2009年11月14日
お富さん
♪お富さん♪
チトン、チントシャン♪
柳川町の細道に入ったら、すごく粋な佇まいの家を見つけた。(写真クリックで拡大)
いつ頃建てた家だろうか、板塀に漆喰壁、軒には吊り灯篭、小ぢんまりとしながら趣きがある。
今にも中から、鴨長明でも現れそうな雰囲気である。
立っている看板には、「表千家 茶道」、「琴 三味線」とある。
「なーるほどー、だからかー」と一人で納得した。
何しろここは高崎の花柳界、柳川町。
昔は芸者衆が、「置屋(おきや)」さん(今で言えば「タレント事務所」)に籍を置いて、お座敷が掛かるのを待っていた。
昼間はお座敷がないので、三味線や踊りの稽古をしていた。
「置屋」さんの前を通ると、チトン、チントシャン♪と三味線の音がしたりして、子ども心にも「いいなぁー」と思ったりした。
そう言えば、「置屋」さんの前には、いつも「輪タク(りんたく)」が停まってたっけ・・・・・・・
ご存じ、迷道院高崎さん「隠居の思ひつ記 」の一節である。
そうでしたね。おとみさんの作詞は高崎出身の「山崎正」さんだとか・・・・・・
♪粋な黒塀見越しの松♪といえば僕は当時の高崎の奥座敷「宇喜代」、今のビューホテルのところですが、それを思い出します。
まあ、その「宇喜代」といえば高崎の政財界の重鎮の社交場だったとかは遠い昔のお話ですけど・・・・・
その意味では、その「宇喜代」の佇まい、趣は地方重要文化財級の代物ではなかったかと、今思い起こせば。
見事な支柱の門構えに、黒塀から突き出た松(だったと思います)に大きな提灯に「宇喜代」と・・・・・
たしか、二、三度、コワイ面々のお仕事(宴会)でお座敷というか、膝をガクガクさせながらお呼ばれされた覚えがあります(笑)。
僕はもっぱら、
その辻向かいの「中熊」の、建てつけの具合のヨロシクない格子戸をくぐるのが日常でしたけど・・・・・・
お座敷といえば、アレは21の頃でした。
柳川町というかたしか中紺屋町でしたか、どうもアノ辺りは町内が狭いので何処から何処までが中紺屋だか新紺屋だか、はたまた元紺屋だかさっぱりですけど・・・・・
お堀端、太鼓橋辺りのところの向かいの路地を入ったところは当時、お座敷つきの小料理屋が数軒行燈を並べてました。
そんな小料理屋の一軒にとある青年実業家のお誘いで上がらせてもらったのですが・・・・・
まあ、竜宮城でしたね(笑)。まあ、21です。その青年実業家と、その青年実業家とご入魂とかの市議会議員の先生とお座敷です。
まっ、「宇喜代」じゃあありませんので、三味や太鼓っていうわけにはいきませんでしたけど、ハッキリ言って三十路過ぎのお姐さんが3名。つまり酌婦っていうんでしょうか、芸者じゃありません・・・・・
まあ、今風に言うなら、スナックの派遣女給さん、女給さんとも言いませんね、ホステスさんでしょうか。そんなお姐さんが痒い所に手が届くようなおもてなしです。
酔いも回ってしばらくすると、いわゆる「流しのお兄さん」のお出まし。当時はカラオケなんていう猪口才な機械はありませんでしたので、「飲んで歌う」そんな時は「流しのお兄さん」でしたね・・・・・・
そういえば、当時はっていうか、最近まで、って言っても昭和60年頃まででしたか「新内流し」のお兄さんが、♪チトン、チントシャン♪とかやってました。
新内じゃあないですけど、かなり渋い笑いを誘います柳家紫文師匠。
なんと、高崎出身なんですね・・・・・・
柳家紫文:群馬県高崎市出身(高崎高高卒)
で、流しのお兄さんの一興も終わってさてという話になって・・・・・・・
あったんですね、さらに奥座敷。奥座敷とはいっても川向うでして、その川向うで、お姐さんをお持ち帰りして「呑み直し」です。
なんたって、21でしたから、そりゃあ、コワいもん見たさっていうか、興味津々ていうかなんというか・・・・・・
そこから先は「大人のお話」っていうことでご容赦を。
前橋にもあるんですね。前橋の奥座敷っていうか「裏座敷」。それは「4畳半襖の張り替え」みいたいな話ですけど。
19の時「四畳半」ですからマセていたんでしょうか。奥手だったんですけど・・・・・
