グンブロ広告

ビジネスライセンス料  3,000円/月

飲食関連事業用 ライセンス 毎日1セット広告  1,600円/月

お問い合わせは、 info@gunmawen.net

本広告は、30日以上記事の更新がされませんと自動的に掲載されます。 記事が更新された時点で、自動的に破棄されます。  

Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション  at 

2008年03月28日

ふるさと創生基金

ふるさと創生基金


皆さんはお忘れだろうか(笑)。

99年小渕内閣は地域振興券発行。



発行額はなんと“7000億円”!!

市町村が発行し、その地域での通用を原則とする。

対象はこどもと高齢者3500万人に一人2万円ずつ。通用期限は6ヶ月。

2次使用、他人への譲渡は認めない。振興券の印刷費など“1000億円”の経費は国が負担(都合8000億円)。
振興券を受け取った業者は郵便局などに持ち込んで現金化する。

券面はは千円券で、全体で7億枚。

この“地域振興券”の後日談として、
当時内閣官房長官であった野中広務が「地域振興券は公明党を与党に入れるための国会対策費だった」と(笑)。


そして1988年(昭和63年)の“ふるさと創生基金”。

竹下内閣の全国地方自治体3300に“一億円”づつのばら撒き。



合計“3300億円”。

しかし国民もいい加減な者である。笑うしかない。

丁度この頃、昭和63年と言えば僕もエレキ製造業として独立して3年、全国を営業しながら結構笑わせてもらった。
そしてこの話に落ちがついたかつかないうちに・・・・・・今でも忘れない。
名古屋の都ホテルで“竹下登のリクルート疑惑”の証人喚問に釘付けになった日のことを。

そうそう、
“三本指”の宇野宗佑が急遽中曽根康弘の傀儡内閣になったテレビに釘付けになったのが秋田のワシントンホテル。

小沢一郎の“佐川急便事件”での証人喚問が小樽の国際ホテル。

第一次湾岸戦争のイラク総攻撃の実況中継はロスアンゼルスのモーテル。

オウムの松本サリン事件の実況は丁度松本の工場のテレビで。

1993年の北朝鮮“ノドン発射”の実況は、
そうそう“1993年”といえばそれは日本全国“米騒動”の可笑しな可笑しな時代でした。
僕は会津若松の取引先で“北朝鮮は怖いなあ”と国権を酌み交わしながら話してた。

その“米騒動”の翌年は“大豊作”だった。

そしてその4年後、1997年にはコメ50万トン支援を森訪朝団が約束と北朝鮮高官が発言。
のちに国会参議院予算委員会でも問題になるがその“北朝鮮支援米50万トン”にからむ自民党幹事長一味の疑惑。

政府備蓄米“ササニシキ”などのブランド米は、日本では高価な価格で売れるので、
この米は全て北へ送られたわけではなく、半分近くが北朝鮮へ送られず、日本で商社を通して換金され、
そのうちの5%前後を支援に関わった自民党の議員が自分の懐に入れた“らしい”。
50万トンの米の総価格は、1200億円で、そのうちの25万トンが北へ送られた。
とすれば、25万トン分の米が日本で換金され、600億円のうち30億円ほどを手数料として自民の議員が懐に入れた“らしい”。
もしも“タイ米”を50万トン送るとすれば日本政府が支払う金は“120億円”程度ですみ、
何も日本の米を送る必要はないと『平沢議員は反対意見を唱える』と、“鈴木”と“松岡”が猛烈に食いつき、

「人道支援をお前は、邪魔するのかっ!!」

と反対意見がかき消され12万トンどころか、50万トンの米支援がいつのまにか決まってしまった。

このことは金正日は全てを知っている。
そして後の“小泉”も全てを知った。もちろんこのことは米国政権中枢の知れるところとなった。
この時点で急追、橋本元総理は“米国”に呼びつけられ、結果、橋本派、旧竹下派、旧田中派はお釈迦になった。

まさに北朝鮮の拉致問題が表面化し始めたその時代。

少なくともその意味では“小泉”は身奇麗であったから訪朝でき、拉致を金正日に認めさせ、
拉致被害者4家族を、それでも奪還できた。

皆さんお忘れだろうか?

