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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション  at 

2016年01月12日

日経平均、日経平均均、年金溶けてシンゾーの悪い

日経平均、日経平均均、年金溶けてシンゾーの悪い



日経平均は一時500円超安、原油相場・中国株の警戒感で
[東京 12日 ロイター] - 東京株式市場で日経平均は6日続落。下げ幅は一時500円超となり、終値は昨年9月29日以来、約3カ月ぶりの安値を付けた。

原油価格の下落や中国株への警戒感が重荷となり、処分売りが優勢となる展開。東証1部銘柄の97%が値下がりするなど全面安商状となり、年初からの日経平均の連続安日数記録を更新した。

午前10時15分に発表された人民元の対ドル基準値はやや元高方向に設定されたほか、序盤に節目の3000ポイントを下回った上海総合指数.SSECも売り一巡後はプラス圏で推移。ただ日本株には買いの手が伸びず、後場に一段安となった。

米原油先物CLc1が31ドルを割れ、2003年12月以来の安値を付けたことも嫌気された。日経平均ボラティリティ指数.JNIVは31ポイントを上回り、終値は昨年10月6日以来の水準まで上昇。「空売り比率は連日40%を超えているが、買い戻しは入らず、むしろ売り方が勢い付いている」(国内証券)という。

<抜粋引用:ロイター 2016年 01月 12日 15:45 JST>
http://jp.reuters.com/article/tokyo-sto-idJPKCN0UQ0KW20160112

とけて流れてノーエ とけて流れてノーエ♦♫♦・*:..。♦♫♦*゚¨゚゚・*:..。♦

まあ、下級国民には株なんて縁が無いし、あってもゴミ扱いですから(笑)。

でも、日本政府、宦官の股くぐりで下級国民の年金140兆円を宗主国様の言うとおり株ですから・・・・・

アベノミクソとかも、時間の問題でしょう。

そら、まともな国っていうか、政治なら「年金」を株式運用してませんし。

宗主国様でさえ、年金、ガチガチで運用ですから(笑)。

もっとも、日本政府っていうか、内閣総理大臣なんて執事ですから、宗主国「銃社会」ですから、逆らえません。

そんなわけで、日本の政治は誰がやっても同じ、まあ、アレでできるんだから誰でも・・・・・・

そんなわけで、円高、言ってましたね。たしか損益分岐は「105円」とか。

まあ、80円でも下級国民、そのほうが元気でしたし、輸入物価下落だし、GDPの10%しか稼がない上級国民が逃げ出すだけですから。

下町の中小零細企業、切り替えたら、いい商売できます。

だって、1ドル100円になったら、ガソリン80円くらいでしょ、たしかその昔・・・・・・

そしたら、中国人の爆買いはなくなるけど、中国だって目を覚まして下請けでせっせと頑張ればいいんだし。

そんなわけで、政権は真っ青かもしれませんね。

日経平均、日経平均均、年金溶けてシンゾーの悪い

  


Posted by 昭和24歳  at 20:00Comments(0)

2016年01月12日

おスエちゃん、青春とはなんだべ・・・

おスエちゃん、青春とはなんだべ・・・



 その頃僕は、「渋谷ジャンジャン」のオーディションには受かったものの練習というか、特訓の毎日だった。
 リハーサルでは松岡さんにケチョンケチョンに貶される僕に、社長の高嶋さんはこう言った。

「渡辺君・・・本番までに何とかなるな」

「はぁ・・・なんとか頑張ります」

 僕はそう言うのが精一杯だった。

その間も、「渋谷ジャンジャン」では毎月第三金曜日が「松岡計井子ビートルズを歌う」のプログラムになっているので、一回、二回と「大木トオルブルースバンド」のドラマー「成沢さん」と言う人が、どうしても上手く行かない僕の代わりに叩いた。

そんなある日、社長の高嶋さんが僕を呼んで言った。

「今度、うちのプロデュースで文楽の近松門左衛門「夫婦心中」のロック版をここでやるんだ。まあ、渡辺君・・・頑張れよ」

社長の高嶋さんは〈心配するな〉っと言うように僕に言った。

〈そうか・・・完コピのビートルズよりは上手くいくかも知れないな〉

 僕はそう自分に言い聞かせた。

しかし、数日後その企画の打合せに呼ばれていろいろと話を聞くうちに、僕は情けないことにすっかり自信を無くしてしまっている自分に気付いて憔悴しきってしまうのだった。
 いやぁ、流石、東京と言うか、中央のレベルは格段と違う。そもそも考え方からして違う。実力とか何とか以前の問題でその空気と言うか、迫力というか。それまでは田舎では敵なしのつもりでいた僕だったが、甲子園で言えば、初戦、「コールド負け」と言った感じだった。

