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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション  at 

2012年11月08日

「渋谷ジャンジャン」

 渋谷「ジャンジャン」





旅立ち

 昭和四五年、未だ明治大正の匂いを感じさせる古い高崎の駅舎で上野行きの片道切符を買った。上りは決まって7番線か8番線、電気機関車の牽く客車。硬い座席に身を埋めるようにして発車のベルを待った。
 故郷を離れるなどと云う感傷はなかったが、ひとつの時代の終わり、そして新しい時代の始まり。今までの喧騒が嘘のように消えた「青春」と云う時代の音。21才、今にして思えばそれは青春の時代だろうが、その当時は既にそれを捨て去っていたように思っていた。生意気にも。
 その頃は大方の同級生はそこそこにこの地方都市で「サラリーマン生活」をしているか家業を継いで、やはりその「ほんのり」とした、それでいて「とげとげしい」青春、それに区切りをつけ覚めた言葉を投げあうようになっていた――――〈もう、若くねえからな〉と。しかし、そんな時代にもやはり夫々の生き方と云うか人生の分岐点「標」が誰にもあった。と云うのも、まだ同級生などはストレートで大学へ行った連中でも3年生、一浪でもしていれば2年生だ。そんな彼等はまだまだ青春真っ盛り。ただ、学生運動も一部の「オタク」を除いては既に収束していた。やはりひとつの時代は終わっていた。 
 時は恰も、「青年は荒野をめざす」。五木寛之を貪り、小田実に傾き、横尾忠則に嵌り、「自由」の始まりの終わりの時代だったようだ。  
ご多分に漏れず僕も多分そんな「欠片」の一人ではなかっただろうか。あの時代の一年は一生かけても体験できないような事を瞬時にやっていた。やはりそれが「夢」の時代なのか。
 現実と云う「地獄」の一歩手前で夫々が大きな夢を語り合った。まるで自分だけを中心に世界が動いているような錯覚の中で。結局こんな狭いこの国の中でさえ僅か2%足らずの「青春」が考えてみるまでも無く「世の中が」動くはずも無いのにである。
 そう、だが、だからそれが「夢」なのだ。「夢」を見たからこそ現実もほどほどに受け止められる。それが「青春の時代」なんだろうとふりかえる。

 「夢」などと云う大それたものではないが、いや、傍目には大それた大馬鹿者に映ったかも知れない。僕の「ロックミュージシャン」。もちろん当時はそんな言葉すらなかった。ただの「エレキ小僧」、不良のなり損ない。
 一五の時からの「エレキバンド」生活、ダンスホールにパーティーに。そして時は空前の「エレキブーム」。街中で猫も杓子も「テケテケテケ―――」。
 「アストロノウツ」の太陽の彼方、「ベンチャーズ」の急がば廻れ。テレビでは連日連夜「エレキ、エレキ」。終いにはナショナル、ビクターまでが「エレキギター」を作り始めた。今では努々考えられない時代、さしずめ、「ゲームボーイ」をナショナルブランドで出すようなものだろう。
 僕の場合そんな時代の中を、地元ではかなりの売れっ子バンドのドラマーとして過ごしてしまった。そのお陰で「こんなはずじゃない」の思い、勘違いが「東京」行きを決めさせてしまった。とは云うものの、この歳、還暦というのに未だ「テケテケテケ―――」で食わせてもらっているのだから人生、時には「勘違い」もそうは満更ではないのかも知れない。
 そう・・・あの時代。多かれ少なかれ「横文字稼業」を夢見てその「東京」と云うブランドに同世代が群がった。「カメラマン、イラストレーター、ファッションデザイナー」等などである。既に戦前生まれの服飾デザイナー、イラストレーター、カメラマンが世界に名を成すようになっていた頃だったが。
 やはり、ピカイチは「横尾忠則」。画伯は昭和一一年生まれのようだからあの時代、世代の人たちが戦後生まれ、所謂「戦争を知らない子供たち」の感性を刺激したのだろう。要するに「超」の付く「一流」はみんなその世代ではないだろうか。黒田清太郎、篠山紀信、山本完斎―――、何れ、焼け跡世代が僕らの夢の「明星」だった。

新井薬師

 僕は、帝京大学に通う高校時代の友人「宮田」を頼って「聖蹟桜ヶ丘」の宮田の下宿にひとまず居候を決めた。しかし一週間もしないうちに結局、そいつの親父というのが下宿にやってきて息子の学業の邪魔になるから他所に行ってくれないか―――と。
 しかし僕も、身勝手な話だとは思ったが無遠慮に僕の事情を話した。