そんな昔のことではありません(笑)。

野中広務という自民党の実力者も政治の表舞台から自ら身を引き座労えなくなった。
おそらく引導を渡したのは“小泉純一郎”であろう。
中曽根にも引導を渡し、宮沢にも。
その意味では稀代の政治家であった。
小泉純一郎は次の選挙には出ない(次男が後継とか)。

奇人変人が国民に見せた“政治劇”。

「後は勝手にしろ」

は国民に向けたメッセージではないだろうか。

安倍と福田を天秤にするということは“森派”の終わりを意味している。
その時こそ、戦後政治の終焉ではないだろうか。

そして、わが郷土の誉れが、福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三・・・・・・・・
そして福田康夫が「アベッちゃった」あと「やすお」ちゃっているこの現実に。

福田康夫内閣総理大臣は伏魔殿の道路特定財源(特別会計)を来年度には“一般財源化”すると言ってしまった。

総理の発言は重い。自民党のヤクザ役員の言葉なんかよりもその重さは天と地ほどの違いがある。

しかしこれでほぼ自民党は終わった・・・・・・・・

今こそ“国民が勝手にさせてもらえる”最後のチャンスではないだろうか。


  


Posted by 昭和24歳  at 17:09Comments(0)

2008年03月28日

力道山の時代

なんとなく「力道山の時代」を考えた・・・・・

みなさんは“力道山”を憶えているだろうか?



「憶えている」とかということは、リアルタイムでの“力道山体験”がなければ始まらないのだが・・・・・・
まあ、昭和24年生まれの僕が10歳の頃の話だから若い人たちからすればだいぶ昔の話になる。
つまり、まだ太平洋戦争終結、無条件降伏から10年そこそこの時代の話なのだから、僕の末娘に言わせたら、
その“力道山”の話は江戸時代とそうは変わらないように感じているらしい(笑)。
憶えているとすればせいぜいが、今50歳代以上の昔の若者しかいないだろう・・・・・・・


僕の街に「プロレス興行」が来た。
県立高崎商業高校の校庭に設えた、特設リング・・・スカイ・ハイリーにヘイスタック・カルホーン。
芳の里、豊登・・・あの「パッコ~~~ン」と云うのを練習した覚えがある。
力道山は「MG」のオープンカーで、街をパレードしながらその校庭の会場へ入ってきた。

僕が小学校の5年生の頃の話だからそれは「昭和35年」頃。
季節は秋だったような・・・・・・

あの噛みつき吸血鬼“フレッド・ブラッシー”はまだ参上していなかった。
「吉村」なんかはどうしただろう・・・・・
そうだ「芳の里」、あの下駄の芳の里。素足にゲートルのようなものを巻き「カタッカタッ」と入場してきた。
キング・コングなんていうのもいた。ボボ・ブラジル、オルテガ、シャープ兄弟・・・・・
身体に鎖を巻きつけバスを引っ張るとかのプロレスラーは何といったか、それが「カルホーン」だったかが定かでない。
大分古い話だ・・・・・・

もちろん小学生だった僕がその会場に入れたわけではない。
ひと目でも“力道山”を拝みたいがためにその学校の中をうろうろ。
とにかくその時代は“力道山”といえば神様のような存在だった。

僕らが子どもの頃の遊びといえば“メンコ”や“ベーゴマ”。
そのメンコやベーゴマにはそのプロレスラーの絵柄が大人気だった。
またプロレスのほかには“相撲”も人気のある絵柄だった・・・・・・

吉葉山、鏡里、千代の山・・・相撲の場合はベーゴマよりも“メンコ”のほうに人気があった。
白黒のテレビの頃の話だ。もちろん“白黒テレビ”とはいえどこの家にでもあるというものではなかった。
当然僕の家にはまだなかった・・・・・・
僕らは近所の悪がきが連れ立って近くにある魚市場の休憩室にあるその神々しい“電気テレビ”に傅くようにして見せていただいた思い出がある。

そうだ・・・・・野球は、野球といえば当時は“川上”が引退寸前の頃だろうか長島がまだ立教の『野球学部』の時代、稲尾、中西、豊田・・・水原監督。選手も監督もえらく“ゴッツイ”そんな時代だった。


あの時代の「パワー」。今思ってももの凄い時代だったなあとふり返る。 

暗殺された、浅沼稲次郎。ズーズー弁の佐々木更三委員長。
野球の司会は「まあ、なんと申しましょうか」と言った小西トクロウ。その時代の流行り言葉にもなった。

何れも荒涼とした焦土だったが、軍国主義から開放され、国民大衆がようやくその時代の変革を肌で感じ取った・・・・・
そんな時代の“力道山”だった。

しかしあの頃の父母たち、今日を想像しただろうか・・・・・父は48歳、母は38歳・・・・・・
未来なんて想像できなかったろうに。

そんな時代の父母の齢をもうとっくに過ぎている僕・・・・・・

そんな“力道山の時代”の子どもたち。

みんなどうしてるかなぁ・・・・・・“力道山の時代”の子どもたち。


  


Posted by 昭和24歳  at 08:22Comments(0)

< 2008年03>
S M T W T F S
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
過去記事
QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 125人
プロフィール
昭和24歳
昭和24歳
オーナーへメッセージ