2020年02月25日

赤坂の荘「高崎」

赤坂の荘「高崎」
赤坂の荘「高崎」
毎週土曜日やってま~す。

どうやらこの町は秀吉、“関白宣言”の最中、16世紀の半ばに箕輪城から「高崎」に城が移築された頃からが始まりのようだ。
その「高崎」は東は現在の弓町、羅漢町辺りまで。北は赤坂、南は新町、若松町までのところだろうか、西に烏川を背にした「高崎城」。正式な呼称が何であったかは咄嗟には浮かばないが、それを「和田城」とも聞く。
ま、遡ること律令時代にはその七道のひとつ東山道の時代にはここ高崎は「赤坂の荘」と呼ばれていた。その名残が高崎の「赤坂」なんだろうか。

古い地図を見ると面白い。どうも今の「レンガ通」辺りに「県庁」があったらしい。もちろん、廃藩置県の時代「熊谷県」と、ここ群馬を呼んだ時のほんの僅かな時代だったようだが。

「高崎」の町は町名からしてもその「古さ」が良く分かる。鞘町、紺屋町、鍛冶町、九蔵町、弓町などとその城下町の様が窺える。もちろん箕輪にもそうした町名は残るが...
その辺りには幾つもの「寺」がひしめき合うようにして甍の波が連なる。今にして思えば、この「高崎」と言う町はその戦国時代の古か、「寺」だらけ、「墓」だらけの町だったようだ。

八間道路の「夜店」

その昔、渋川までの「ちんちん電車」が走っていた田町通から、弓町の四つ角までの道幅が「八間」...
そこから「八間道路」と呼ばれ、大正、昭和と栄えたと聞く。元々は「大類里街道」をそう呼んでいるようだ。
その昔には荷車が行き交う程度の小路だったようで、その名残は平成の再開発でほとんど消えてしまたっが、東二条通りの交差点付近に僅かにそれをとどめている。

いつの頃であったかは定かではない「夜店」の始まりは。僕のそれは昭和30年前後のことだ。

僕が物心ついた頃にはその「八間道路」、夏の風物詩として「夜店」が子供心を躍らせた。
もちろん、テレビなんぞはなく、映画館でさえまともな上映館はなく、僕らは東小学校の校庭で夜間に上映されたそれに心を躍らせた時代の話。
それは「法輪寺」の門前を中心に、露天が縁日の賑わいを創っていた。

その時代、それぞれの家にまだ「風呂」などと言うものはそうはなかった。
あの界隈だけでも「銭湯」が、旭町の「東湯」、屋号は忘れてしまったが、山田町と椿町の「椿湯」。
それに「八間道路」北通町にも大きな銭湯があった。戦後、間もない昭和30年の始まりの頃その「銭湯」でさえ贅沢だったのかも知れない。
もっぱら僕らは、タライ行水を浴びて、短尺帯の浴衣を着せてもらい母に手を引かれその夜店に行った。

定番の金魚すくい、ヨーヨー、綿アメ、それに多分5円くらいだったか木箱の中で「飛行機」の回るクジ。焼きそば、お新粉細工、アメ細工・・・
ハリガネ鉄砲を器用に作る小父さん、木の鉄砲・・・カーバイトの灯りの下で焼く「焼き饅頭」。
極めつけは、法輪寺の境内で開かれる「のど自慢」と、どう言う訳か「ボクシング大会」...etc

兎に角、その「八間道路」弓町の交差点から先は、東、北と戦前から工業地帯。
開かずの踏み切りには、まるで問答無用のように「SL」が怒るようにして往来していた。
その辺り、満州帰りやら、復員のニイサン、小父さんが朝に夜にけたたましく口角泡を飛ばしていたそんな時代であった。

その時代、労働者の足と言えば、もちろん「自転車」でそれさえも贅沢な時代だったか。
サラリーマンの月給が1万円台の頃の話だから差し詰め「バイク」の値段だ。僕も自転車を覚えたのは親父の通勤用、「自家用自転車」の「三角乗り」からだった。
駄菓子や華やかりし頃の夜店の時代にはやはり、ベーごま、ビー球、面子と遊びに事欠くことはなかった。

ふと気づいた時には、そんな「夜店」の風物も消えてしまっていた。

そんな中、もう一度どうしても食いたいのが「ボタンキョウ」。薄汚れたガラス瓶の中にプカプカ浮いた奴で最後に食ったのが昭和50年の夏。
真夏の定番の駄菓子で「スモモ」といったかも知れない。真夏には駄菓子屋ばかりではなくどこのプールの売店でもそれは売られていた。

僕が小学校のころの当時はどこの学校にも“プール”などという贅沢なものはなかった。
高崎には3つの市営だったんだろうか、そんな贅沢なプールがあった。

小学生専用プール。通称「小便プール」と呼ばれていた『中央プール』今の市役所庁舎のあたりだろうか。
ちょうど、二中と三中の間の奥まったところにあった。
中学生、高校生専用プールは『昭和プール』。それは古久松材木の製材工場の裏手にあって、高校生のプール教室などにも使われていた。
そして、今でも残っているのが『城南プール』で、ここは競技用プールで、当時は中、高の水泳部専用のプールの趣をなしていた。

まさにそこに言う「コンパクトシティ」。

その町々には横丁があり駄菓子屋があり、文房具屋が有りなにせその東小学校、僕らの時代には児童生徒数は1000人からいた。
薬局、お米屋さん、酒屋さん、魚屋さん、お豆腐屋さん、八百屋さん、それらが朝餉夕餉に不自由することはなかった町々。

そんな、どこにでもありそうな「町」...
それが「高崎」だったのかも知れない。
でも僕にとっての「高崎」は、世界でたった一つの「高崎」なのである。




Posted by 昭和24歳  at 14:57 │Comments(0)

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