2008年02月07日
憂い愁いる。
一年前の日記・・・・・
><3月期決算>5年連続の増収増益 東証1部776社
もはや“格差”と言うよりそれは“差別”の構造。
米国型を国際化と言い・・・・・
その極めて人種差別性の高い惨たらしい社会がグローバル化だと言う。
アフリカ系、イタリア系、ヒスパニック、プエルトリコ系等々のアメリカ人・・・・・
今のアメリカ社会はその人口約3億人の四分の一が“貧困層”だと言う。
さらにブッシュ大統領の富裕層への減税やイラク侵攻で、新たに540万人が貧困になった・・・・・
アメリカでは“4580万人”に健康保険はなく、医療にもかかれない。
幼児の死亡率は、貧困と独裁とアメリカが非難するキューバよりも劣る。
病気をしても医者や病院にいけないから、幼児は死ぬのである・・・・・
世界一死亡率が低い国のひとつが日本である。健康保険があり、保健所がある。
しかし小泉改革で国保も社保も“3割負担”となった。
そして国民年金の未払いが、4割だ。1万3千円が払えない若者は、派遣パートが多く収入は低い。
これは格差と言うよりは“差別”だろう。
><3月期決算>5年連続の増収増益 東証1部776社
昨日のニューヨーク市場も空前の上げ幅と最高値とか・・・・・
>「赤ちゃんポスト」運用初日に想定外の3歳児
今地域の“児童福祉施設”はどこも満員だそうだ。
しかし結局その“3歳児”は児童施設に預けられる。
あまりにも悲しい出来事だが、秋田の事件のようなことにもなりかねない。
そうした中にも児童虐待、子殺し等の悲惨な事件は後を断たない。
ネットカフェ難民・・・・・とか言うらしい・・・・・
思えば今から40年前はこの僕もそうした大都会、
コンクリートジャングルの中の難民だったような記憶がある。
もちろんネットカフェなどはなかったが大学通学で下宿する友人を頼って上京。
持ち金が尽きると僕はバンド仲間に誘われるままに新宿南口に並んだ。
あるやつは高田馬場の公園がいい稼ぎになるとそっちのほうへ。
新宿南口は川崎の工業地帯のタイヤ工場やらビン製造工場へ・・・・・
高田馬場公園は、深夜の地下鉄工事が専門だった。
中には兵もいて、横田基地でのベトナム戦争戦士兵の遺体洗いなんて言うのも。
もっともあの時代はみんなそれぞれが目的、夢をもっていた。
僕もそんな一人だったが・・・・・
しかし目を他方に移すと東大安田講堂やら、
もちろん大学進学した同級生連中はヘルメットに角棒で将来に夢を託していた。
同じ世代でありながら方や“ロック”で、方や“平和闘争”。
やはりそこには静かな“階層社会”の歪が顕在していたのかも知れない。
もっとも今日、思想とは言わないまでも、その時"平和闘争”していた同級生の多くは極めて平和な人生に佳境を見ている。
方や“ロック”な僕は未だ、その時のまま、その時代の情況に今を映しようやく“闘争”にたどり着いている。
光陰矢のごとし・・・・・・
50年60年なんてあっという間でした。
そのことからすれば、この先の50年60年も“あっという間”に違いない。
もちろんそこには僕はもう当然いない・・・・・
だからこそ憂い愁いる。
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もはや“格差”と言うよりそれは“差別”の構造。
米国型を国際化と言い・・・・・
その極めて人種差別性の高い惨たらしい社会がグローバル化だと言う。
アフリカ系、イタリア系、ヒスパニック、プエルトリコ系等々のアメリカ人・・・・・
今のアメリカ社会はその人口約3億人の四分の一が“貧困層”だと言う。
さらにブッシュ大統領の富裕層への減税やイラク侵攻で、新たに540万人が貧困になった・・・・・
アメリカでは“4580万人”に健康保険はなく、医療にもかかれない。
幼児の死亡率は、貧困と独裁とアメリカが非難するキューバよりも劣る。
病気をしても医者や病院にいけないから、幼児は死ぬのである・・・・・
世界一死亡率が低い国のひとつが日本である。健康保険があり、保健所がある。
しかし小泉改革で国保も社保も“3割負担”となった。
そして国民年金の未払いが、4割だ。1万3千円が払えない若者は、派遣パートが多く収入は低い。
これは格差と言うよりは“差別”だろう。
><3月期決算>5年連続の増収増益 東証1部776社
昨日のニューヨーク市場も空前の上げ幅と最高値とか・・・・・
>「赤ちゃんポスト」運用初日に想定外の3歳児
今地域の“児童福祉施設”はどこも満員だそうだ。
しかし結局その“3歳児”は児童施設に預けられる。
あまりにも悲しい出来事だが、秋田の事件のようなことにもなりかねない。
そうした中にも児童虐待、子殺し等の悲惨な事件は後を断たない。
ネットカフェ難民・・・・・とか言うらしい・・・・・
思えば今から40年前はこの僕もそうした大都会、
コンクリートジャングルの中の難民だったような記憶がある。
もちろんネットカフェなどはなかったが大学通学で下宿する友人を頼って上京。
持ち金が尽きると僕はバンド仲間に誘われるままに新宿南口に並んだ。
あるやつは高田馬場の公園がいい稼ぎになるとそっちのほうへ。
新宿南口は川崎の工業地帯のタイヤ工場やらビン製造工場へ・・・・・
高田馬場公園は、深夜の地下鉄工事が専門だった。
中には兵もいて、横田基地でのベトナム戦争戦士兵の遺体洗いなんて言うのも。
もっともあの時代はみんなそれぞれが目的、夢をもっていた。
僕もそんな一人だったが・・・・・
しかし目を他方に移すと東大安田講堂やら、
もちろん大学進学した同級生連中はヘルメットに角棒で将来に夢を託していた。
同じ世代でありながら方や“ロック”で、方や“平和闘争”。
やはりそこには静かな“階層社会”の歪が顕在していたのかも知れない。
もっとも今日、思想とは言わないまでも、その時"平和闘争”していた同級生の多くは極めて平和な人生に佳境を見ている。
方や“ロック”な僕は未だ、その時のまま、その時代の情況に今を映しようやく“闘争”にたどり着いている。
光陰矢のごとし・・・・・・
50年60年なんてあっという間でした。
そのことからすれば、この先の50年60年も“あっという間”に違いない。
もちろんそこには僕はもう当然いない・・・・・
だからこそ憂い愁いる。
Posted by 昭和24歳
at 17:32
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