「そうか、しかし、君には悪いが息子との同居止めてくれないか。その代わりと云ってはなんだが新井薬師の知り合いのアパートを世話するよ」。

「分かりました」

「悪いなぁ・・・・・」

 宮田はは申し訳なさそうに僕に言ったが、別に僕はそんな事はどうでも良かった、それよりも早々に塒を落着けて「音楽修行」になんとしてでも道筋をつけたかった。
 宮田の親父は元々軍医で防衛庁の病院に勤務をする傍ら「帝京大学」の医学部講師をしていた。
 宮田も一八〇センチを有に超える大男だが、親父さんも「デカイ」。兄貴も姉さんも「デカイ」。巨人一族であった。何でもお祖父さんも「デカ」かったそうである。宮田家は群馬町の旧家で一家揃って一風変わっていて世俗的ではなかった。
 僕は親父さんにその場で西武新宿線「新井薬師」のアパートの地図を書いてもらうと早速宮田の下宿を後にした。

 西武新宿線の新井薬師のアパートはその年の春まで宮田の兄貴が暮らしていた。何でも宮田の兄貴、年は宮田、僕等より8つ上なのだが二浪して早稲田に入り、大学院で卒業したのが30歳くらいだったと宮田が云っていた。
「道具、みんな使っていいから。家賃だけ、7,500円払ってね」
と親父さんから言われていたので〈まあ、寝られればいいか〉くらいで、親父さんに書いてもらった地図と預かった鍵を手に道順を辿った。
 アパートは新井薬師の駅から歩いて4、5分の所だった2階建てで階段を上ると廊下を挟んで部屋が3部屋づつ並ぶ。便所は共同、当時としては当り前で今のような「マンション」のマの字も無かった時代だった。道具とは云っても多少の食器とガスコンロに布団一式くらいだったがその時の僕には充分すぎるほどの設備だた。
 部屋は薄暗い階段を上がって二回の奥まった「1K」。もちろん陽など当たるはずも無い、今にして思えば当時流行り、都会の「アパート暮らし」。それでも膨らんだ夢がそんな生活空間をも楽しませてくれた。
 もちろん「音楽修行」とは云うものの別に当てがあるわけでもなかった。今のように「ライブハウス」とやらがそこいら中にあるわけでもなく、ましてやひとつの「ブーム」が去ったあとでそれまでの音楽シーンの盛り上がりは何処にも無かった。
 結局、僕はつまるところアルバイトの明け暮れ。新宿南口に集合する「夜勤」のバイト。それは川崎の工業団地で夜食、朝食付きで2700円くらいだっただろうか、結構なバイトだった。
 当時は、オイルショック真っ盛り、かと云って高度成長も頂点を極める時代で高田馬場公園、戸山公園辺りの「地下鉄工事人足」あたりも、夕方黒山に集まるもののあっという間にマイクロバスで闇に消えていった。地下鉄工事の徹夜はバイト料はいいけど「キツイ」。それに下手に怪我でもしたら「バンド」どころではなくなるので、新宿南口「清涼飲料」のビンの再生工場の検品のアルバイトで糊口を凌いだと云うわけである。そんなある日、そこで一緒にバイトをしていた「岩手」盛岡か「デザイナー修行に東京へ来たと云うやつが・・・・
「陸送のいいバイトがあるから一緒に面接に行かない」と誘ってきた。

陸送のアルバイト

 やはり川崎である。「三菱ふそう」のトラックを全国各地の販売店に「陸送」する仕事。

「う~ん。俺、バンドの練習あるしな」

 実はバンドの練習などはなかったのだが、そのつもりでの「東京生活」。なにも普通の生活をするために出てきたのではないのだし、ただ秋に「渋谷ジャンジャン」のオーディションを申し込んでるだけでそのための「練習」だけだが。

