2010年05月08日

洞窟観音

洞窟観音

洞窟観音






とある人からメール・・・・・・

「高崎の洞窟観音を訪ねたいのですが・・・・・・」

と。



なんでも越後は柏崎出身の“山田徳蔵”さん・・・・・

高崎で呉服商として財をなし大正・昭和と豪商で鳴らしたと言う。

なにを思ってか、その“山田徳蔵”さん。

変わりもんといえば変わりもんで・・・・・・・

まさか高崎“白衣観音”の向こうを張ったわけではないだろうが、

なんと、仄聞するところによると“手掘り”でその洞窟を全私財を投げ打ち、

50年の歳月をかけて完成・・・・・

と思いきや、完成を見ずに観音様の下、黄泉の国へのお旅立ち。

地元ではその山田徳蔵さん。

極めつけの変人呼ばわりされていたようだ。

ところでその“洞窟観音”は・・・・・

僕らはガキの頃、そこは“探検ルート”で、

観音山自体が今日のように整備されておらず、

“川口探検隊”じゃないが、

近所の悪ガキが寄り集まって怖いもの見たさによく行った“名所”だった。

ルートは護国神社から、“仙人隠れ”へ・・・・・・

まさにそこは、その当時は水戸黄門のエンディングショットに打って付のロケーションの様。

その“仙人隠れ”。実は化石が大量に出たところだった・・・・・

ジュラシックの時代ここ高崎辺りが丁度海岸線で、

観音山丘陵一帯は化石の宝庫だった・・・・・

もちろん開発前の話だが。

その“仙人隠れ”から尾根づたいに観音様の横をすり抜け道なき道を泥んこになりながら下ると、そこが・・・・・

山田徳蔵、通称“山徳”(やまとく)の洞窟観音だった。

その洞窟の中には白骨の死体があるだとか、

誰かが自殺をしていただとか・・・・・・

未完成の洞窟観音、戦時中は防空壕でその中で死んだ人の幽霊が出るとか(笑)。

そんな山田徳蔵さんの呉服屋さんも今は姿形も知らない。

“糸偏”の終焉とともに“繭と絹の高崎”もすっかり様変わりする歴史の中に、

流石の変わりもん“山徳さん”も忘れられる存在となってしまったようだ。


洞窟観音




Posted by 昭和24歳  at 14:27 │Comments(2)

この記事へのコメント
洞窟観音には秘密の出入口がありました。 
いわば、明り取りのための、出口ですが。 
でも、入園料がいらないわけでして。 

モグラ叩きのように、とんでもないところから、ヒョツコリと首がでるのが、面白かったです。
40年以上前のことでしたが。
Posted by 捨蚕捨蚕 at 2010年05月08日 16:42
洞窟観音は、徳蔵氏の死後、奥方が遺志を継いで完成させたんだそうですね。

徳蔵氏、昭和初期に高崎に飛行場も設置してるそうです。
複葉機二機を有して、観光遊覧飛行などして、大いに高崎の観光・産業の振興に役立てたとか。

高階勇輔先生の受け売りですが。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎 at 2010年05月09日 07:11
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

< 2024年04月 >
S M T W T F S
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
過去記事

QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 125人
プロフィール
昭和24歳
昭和24歳
オーナーへメッセージ

削除
洞窟観音
    コメント(2)