 僕がオーディションに受かった、今回の松岡計井子さんのプログラムはビートルズ「ホワイトアルバム」と「アビ―ロード」をレコード通りに進行する。バイオリンもマリンバも一流のセッションプレイヤーを参加させてのゴキゲンなやつなのだと社長の高嶋さんは言っていた。
「カム・トゥギャザー」とか「ユー・ネバー・ギブ・ミー・ユア・マネー」、これなんか最も僕の好きなビートルズで絶対にやりたいと思っていたのだったが、イザ、やってみると難しいの、難しくないのって、もう無茶苦茶な「タイミング」。
 テクニックはけして難しいはずはないのだが、なんなんだろう・・・何度やっても合わない。タイミングが。

僕は言い訳がましく松岡さんに言った。

「すみません・・・譜面ないでしょうか」

「譜面・・・?」

松岡さんは訝るように僕を見ながら言った。

「譜面ねぇ。渡辺君、あなたが初めてだわ・・・コピーできないの」

「コピーしているつもりなんですがどうしてもタイミングが」

「アルバム、行ってるでしょ・・・何度も聴いてよ、何度も」

 どうしても上手くいかないリハーサルに「松岡さん」の苛立ちも限界に達していたようだった。

「渡辺君、あなたやる気あるの」

 僕は言葉がなかった。

 その様子を察してか、松岡さんの言葉を受けて、高嶋さん、僕に助け舟を出すようにして言った。

「今日はこれくらいにしよう。渡辺君、譜面用意させるから。とにかく初めてだものな渡辺君、こう言うの」

 まさに「穴があったら入りたい」とはこのことなのではないだろうかと、情けないを通りこして一刻も早くその場を逃げ出したい心境だった。

 憔悴しきったまま楽器の片付けをしている僕に高嶋さんは声をかけてきた。

「渡辺君―――話があるんだが」

ん・・・これは、てっきり「クビ」を言渡されるのかと覚悟を決めた僕。

「渡辺君、ギター誰かいないか・・・ほら、ギターの松本君今度のホワイトアルバムで、もう辞めたいって言ってるし、またオーディションて言う訳にも行かないからね。それにトラって云うわけにも行かないし、出来ればメンバー固めたいんだハウスバンドの」。

 すっかり自信を無くしてしょ気かえっている僕に高嶋さん

「松岡のこのプログラム、ジャンジャンの売りだしね。まあ・・・松岡も完全主義だからな、大変だろうけど何とか頑張ってよ。あっ、そう、ほら、ギター弾くって言う子、この間、大木さんの時に紹介してくれたじゃないの。ブルースやってるって言う友達。やる気あるか聞いてみてくれないか。今度つれてきてよ」

ありがたい話だったが、すっかり自信を無くしている僕に、ギター、それもお末ちゃんを連れて来いって言うんだから、それはいい話には違いないが、お末ちゃんが「ビートルズ」やるわけないしな・・・と、いっそう気が重くなってしまった。

翌日僕は思い足取りで池袋のお末ちゃんの所へ行った。もちろんダスキンの営業のアルバイトをするためだったが。

「お末ちゃん―――実はさ、ジャンジャンの高嶋さんがお末ちゃんにギターをやらねえかって云うんだ」

「知ってると思うが、当然ビートルズのーーー」

お末ちゃん、特に驚きもせず「へ――」って。

「実はさ、俺、もう限界なんだあのビートルズ。兎に角レベル違い過ぎるよ、他のミュージシャンバイオリンも、ピアノも一流なんだからやんなっちゃうぜ」

 僕とお末ちゃんは何時ものように、池袋西口の「焼きそば」を食べ、歩いて、大塚の「ダスキン」のアルバイトへ向かった。

 結局僕の青春は「意気地のない」青春だったと、ほろ苦さでいっぱいだった。

おスエちゃん、青春とはなんだべ・・・

  


Posted by 昭和24歳  at 10:56Comments(0)

2016年01月12日

おスエチャン!

