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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション  at 

2015年06月03日

コンパクトシティ高崎(゜ロ゜) ⑤

コンパクトシティ高崎(゜ロ゜) ⑤



昭和30年ひとクラス45人が4クラス。
昭和33年ころにはそれが6学年でしたから、1000人超。
運動会が大変でした(笑)。




昭和33年ころの高崎シティ・・・・・


昭和の大合併が実施されたころの話。
ちなみに僕の戸籍だと出生地は「碓氷郡豊岡村」となっている。昭和24年。
昭和30年に高崎市に編入、僕が小学校2年生の時です。

つまり「高崎市」は実にコンパクトなシティだったわけです。

でその時代、いわゆる団塊世代と言われた核を中心に昭和21年生まれから昭和31年生まれまで・・・・・
今では立派なおじいちゃん、おばあちゃんですけど、その人口は全国で2000万人強。

そら、高崎の旧市街地、隅から隅まで子どもで溢れかえっていました。

その旧市街地とはいわゆる、西は烏川からこっち、東は上信越、 両毛線線路からこっち、南は上信線線路からこっち、北は本町界隈からこっち。
とにかく、コンパクトもコンパクトで、そこに中銀ショッピングモールがあって本町3丁目には主婦の店「フードセンター」があって、連雀町には高島屋があって、有賀園百貨店、後の藤五があって、中央デパートがあって、おしゃれデパートがあって。
横丁という横丁にはその日その日の生活品、食料品を商う店があって、田町通りから新町にかけては喫茶店がいくつもあって。
まあ、映画館は通町にピカデリー、連雀町には銀星座、鞘町には東映、中銀にはオリオン座、東宝、電気館、で、ご案内のパチンコ屋も数々。
それら商店、娯楽施設はそれを取り巻く旧市街地の横丁から遠くても精々、徒歩10分から15分・・・・・

そうです。中央小学校、東小学校、南小学校、北小学校、その児童生徒数は1000人から。

そんなわけで、まあ、戦後の貧しい時代とは言えその子どもたちの「経済効果」はますます高崎市の「コンパクトシティ化」拍車をかけた。

そこに生まれたいつもの風景・・・・・

小学校の校門という校門には必ずどこの誰だか知らないおじさんが屋台を引いていた。

お新粉細工の、アメ細工の、針ガネ鉄砲のオジさん、そして焼そば屋のオジさん、「お新粉細工」のオジさんと、「焼きそば屋」のオジさんは屋根付きの屋台でその中にちょこんと座って商っていた。

みんな訳ありだったとみえて色眼鏡なんかをかけていたのがなぜか今でも脳裏から離れない。

その「焼きそば」はたしか5円だったと思う。10センチ四方のヘギにのせら青のりをまぶしたた「焼きそば」。

そうだ、たしかスライスされた紅生姜が一枚ちょこんと。

誰ということもなく情報が入る「今日は焼きそば屋」が来てるぞと。

学校が終わると僕は一目散に家に帰ってランドセルを置くまも惜しんで・・・・・・

「お母ちゃん10円オクレ、早く、早く!!」

「変なもん食うと腹壊すよ」

お母ちゃん、そう言いながら割烹着のポケットからがま口を取り出して「ほらっ」と。

仕方ないねぇ、って言ったような顔をして10円玉を僕の手に。

当時の東小学校は裏門が厳重に閉じられていて、僕の横丁から正門に行くのには竹田の文房具屋の角・・・・・・

東二条通りを南に曲がって寺沢のドジョウ屋、中曽根材木、堀越印刷あたりを疾風の如く駆け抜けその「焼きそば屋」へ。

もう数人の子供でそのオジさんてんやわんやのご様子。

紙芝居や、突貫豆や、突貫煎餅や・・・・・・
米を一合升に入れて持っていくと、豆菓子やら、豆煎餅にしてくれる。


そこにあった戦後昭和の風情。

皆さん復員兵か満州帰りか、時代の波に流れ流されての人生だったのだろうか。

またそんな時代がきているような気がしてならない。
弱肉強食、機微に長けたものだけが得して生きる世の中。
「清く貧しく美しく」なんていっていた日には、
狡猾、姑息な連中にケツの毛まで抜かれちまう・・・・・・


昭和50年頃まではこのあたりにもチョイトした家の庭先には、
その「ボタンキョウ」なるものの木があった。

イチジク、コンメ、ザクロ・・・・・・
よく盗み食いしては叱られたものだが今はどこにも見ない。

「ボタンキョウ」。

大きさはといえば、桃のスグリくらいのやつだろうか・・・・・・
やや細長い、色合いは桃のスグリ、青梅のそのままだ。

桃や梅と違うところは、種の硬い殻がないというところだろうか。
種そのものは梅のそれとそう変らないのだが極めて柔らかいのが特徴。
もちろん、スモモなんかではない。
なんでも絶滅品種とか知る人は言っていた・・・・・

昭和30年代、僕らが小学生の頃まだ学校にプールなどない頃、市営プールに行くと、
必ず売店でその「ボタンキョウ」が売られていた。
ガラス瓶にただ岩塩で漬け込んだだけのものだというが、
あのなんともいえぬ食感と酸味、ただものではない・・・・・・