「だって、おまえどうすんの?デザインの方」

「それなんだけど、一切拘束なしなんだってよ。行ける日に出て行って配車を貰うんだってさ」

「トラックって、大型だろ」

「いやっ、4トン半だって。大阪の寝屋川って云うとこが一番多いらしいけど、帰りの新幹線代と、日当込みで1万7千円だって云うよ」

 なんでもその他、本州、道続きは何処へでも行くって云う。結局、面接に行って免許証を見せて連絡先は電話が無ければ駄目だと云うので高崎の実家に住所を移して。
 その陸送のアルバイトで、青森、秋田、盛岡、仙台、郡山、山形、新潟、北陸から関西近畿、広島、島根間で行った。「オイルショックの」最中、高速道も「阪神」まで、その先の山陽道は未開通で、燃料を途中給油するにも「行列」のありさま。しかし帰りは飛行機…兎に角忙しくて忙しくて、戻れば直ぐに次の配車が待っている状態。稼ぎにはなったがこれでは「音楽修行」がと、悩んでいる所だった。
 そんな時たまたま、高崎の「ふそう」への配車があった。

「すみません。1週間ばかり休みますが」

「なんだよ、しょうがねえな。後はちゃんと出てこいよ」

 この仕事、結構なお金になるので旅費と日当もらうとそのまま来なくなっちゃうやつが結構いたらしい。
 千代田陸送株式会社。それは「三菱ふそう川崎工場」の中にあった。配車係の親父さんはべらんめい調で一日中怒っているご様子。あの頃は兎に角トラックが売れた時代で全国各地の販売店から矢の催促だったようだ。
 僕も北海道、九州までは行かなかったが、北は青森、をはじめに東北六県、西は広島、松江、徳島の中国四国で、近場の関東地域は何故かあまり配車されなかった。
 そんな時、高崎の倉賀野にある「ふそう」への配車があったので、車を届ける前に僕は高崎の隣町、「堀口三兄弟」のいる群馬町井出の「堀口機械」へと向かった。

渋谷「ジャンジャン」

  


Posted by 昭和24歳  at 20:17Comments(0)

2012年11月08日

負け組「ニッポン」貿易収支が赤字(^^ゞ

負け組「ニッポン」
貿易収支が赤字です(^^ゞ




アメリカの地位は相対的に低下。昆虫が兵器に、コメが世界の人口をまかなう。「生態」「生命」「感性」「場」が新産業のキーワード。わずか20年で想像を絶する未来がやってくる。


経常黒字、過去最少=今年度上半期、41.3%減―輸出低迷、貿易赤字最大・財務省
 財務省が8日発表した2012年度上半期(4~9月)の国際収支速報によると、海外とのモノやサービスの取引状況を示す経常収支の黒字額は前年同期比41.3%減の2兆7214億円となった。上半期ベースの経常黒字額としては、現行統計で比較可能な1985年度以降で過去最少を記録した。
 海外景気の減速で欧州や中国向け輸出が低迷し、貿易赤字が年度半期ベースとして過去最大に膨らんだことが響いた。同省は「経常収支は貿易収支の動向による影響が極めて大きい」と、今後の輸出などの動きを注視していく方針だ。
 主な内訳では、貿易収支は2兆6191億円の赤字で、前年同期に比べ1兆円超赤字額が拡大した。輸出は、欧州と中国向けが不振で0.9%減。輸入は原発停止を補う火力発電燃料の液化天然ガス(LNG)や原油調達が増えたため3.4%増えた。
 旅行や物流などのサービス収支も1兆6791億円の赤字。この結果、貿易・サービス収支は4兆2982億円の赤字と、前年同期に比べ2兆円超拡大した。 

<引用:時事通信 11月8日(木)9時5分配信>
ソース:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121108-00000033-jij-pol

>「経常収支は貿易収支の動向による影響が極めて大きい」

まあ、そこにどんなカラクリが潜んでいるのか(笑)。

その意味では、もはや日本は「貿易立国」ではないのかも・・・・・

まあ、この超円高では「生産」して輸出するだけ「赤」が出ちゃう(^^ゞ

困ったことだが、これが自民党長期政権の「結果責任」出会ったことは隠せないだろう(嗤)。

で、民主党に政権交代したものの、素人集団だけになってしまった・・・・・

つまり、中身は「自民党おぼっちゃま集団」と同じ。

団塊世代にとっては懐かしい言葉だが、「護送船団」経済健在ということか。

当然、日本国内に住む一般国民は、情報鎖国下に生活しているわけだから、

もうひとつの「JAPAN」を知る由もない。

つまり、強いものは世界に出てゆき、弱いものだけが極東の島国に飢民となる。

そこで、高崎から見る「世界の中のニッポン」、当たらずとも遠からず(笑)。

コレ、↓

ヤマダ電機は第35期分として、366億5800万円を納税!!

