ち尽くすのが精々だった(笑)。

その辺はいつしかボクシングジムに変わっていた、なんと言ったか、そこには“銭湯”があった。
僕が通った銭湯はご案内の旭町の「東湯」。
もっと小さい頃母と行ったのは椿町の“椿湯”だったが、いつしか知らぬ間にその銭湯の煙突からは煙が消え・・・・・・
そして煙突も消えて、半世紀から経った今ではその面影すらどこにもない。

僕の細道“八間道路”

その先は電車通り(昭和28年廃線)、そして銀座通り、通称「チュウー銀」へとつづく。
えびす講には八間道路を抜けて電車通りから「うろころ」、「チュー銀」。

まさに八間道路は僕にとって“新世界”への入口だった。

  


Posted by 昭和24歳  at 09:04Comments(0)

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