おスエチャン!



デビュー当時はあまり関心なかったけれど、革命同士であったように思います。 当時はむしろ、アル・クーパーの存在が大きかったように覚えています。 「スタジアム」で何が聴きたいか、キサブローから尋ねられた時、『super session』と答えて、このギター誰かに似てるとか、ベースは? おスエチャン!と言ったように覚えています。 70年代を引っ張ってきたのは、俺たちだという実感がありました。 青い森は雪が降り積もっています。

青い森の古聖

>キサブローから尋ねられた時、『super session』と答えて、このギター誰かに似てるとか、ベースは? おスエチャン!と言ったように覚えています。

嬉しいですね、まあその意味では僕とおスエちゃん戦友です。

今でこそ屍を横たえるかのようにし過ごす日々だけど、あの血潮に燃えた青春の一コマがつい昨日のよう・・・・・

>70年代を引っ張ってきたのは、俺たちだという実感がありました。

 お末ちゃんが池袋西口に高崎時代からの彼女、「スミちゃん」と同棲を始めたのはその三ヶ月ほど前のことだった。
 池袋駅、その西口から山手通りの方に一キロほどのところだっただろうか、「東京トヨペット」池袋営業所の前の路地を入った、所謂「1DK」と言うやつかだっただろうか。昭和45年、新井薬師、6畳ひと間僕の一人暮らしとは違って「お末ちゃんとスミちゃん」愛の巣は青春の物語がぷんぷんしていた。

 何の事はない、高崎を出る時既に二人は硬い契りを交わしていたのだった。スミちゃんは高校を卒業するとデザインスクールへ入学するために東京へ行くことになっていたらしい。
 その時分、流行はじめの「専門学校」へ通う為の上京であったが上手く示し合わせて、お末ちゃんもミュージシャン、ギタリスト修行の「東京生活」を決めていた・・・・ようであった。

 まさに「神田川」・・・かぐや姫じゃあないが忘れられない一生のアルバムの一ページではなかっただろうか。と言うのも、今、二人は共に、66と62。そして一姫二太郎、挙句に孫と、幸せな家庭を築いている。

「専門学校」と云えば、あの時代「セツ・モードセミナー」とか「千代田デザイナー学院」、そして「東京デザイナー学院」とか・・・全国から「夢見る若造」が集るようにして、東京へ、東京へと来ていた。
 なんのことはない、僕もその「若造」の内の一人。バンドブーム「GSブーム」も去りロックシーンとしてはハードロック系フォーク系が入り乱れていた頃で、その頃高崎の時代から目覚め始めていた「ブルース」の、ミュージシャン修行のつもりで一人、東京に出てきた。

 丁度その頃のミュージックシーンは、なぜかその黒人音楽の「ブルース」が静かなブームを呼び始めていた。
 と言うのも、ヴェンチャーズ、ビートルズ、グループサウンズときた僕らの時代も、アメリカのロックの祭典「ウッドストック」を契機に、ジミー・ヘンドリンクス、ザ・バンド、オールマンブラザースとかのように次第次第に「ブルース」にシフトして行った。

 もっとも高崎にいた頃から、ジョン・メイ・オール、マウンテン、そしてブリティッシュロックからブルースに変っていった、エリック・クラプトン、ジェフ・ベックそれらをコピーして自己陶酔の世界に嵌っていたのだった。

「ナベさん・・・これ聴かなくちゃ、これ」

 そう言ってお末ちゃん、御茶ノ水のディスクユニオンとかで買い集めた「マディー・ウオーターズ」、「BBキング」、そしてさらに渋めの「T・ボーン」とかを、何度も何度も僕に聴かせた。
 既にダンスホールも下火になっていて。僕らがいつも出演していた「みゆきダンスホール」もその頃は客もまばらだった。もっとも、ブルースじゃあ踊れないし(笑)。

「堀さん・・・もっと踊れる曲やってくんなくちゃあ」

 みゆきのママもその時代の移ろいを感じながらもバンマスの「堀さん」こと、お末ちゃんの兄貴のベーシスト、清美ちゃんにこぼすように言うのだった。

 お末ちゃんたちは先に東京でバンド活動をしていた「オトヤ」と「南阿佐ヶ谷ブルースバンド」のベーシスト「丸山さん」、そして彼、丸山さんが連れてきた、「キサブローさん」に、未だ当時は無名だった「なぎら健壱と缶けり仲間」と云うばんどに参加していた「志保くん」と「くもすけバンド」と云う変な名前のブルースバンドを組んで新宿ロフト、マガジン1/2、西荻窪のロフトとかでブルースをやっていた。でライブ活動をしていたのだった。

