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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション  at 

2016年02月24日

横丁物語

横丁物語



“高砂町”序。

高砂町は日清製粉と東小学校の裏門の入り口からを起点に始まる、“高砂町一番地”。

そのとまくちは、弓町がわに武田文具店。高砂町側が山田畳店、対面かぎ状の交差点、九蔵町側が中村パン店。
そこは辻違いに弓町、九蔵町、そして高砂町が絡まるようにしてあった。
正式にはその横丁の表通りを、「東二条通り」というのだそうだが、僕は一度もそこをそう呼んだことはない。
その高砂町一番地から北へおおよそ、百メートルあるかないかの所が僕にとっての「横丁」だった。

高砂町は(上)と(下)に別れていて、はっきりしたことは知らないが僕の横丁辺りは(下)で、その高砂町を二分していた「五本辻」から向こうが(上)と言われていた。
僕の“横丁”はその高砂町一番地から一八番地辺りの「五本辻」までと、その東二条通りから日清製粉工場敷地手前の袋小路からなっていた。

その横丁の東には今は高層マンションが立ち並びかつての趣を偲ぶものは全て消し去られた。
元々そこには広大な日清製粉高崎工場があり、そのはるか向うは上越線、信越線、両毛線が走っていて・・・・・・・
その時代は蒸気機関車、SLやら最新式の電気機関車が轟音をたてて忙しく往来していた。

日清製粉は一年中、昼夜を違わず製粉機械の止まることはなかった。
その製粉工場の大きさといったら、ビルにしたら一〇階以上はあったのではなかっただろうか、円筒形のサイロ。
巨大な粉挽き機械の「ゴーッゴーッゴー」という音が、その異様に大きな建物と重なるようにしていまでも目に浮かぶ。

日清製粉はご存知、館林財閥の「正田家」の会社だ。
子どもの頃に噂で耳にした話だが、なんでも今上皇后、ご幼少の折にはそこ、日清製粉高崎工場をお訪ねになったとかならなかったとか。
というわけかどうかは知らないが僕の家の小路に面してその当時「テニスコート」なる物がその日清製粉にはあった。
さすが正田家の日清製粉、その頃はこの辺の工場ではテニスどころか社員、従業員が日曜休日にスポーツなどという時代ではなかったのだからいずれにしてもそのハイカラさを窺い知ることが出来る。
その日清製粉の塀づたいに小路を北へ詰めた所にその日清製粉高崎工場の“社宅”があった。

それは財閥系大企業・・・・・・

今にして思えば、あの時代「工場勤め」とはいえその横丁界隈ではエリートの趣でした。
その社宅に住む僕の同級生などは通っていたのは「高崎保育所」ではなく「聖光幼稚園」という私立のキリスト教系の洒落た奴だった。
典型的な「社宅族」、ニューファミリーで、当時、昭和30年代、、まだ世間では“ボーナス”などという贅沢ないただきモノはなかったように思うが、その時代に「クリスマスプレゼント」とか、同級生たちは騒いでいたように記憶している。

もちろん、電気洗濯機、電気冷蔵庫、テレビと・・・・・・
あの時代のこと、その日清製粉社宅の甍、屋根という屋根には“テレビアンテナ”が見る間に林立して、横丁の垂涎を誘っていた。

今はその面影さえない。それがあったことさえ知る人もいない。そこに育った子どもたちが高齢者と呼ばれる時代。
何もかもが変わってしまっている。
そのことが良かったのか悪かったのか、そんな思いが時々そこに立ったとき交錯する・・・・・・

高砂町(上)

 大川と染物工場。

ここ高砂町には僕らが子どもの頃、「大川」と呼んでいた。
それは箕郷、榛名、そして高崎北部の農業灌漑用水を源流にする「長野堰」が町内を南北に分けるようにして流れていた。
その長野堰は高崎市北部の並榎町辺りからその川沿いに何軒もの「染物工場」が林立していた。今では観ることもないが昭和四〇年頃まではその長野堰で染色上がりの布を川に流し、さらしながら大きな屋上の物干し台にそれを棚引かせるのが風物、風景だった。