カキ氷と並んだ昭和、夏の駄菓子屋の「ベスト3」は過言ではない。
一個5円・・・・・・
僕が最後に買ったのは、いや、買えたのは彼女(ママ)と同棲をはじめた夏、昭和50年。
アパートの近くの駄菓子屋で・・・・・
でもその頃は一個、10円だったろうか。

とにかく、貧乏ミュージシャン・・・・今もそうだが、酒の肴といえば、
そのボタンキョウか、近くの寿司屋に無理を言って「ガリ」だけ50円分けてもらってとか(笑)。
それでも、ボタンキョウがあれば最高の宴は言うまでもなかった。

いつのまにかそうした駄菓子屋も趣を変えていった・・・・・・
いや、変わらざるを得なかったのかも知れない。

少し高価(一本20円)ではあったが、酢漬けのイカの足。
たぶん「よっちゃん」の前身なんだろうが、酢イカにしろ、ソースイカにしろ、
今のそれとは比べ物にならないほど「美味」だったことは確かだ。

「ボタンキョウ」

何年か前にどうしても食べたくなって仲間同士町中の駄菓子屋という駄菓子屋を探索した。
もちろん、仕入先の話も聞いたりして・・・・・・

「そう言えば、芝塚のほうから60がらみのオジサンがリヤカーに一斗樽載せて売りに来てたね」

と、駄菓子屋のおばさん。

僕はそのおじさんの所在も聞いて尋ねたが、既にそこにはマンションが建ち、
そのオジサンの家らしき、話に聞いてたしもた屋は影も形もなかった。

もっとも、そのおじさんの時代昭和33年ころだろうか、芝塚といったら田んぼと畑の農村地帯だったし。

コンパクトシティ高崎(゜ロ゜) ⑤
  


Posted by 昭和24歳  at 18:28Comments(1)

2015年06月03日

躁鬱する政治「今は躁」です。

躁鬱する政治「今は躁」です。




>取り巻きに囲まれて躁状態じゃないですか。

09年、あの政権交代ですら工作されたものだった。

どうしても、「アベ政権」を工作したかった勢力の存在がそれだ。
06年、戦後最年少の52歳で自由民主党総裁、内閣総理大臣に就くという珍事。
その勢力の目的は成長しきった日本社会の「構造改革」、そしてグローバリゼーションという「欧米化」(ギャグ)。
いわゆる、郵貯、簡保のスキャンダルを作り上げそこにある資金の略奪を工作。
もちろん、その前段で成功したバブル経済の惹起とその崩壊が細川政権(小沢)をお取り潰しと自社さ、自自公と工作。
平成の「おじさん」の頃の異常な日本経済の暴騰は健常な日本人精神を発狂させた。
それは狙い通りにバブル化した日本経済の持つ資金を略奪に成功した。

「金融引き締めを行いバブルを潰そうとしたのは、日銀の失敗である。」(高橋洋一元財務官僚)

>日銀の失敗である・・・・・

「成功したのでは?」(笑)。

それは日本政府の判断でもなければ、日銀の判断でもない(´Д`;)
頃合を見計らって抜くだけ抜いた、それは1000兆円とも、1500兆円とも。
まあ、莫大な資金を日本の金融資本は欧米、とくに米国に投資した。
三菱地所がNYのロックフェラーセンターを買収し、ソニーがパナソニックがこぞってアメリカ文化を買収。
結果、バブル崩壊でアメリカの土地を、ビルを日本へ持ち帰るわけにもいかないので置き引きされた(笑)。

で、「平成のおじさん」から「世界一の借金王」首相までがいわゆる「経世会」、独立派とも?
で、2000年に脳梗塞で急逝する。享年62歳だった。そこから、森と泉に囲まれてと歌の文句です。
そして、安倍、福田、麻生と続きましたけど結果はご案内のとおりでした「工作機関」も当てが外れたのか、早速「日本新党ブーム再来」を工作します。

「木に登っちゃいました」(笑)。

大マスコミもこぞって「民主党政権到来」を宣伝。
まあ、おりしも、失われた20年でしたから「派遣村」だとか「ホームレス」だとか「蟹工船」だとか、世の中、社会はかなり騒がしかった。
で、「政権交代」。柳の下の「二匹目のドジョウ」でしたから、乗せられちゃってます。我が世の春気分。
一人苦虫を潰していた小沢幹事長が印象的でしたね。全て分かっていたのかも?
で、その通りの結末になりましたし。

しかしこれが、言われる「構造改革」なんじゃあないでしょうか・・・・・

「新安保法制」「集団的自衛権」

テロ国家「北朝鮮」をそのまま放置して「交渉」と言い訳。

中国の軍拡、海洋進出を言いながら、中国民へのビザを緩和し、大挙する中国人観光客の爆買を歓迎。

「国民を守る」って、どこから守るのか?

では、今までは守ってこなかったのか、外交として。

躁鬱する政治「今は躁」です。
  


Posted by 昭和24歳  at 13:18Comments(0)

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