「マガジン1/2」ではブルースバンドとしては当時新進気鋭の「ウエストロードブルースバンド」との対バンもこなしていた。

「ウエストロードブルースバンド」

 それは、今ではその筋では多くのファンを持つ、国内トップブルースギタリストの「塩次伸次」さん、そしてボーカルの「ホトケ」さん、ついでと云っては失礼だが山岸さんは未だ学生で店の中を飛び回っていた。
 それになんと云っても光っていたのがリズム隊の松本さんと小堀さん、それにブルースハープの第一人者妹尾さんの豪華メンバーだった。

 くもすけバンドは新宿の「御苑スタジオ」で練習をしていた。リーダーはギターボーカルのキサブロー。「くもすけバンド」はキサブロー作詞作曲の日本語オリジナルのブルースしかやらなかった。

「参っちゃうんだよな、日本語でブルースだよ」

 と、お末ちゃん。・・・・・

 お末ちゃんは高崎にいる頃からジョンメイオール、ピーターグリーン、マディーウォーターなんかに嵌っていたから今一、その「日本語オリジナルブルース」に乗り切れない様子だった。
 お末ちゃんはグレコのレスポールモデル、キサブローは確か「SG」。本物のギブソンだったかグレコだったかは記憶に無いが。

 ボーカルの志保君は何でも北陸の方の出身(ホントは青森)でヒョロットした、コミカルな未だ少年ぽさの残る愉快な奴だった。なんでも「商船高校」、船乗りの学校を出ていたと云うが「海の男」の匂いは感じさせなかった。ただ、声は「海」で鍛えたかのようなハスキーでブルースにはうってつけの声をしていた。
 ひょうきんで「MC」もかなりいけていて、後で気がついたのだが「なぎらけん壱と缶けり仲間」だったのも頷けた。

 丸山さんは、東武東上線の上板橋に住んでいた。何度か訪ねた事があるが今風に云えば、フリーター兼バンドマンでどことなく人の良さそうな都会っ子風の青年であった。
 赤穂浪士討入りのようなヘアースタイルで、たしかホンモンの「フェンダープレシジョンベースを弾いていた。当時は「南阿佐ヶ谷ブルースバンド」のベーシストとして中央線沿線では幅を利かせていたようだ。
 荻窪、新宿の「ロフト」、「マガジン」と丸山さんの関係のブッキングだとか。

 キサブローさんは青森、弘前の出身。歌舞伎町のコマ劇場裏のレコーディングスタジオでバイトをしていた。同郷の彼女と同棲していた。彼女は何でもコマ劇場の裏手の「ミルクスタンド」でバイトをしていて僕もお末ちゃんも何度か牛乳などをそこで飲んだ事がある。とても愛想のいい「りんごちゃん」だったかな。

 で、その「くもすけバンド」、何かの都合でオトヤが高崎に帰ってしまったのでその「くもすけバンド」を僕が手伝う事になった。


弘前「凱旋コンサート」

 キサブローさんが故郷の弘前でコンサートをするのだと云う。メンバー全員で弘前まで行く事になった。

 上野発の夜行列車「いなほ」。

 東北本線を途中から奥羽本線に行くやつだ。上野の18番線で待ち合わせた。弘前までは一二時間くらいかかっただろうか、兎に角結構な時間を列車に揺られた。
 弘前に着くとキサブローさんの友人達が出迎えていた。キサブローさんはその友達たちと懐かしそうに話し込んでいる。彼女の方はやはり出迎えた友人と「じゃぁ」と言って僕等と別れた。

 早速キサブローの友人が用意してくれた車に乗って「弘前市民会館」に向かった。コンサート会場の弘前市民会館は弘前城祉の公園の中にあった。
 弘前市民会館では既に仕込みが忙しそうに立ち上がっていた。「くもすけバンド」の前に何バンドかが演奏した。くもすけバンドとしては初めての大ホール。志保君がステージ所狭しと撥ねるように歌う。