高砂町(上)には、戦前戦中は軍需工場だった小島機械、水島鉄工所があり、昭和の30年代までは忙しくしていた。
その辺に昭和も終わる頃には7階建ての市営住宅が建ち、丁度、バブルと騒がれていた頃、その左手、高崎でも最大規模の染物工場跡には高層マンションが2棟も並んでいる。
随分と様変わりしたものだと心なしか侘しい。もちろん日清製粉高崎工場も跡も形もない。

その長野堰、大川沿いに、高崎随一の染物工場「川上染物店」があった。

その、川上染物店は僕の同級生「川上君」の家が当時何代続いていたか詳しくは知らないが経営していた。
僕は、小学校の頃その川上君ちの染物工場でよく遊ばせてもらったことを今でも良く憶えている。高崎一番の染物工場と言うだけあって、それは同じ町内であってもその「横丁」のそれではない。

川山染物店は、あの時代に「勝手口」なる玄関があった。その当時、勝手口などと言う物がある家はそうはなかったのではないだろうか。
その広さは盾には一〇〇メートル近くはあったのではないだろうか。そしてその川上君ちの工場には天を突くような高く、デッカイ煙突が聳え立っていた。
「お店」と言われた正面玄関はまさに名にしおう大店と言った趣で、上がり端の帳場にはその川上君のおばあさんが、高貴な、やはり大店の「女将さん」といった趣でいつも「シャン」っと座っていた。
川上君のお母さんは織物では全国でも有数の桐生市の、やはり織物問屋か、染物工場かか、そんな大店のお嬢さんで、高崎に嫁いで来たのだと川上君が言っていた。
やはり大店の、良いとこのお嬢様らしく、とてもじゃあないが横丁のオバサン、僕のオフクロなどとは「月とスッポン」、なんとも言えない、今風に言うならセレブな趣をなしていた。
まあ、戦後、昭和30年代のあの時代相当の大大尽だったに違いない川上染物工場。

電話室

昭和三〇年そこそこで、テレビはあるわ、僕の背丈ほどもあろうと言う「電蓄」、それよりもなによりも驚かされたのが、なんと、家の中に「電話ボックス」があるではないか。
まだここら辺りの横丁、どこの家にも電話の「デ」の字もない頃の話なのだから珍しいの珍しくないのと言ったら半端ではなかった。
ガラスの格子戸と、真鍮の重厚な取っ手のついた電話ボックスの扉には「電話室」と重々しく書かれていた。
僕はあまりもの物珍しさにその電話ボックスから出たり入ったりして川上君ちの番頭さんに良く叱られたのを憶えている。
もちろんその頃の僕の家なんかにはテレビなんて言う近代的文化的家庭電気製品などはまだなかった頃だったので、なにが楽しみったって、川上君ちで見せてもらう「ララミー牧場」が最高の楽しみだった。
もちろん川上君はそのララミー牧場の「ジェス・ハ―パー」を真似て、本物そっくりのモデルガンを得意げに「クルクル」っと回しながら早撃ちのポーズをとって見せるのだった。

「渡辺―――ララミー牧場ごっこしようぜ」

川上君は僕と遊ぶ時はいつもそれを楽しみにしていた。

「ララミー牧場ごっこ」とは、もちろん拳銃の早撃ちの真似もあるのだが、ジェスとスリムが殴り合いの喧嘩をするシーンの再現である。
どっちが、ジェスで、どっちがスリムだったかは・・・・・?
たぶん交代々々だったとは思うがどっちにしても、いつもテレビではジェスが喧嘩に勝つ。そのことで時々僕と川上君、よく仲違をした。

そう言えば、川上君ちにはピアノもあった。

そのピアノを弾く真似をした。と言うのはララミー牧場の「スリム一家」にいていつもピアノを弾いていた爺や。
その爺やがあの「ホーギー・カーマイケル」だった。
名曲「スターダスト、我が心のジョージア」の作曲家だと言うことを後々僕の仕事の中で知った時はなんともいえない感動を覚えた。