すみません。迷道院高崎さんのせっかくの高尚なお話から下世話話になっちゃいまして(汗)。
しかし考えてみれば、昭和40年代、世の中の隅々まで「オアシ」が回るような仕組みがあったんですね・・・・・・
僕の先輩の「流しのお兄さん」なんて、流しで豪邸(?)建てちゃってますから。まあ、アノレベルの流しになると、流しません。
お座敷専門ていうか、高級バー、高級クラブからお呼び出しがかかって馴染みの専属でしたから。
そういえば、「流しの玉ちゃん」どうしているでしょうか・・・・・・
つい最近まで、身の丈もあるほどのギターを背負って、っていうか「玉ちゃん」極めて小粒でしたので、暗闇だとギターが歩いているような、なんともいえない不思議な趣でした。
お元気なら、御年80には手が届いているのでは、っていうことは70代でも流していたんですね柳川町、成田町界隈を・・・・・
「隠居の思ひつ記」より・・・・・・
チトン、チントシャン♪
柳川町の細道に入ったら、すごく粋な佇まいの家を見つけた。(写真クリックで拡大)
いつ頃建てた家だろうか、板塀に漆喰壁、軒には吊り灯篭、小ぢんまりとしながら趣きがある。
今にも中から、鴨長明でも現れそうな雰囲気である。
立っている看板には、「表千家 茶道」、「琴 三味線」とある。
「なーるほどー、だからかー」と一人で納得した。
何しろここは高崎の花柳界、柳川町。
昔は芸者衆が、「置屋(おきや)」さん(今で言えば「タレント事務所」)に籍を置いて、お座敷が掛かるのを待っていた。
昼間はお座敷がないので、三味線や踊りの稽古をしていた。
「置屋」さんの前を通ると、チトン、チントシャン♪と三味線の音がしたりして、子ども心にも「いいなぁー」と思ったりした。
そう言えば、「置屋」さんの前には、いつも「輪タク(りんたく)」が停まってたっけ・・・・・・・
ご存じ、迷道院高崎さん「隠居の思ひつ記 」の一節である。
そうでしたね。おとみさんの作詞は高崎出身の「山崎正」さんだとか・・・・・・
♪粋な黒塀見越しの松♪といえば僕は当時の高崎の奥座敷「宇喜代」、今のビューホテルのところですが、それを思い出します。
まあ、その「宇喜代」といえば高崎の政財界の重鎮の社交場だったとかは遠い昔のお話ですけど・・・・・
その意味では、その「宇喜代」の佇まい、趣は地方重要文化財級の代物ではなかったかと、今思い起こせば。
見事な支柱の門構えに、黒塀から突き出た松(だったと思います)に大きな提灯に「宇喜代」と・・・・・
たしか、二、三度、コワイ面々のお仕事(宴会)でお座敷というか、膝をガクガクさせながらお呼ばれされた覚えがあります(笑)。
僕はもっぱら、
その辻向かいの「中熊」の、建てつけの具合のヨロシクない格子戸をくぐるのが日常でしたけど・・・・・・
お座敷といえば、アレは21の頃でした。
柳川町というかたしか中紺屋町でしたか、どうもアノ辺りは町内が狭いので何処から何処までが中紺屋だか新紺屋だか、はたまた元紺屋だかさっぱりですけど・・・・・
お堀端、太鼓橋辺りのところの向かいの路地を入ったところは当時、お座敷つきの小料理屋が数軒行燈を並べてました。
そんな小料理屋の一軒にとある青年実業家のお誘いで上がらせてもらったのですが・・・・・
まあ、竜宮城でしたね(笑)。まあ、21です。その青年実業家と、その青年実業家とご入魂とかの市議会議員の先生とお座敷です。
まっ、「宇喜代」じゃあありませんので、三味や太鼓っていうわけにはいきませんでしたけど、ハッキリ言って三十路過ぎのお姐さんが3名。つまり酌婦っていうんでしょうか、芸者じゃありません・・・・・
まあ、今風に言うなら、スナックの派遣女給さん、女給さんとも言いませんね、ホステスさんでしょうか。そんなお姐さんが痒い所に手が届くようなおもてなしです。
酔いも回ってしばらくすると、いわゆる「流しのお兄さん」のお出まし。当時はカラオケなんていう猪口才な機械はありませんでしたので、「飲んで歌う」そんな時は「流しのお兄さん」でしたね・・・・・・
そういえば、当時はっていうか、最近まで、って言っても昭和60年頃まででしたか「新内流し」のお兄さんが、♪チトン、チントシャン♪とかやってました。