まあ、高崎市に本社を置くヤマデン、そのうちいくらが高崎市に落ちてくるか?

少ない額であることはおよそ想像がつく。

まっ、本社があった前橋にとっては痛手だったわけだが、致し方ない。

高崎市にしてもカインズの本社、本庄市への移転は・・・・・

で、今度高崎市では駅東口の栄町を中心に「BIC」核に大規模商業施設と、

音楽ホールとかいろいろを作るらしいが、

その際には「BIC」の本社機能を高崎に移転でしょうか?

当然高崎市もそれなりの投資をして、お迎えする「YAMADA」同様に。

で、かつてない我が国の「経常黒字」の現象とかだが・・・・・

そんなもん、トヨタもキャノンも馬耳東風だろう(^^ゞ

つまり、貿易収支とかも「多国籍企業化」した企業の収益とはあまり関係ない。

おそらくコレもいわゆる「護送船団」のなせる技で、当然、輸出品目の生産減からだ。

もっと言えば、多国籍企業には超円高も怖くはない。

海外生産品目の貿易はその生産地の通貨政策の下にあるからだし・・・・・

その意味でも、大企業の生産拠点は南進を急ぐことだろう。

安い現地通貨で高いドルを所得する。当然、その多国籍企業は現地法人だろうし、

利益が日本国内にフィードバックされる仕組みにはなってはいない。

そこでわからないのが、あの「Amazon.com」なんだが、売り上げの税金はアメリカ国内で。

つまり、日本国内の「Amazon.com」は単なる「営業所」なんだとか。

まあ、通販による物販だからそういうこともできるのかなぁと・・・・・

つまり、注文はネットでアメリカの「Amazon.com」に。で、物流だけが日本で(笑)。

なかなかアメリカ人らしい合理的な商法、日本の税務当局もクレームは付けてるらしいが、

まあ、宗主国様の企業だし、今のところどうにもならないらしい(^^ゞ

まっ、以上のことを踏まえると、製造業よりは大規模小売業が内需を支え、

地方財政も、消費税等の納税にしても大きく貢献している、トヨタなんかはその逆だし(笑)。

しかし、人口減少とデフレの進行でその小売にもやがて陰りが、このままでは。

そうなると、「YAMADEN」も「BIC」も世界へ大展開するしかないのかも?

その時は「通販」で日本国内から、ってなわけにはいかないか、ニッポン、政治力弱いし(^^ゞ

負け組「ニッポン」
貿易収支が赤字です(^^ゞ


  


Posted by 昭和24歳  at 15:05Comments(0)

2012年11月08日

田中真紀子、迷走バアさん言うことに及んで・・・・・

田中真紀子、
迷走バアさん言うことに及んで




大学不認可問題 田中文科相「3大学はいい宣伝になった」
 「今回(の騒動が)逆にいい宣伝になって4、5年間はブームになるかもしれない」

 田中真紀子文部科学相は7日、不認可としながら一転して新設を認めた秋田公立美術大(秋田市)など3大学について、首相官邸でこう語った。不適切な発言との批判が出そうだ。

【図で見る】 大学設置認可までの流れ

 3大学への認可通知は「事務的に(行う)」とし、突然の不認可判断に始まる今回の混乱について自ら大学側に説明するかは明らかにしなかった。

 いったんは不認可とした判断については「私には日本の教育のあるべき姿についてイメージがあり、文科相を拝命して(役所の)中からだったらブレークスルー(突破口)をつくれると思った」と説明した。

 さらに「(大学の)経営者が代わって、借金ができたりしないように応援しないといけない」とも指摘した。

<引用:産経新聞 11月7日(水)22時4分配信>
ソース:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121107-00000618-san-pol

>「私には日本の教育のあるべき姿についてイメージがあり、文科相を拝命して(役所の)中からだったらブレークスルー(突破口)をつくれると思った」


まあ、政治家じゃあないです、この「迷走おばちゃん」。

ただの提灯持ち、ほとんどがそうです・・・・・・

「宣伝になった」

あまりにも無責任の言い方、放言、暴言です。

まあ、しかしよくも、野だブーもこういうのを任命したよな・・・・・

適材適所(^^ゞ

っていうか、国民が情報位閉鎖されてる結果ですね、トホホ。

田中真紀子、
迷走バアさん言うことに及んで


  


Posted by 昭和24歳  at 07:01Comments(0)

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