川上君の本物そっくりのモデルガン「コルト45」とガンベルト。きっと、お父さんに買ってもらったんだろう。僕は羨ましくて、羨ましくて仕方がなかった思い出がある。
 
その川上君・・・・・

今では会うこともほとんどないが、市役所の幹部になっているようだったことが広報に載っていた。
顔つきはお母さんそっくりで、頭髪こそ白いものが大分目立ってはいたが、その笑い顔は小学校六年の 時に川上君のお母さんに撮ってもらった川上君との写真、野球のユニホーム姿で笑っている川上君そのものだった。
時代の盛衰か、その染物工場は昭和が終る頃にはなくなっていた。

スポーツカー「MG」に跨る若き日の平成の大勲位

高砂町の(上)は広い。(下)に比べたら三倍はあるのではないだろうか。
恒例の「毎日元旦駅伝」のある国道356、駒方街道を跨いでもまだ高砂町(上)なのだ。その辺りどちらかと言うと豪邸の立並ぶ「お屋敷町」の趣き。
高砂町(上)には末広町とは背中を合わせてあの平成の大勲位「中曽根康弘元内閣総理大臣」の事務所があり、その大勲位のお建てになった「青雲塾」なる会館もそこにある。

大勲位と言えば、僕が小学校の頃は選挙と言えば高砂町「五本辻」で決まって演説をしていた。
高砂町の五本辻の辻角には渡辺薬局、魚市場、朝日材木店、堀越専売所と煙草屋、確かそこには赤い郵便ポストが立っていて向いには鰻の寝床のような飯島靴製造所があった。隣にウスイ理容店。
よくは知らないがあの辺りの横丁のスーパースターの趣の当時の大勲位。当時は科学技術庁長官。高崎に「原子力研究所」を作る作らないとかの頃ではなかったか。

それは、今から五五年ほども昔の話だから、大勲位、その時、御年四〇なったかならないか。そんな時代のある選挙の時の話だ。
高砂町五本辻での演説に大勲位、白塗りだったかクリーム色だったかのスポーツカー「MG」(だと思ったが)に、まさに跨るようにして「白馬の騎士」よろしく颯爽と万雷の拍手歓声の中来た。

「え~、高砂町、ご町内の皆さぁ~~~ん」

たしか白っぽい高級な背広に身を包み、背筋をシャンっと伸ばすと、ちょいと顎を引いた風にして白手袋に襷がけでそう切出した。
その襷には「衆議院議員候補中曽根康弘」とある。

まあ子どもの僕らにしてみれば、まだ自動車だって物珍しい時代だって言うのに、なんとスポーツカー、それも「外車」。
格好いいのなんのって半端じゃあなかった。しかも身の丈はそん所そこらの横丁の親父よりは頭ひとつデカイ。
マイクロフォンを握らせればあのバリトンがかった、一語一語がはっきりとした物言い。
近所のオバサンときた日には「ポ~っと」なっていたようないなかったような。
 それに、高砂町と言えば、婦人会の「あやめ会」。それは「中曽根康弘ファンクラブ」の趣き。
それこそ横丁の玉三郎、と言ったかどうかは知らないが、横丁、路地裏のご婦人方のアイドルであったことは「間違いない」。

大勲位、お生まれも、お育ちも、高砂町のお隣、末広町の貴公子。
で、町内、そのご婦人方の中には小学校当時の同級生も沢山居られたご様子で、横丁のオバサンたちの、

「やっちゃ~~~ん、やっちゃ~~~ん」

〈素敵―――っ!〉と、言ったかどうかは知らないが、そうした黄色い声が耳元に残っている。
キリっとした太い眉毛、目鼻立ちはどう見ても横丁のそれではない。
まあ、大勲位が大勲位だから取巻きの後援者もこの街の名士と言うよりは、ノリノリの「若旦那衆」の趣で、そんな戦後昭和の横丁に、突然として、いきなり大輪の花が咲いたような感じだった。

時々、テレビで見る大勲位。このところはご無沙汰だが・・・・・

その大勲位もそろそろ卒寿で大分お疲れのご様子。
既にその「あやめ会」、ファンクラブの横丁のオバサンたちのほとんどは鬼籍に入ってしまっている。

そしてそんな横丁は・・・今はない。

横丁物語



  


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