新内じゃあないですけど、かなり渋い笑いを誘います柳家紫文師匠。
なんと、高崎出身なんですね・・・・・・
柳家紫文:群馬県高崎市出身(高崎高高卒)
で、流しのお兄さんの一興も終わってさてという話になって・・・・・・・
あったんですね、さらに奥座敷。奥座敷とはいっても川向うでして、その川向うで、お姐さんをお持ち帰りして「呑み直し」です。
なんたって、21でしたから、そりゃあ、コワいもん見たさっていうか、興味津々ていうかなんというか・・・・・・
そこから先は「大人のお話」っていうことでご容赦を。
前橋にもあるんですね。前橋の奥座敷っていうか「裏座敷」。それは「4畳半襖の張り替え」みいたいな話ですけど。
19の時「四畳半」ですからマセていたんでしょうか。奥手だったんですけど・・・・・
すみません。迷道院高崎さんのせっかくの高尚なお話から下世話話になっちゃいまして(汗)。
しかし考えてみれば、昭和40年代、世の中の隅々まで「オアシ」が回るような仕組みがあったんですね・・・・・・
僕の先輩の「流しのお兄さん」なんて、流しで豪邸(?)建てちゃってますから。まあ、アノレベルの流しになると、流しません。
お座敷専門ていうか、高級バー、高級クラブからお呼び出しがかかって馴染みの専属でしたから。
そういえば、「流しの玉ちゃん」どうしているでしょうか・・・・・・
つい最近まで、身の丈もあるほどのギターを背負って、っていうか「玉ちゃん」極めて小粒でしたので、暗闇だとギターが歩いているような、なんともいえない不思議な趣でした。
お元気なら、御年80には手が届いているのでは、っていうことは70代でも流していたんですね柳川町、成田町界隈を・・・・・
「隠居の思ひつ記」より・・・・・・
Posted by 昭和24歳
at 15:38
│Comments(4)
いつもお引立ていただき、ありがとうございます!
柳家紫文さん、ご存知でしたか!
流石ですね。
あの芸風、私好みです。
12月13日に桐生の市民文化会館に来ますよね。
あんな流しの三味線弾きが、柳川町を歩いていたら素敵なんですがねー。
ラジオではよく聴きます。テレビの笑点でもときどき。
しかし、日本のっていうか「和」の芸、「間」の極意ですね。いつだったか上毛新聞にピックアップされてました・・・・・・
高崎出身の「田島さん」とか。最初はお客さん全然笑ってくれなかったとか言って笑わせてましたけど(笑)。
迷道院高崎さん、アノ芸は「新宿末広亭」か「上野鈴本」、「浅草演芸場」で見なきゃあ判りません。そう思いませんか・・・・・
その「長谷川平蔵が…」の柳家紫文です。
突然おじゃまします。
「柳川町」と「流し」で検索していて、ここにたどり着きました。まさか自分の名前が出てくるとは…。
驚きました(^_^;)
うちの母が、昔田村病院に入院していたとき「新内流しの音が聞こえてきてね…」と話してくれました。
もしかしたら同じ一門ではないかと、なんという名前の人だったのか調べていました。
その方をご存じでしょうか?
それと、小学校の頃、近くにある三味線屋さんに母と行きましたが、その三味線屋さんは、なんという三味線屋さんだったのかもわかればと、思いまして。
お堀沿い(なら成田外科の隣くらい)か、いまの中央小学校の通りだと思います(そこなら柳川町の交差点入って数件先の右です)が、ご存じでしょうか?
それと今わかったのですが、この書き込みの日付を見ると去年の11月4日となっています。
紫文がここを見ているのが11月4日(先ほど5日になりましたが…)。あまりにも不思議なことに驚いています…
驚き桃の木山椒の木っていうのはこのことでしょうか・・・・・
いつもラジオ、TV で、楽しませていただいている「長谷川平蔵・・・・」の 紫文さんからコメントだなんて!!
そうですか、柳川町の新内流しの・・・・・
まあ、僕があの界隈の現役バンドマンだった当時(昭和57年前後まで)の話ですから、そのときすでにその新内流しの方は高齢とお見受けしておりましたから、ご存命の方は?
まあ、調べさせていただきます。僕も興味ありますから。
「長谷川平蔵に聞いてみようかな?」