「せんと~~~で」

 キサブロー作詞作曲の「銭湯ブルース」。志保君がひょろひょろな身体をくねらせるようにして歌う。キサブローさんのSGと丸山さんのプレシジョンが絡む。お末ちゃんはリフ専門に徹しシャイなステージプレイ。

 打上げは弘前の「りんご市場」から右方向の大通り、堀川沿いの「ロック喫茶」。斜前にはカワイ楽器弘前店があった。

 しかしなんと云うのか、人間の運命とは実に「面白いものである」と感じた・・・・・こんな僕であったもである。

 実はその後の僕の人生でのことだが、そもそもそう云ったきっかけで今日も音楽の端くれで生活をしているのだが、34の時から「シェクター・ギター・リサーチ」と云うギターメーカーの仕事をはじめていた。何の事はない、後で知ることだが「シェクター」の仕事で、そのロック喫茶・・・・・

 その弘前「ロック喫茶「R」。僕がシェクターの営業で青森、弘前と回る途中、大凡20年前の記憶が蘇ったのだった。
 たしかそのロック喫茶「R」のあった所。そう、当然「あった所」と云うからにはその昭和63年頃には既に「R」は無かったのだが、その「R」の後が、LMショップ「タクト」。
 小西さんと云う方が経営していた。あまりその店とは取引は無かったが、どうも懐かしくて時折、「弘前」には旅の宿をとった。
 もちろんもうひとつの楽しみ、津軽三味線のライブハウス「山唄」を堪能する為もあったが。しかしその都度そのロック喫茶「R」の話を当地の方に尋ねても、残念だが詳細は不明であった。

 しかし、その「タクト」楽器店の間口と外観は当時を偲ばせるのに充分なものが感じられた―――なんて格好のいいことを言っても昭和46年たったの一度行ったきりなので、それは僕のたんなる思い込みの激しさからかも知れないので記憶の真贋に、情けない話だがいささか自信が無い。

 弘前での宿泊はキサブローさんの友人の「成田さん」の家。林檎園を大きくやっている家だった。夜中に抜け出してりんごを盗みに行ったような憶えがある〈すみませんでした〉。

 「くもすけバンド」、キサブロー凱旋コンサートもそれなりに弘前では受けたようだったが「くもすけバンド」はその後の「中野公会堂」のコンサートを最後に解散と云う事になったようだ。
 なったようだと云うのはどうもお末ちゃんが「日本語」のブルースに抵抗があったらしく、練習やら本番の話があってもあのお末ちゃんの性格上煮え切らない態度というか、はっきりしない態度で断りつづけていたようだ。

「なべさん、雲助、辞めようと思うんだ」

 と、ぽつんともらした。

 正直、あの頃どっぷりと「黒人ブルース」にのめり込んで行ったお末ちゃん・・・・・
 かと云ってブルースバンドとは云ってもブルースバンドそのものが「マイナー」な存在でようやく関西から「ウエストブルースバンド」が注目されてきた頃。
 東京では、「竹田和夫とクリエイション」とか、「柳ジョージ」の「パワーハウス」とか、どちらかと云うと「白人系」のブルースで学園祭なんかでも受けていた。
 そう云えば、東大本郷キャンパスの学園祭でも「くもすけバンド」として出たことがあった。もちろん「クリエイション」、「頭脳警察」、「カルメン・マキ&OZ」なんて云うバンドが群を抜いていた。
 70年代のハードロックが全盛を迎える頃だ。「GFR」やら、「DP」等々。まあ、黒人ブルースは今風に言えば「オタク系」。別に今風も無く、今でも「オタク」なんだろうが(笑)。

 しかし、お末ちゃん。あのころ新宿の帝都無線でバイトをしていた丸山さんを介してフェンダーのストラトキャスターとツインリバーブを買ったばかりでやる気満々だったのに…だが相変わらずの、末っ子の性質で我侭。やはり気が向かないとなったらすっぱりと「くもすけバンド」を辞めてしまった。


「おスエちゃん」。

レジェンドかレガシイか。まあそれはそれとしてこの音楽シーンの変容にも身がつまされる思い。

月一で、ブルースライブやっていた「おスエちゃん」・・・・・・

年賀に電話したら、「大丈夫」と言っていたので、来月は一緒に出来るかも。

おスエチャン!
  


Posted by 昭和24歳  at 03:14Comments(0)

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