2020年01月05日
2008年01月05日「少年の狂気」(12年昔の今日)
2008年01月05日「少年の狂気」(12年昔の今日)
ここにとある少年がいた。小学校時代に過酷ないじめに遭い、自己を喪失していた少年の心中には憎しみと悔恨しかなかった。そして、18歳の時に少年事件を起こし、監修される。しかしその後少年は立ち上がり、戦場に赴いた。時には人を殺すことが善いことも有り得るが、心のわだかまりは消えない。善と云う観念を喪失した少年の行きつく先には何が待っているのだろうか?
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-08-EK-0223932
<通り魔>「殺してやる」と叫んで次々襲う 恐怖の商店街
1月5日20時32分配信 毎日新聞
少年が壊れているのではない...
僕が、あなたが、社会が壊れていることに気付きませんか?
これが、米国のように“銃社会”なら「銃乱射の地獄絵」でしょう。
どうでしょう、それでもアメリカと言う国家はその“銃”を、「銃が人を殺すのではない、人が人を殺す」と言って、人類が“火”を使い始め、それを武器に獣の世界に生きてきたことを平然と言ってのける社会。
そんな米国に、いくら戦争に負けたからと言って、その社会のあらましまで真似ることもないだろうに、 と思う今日この頃です。
「おれを侮辱するんじゃねえ!」。
と、16歳の少年が...
弱肉強食、全てにおいて自己責任。
弱い者は、いつも虐げられ、今は、生きる糧さえママならない。
その犯罪を容認するものではないが、そうした、その少年が感じる鬱憤以上のことを今日の行政、為政が平然としているではないか。
行政、為政誰も、何一つ、責任をとらない。そしてそれを、延々とつづく「行政訴訟」という、もっともらしいところに下駄をはかせる。
その間に、対行政被害者がどんなに苦しもうが、死んじまおうが「最高裁の判断を待つ」の言い草。
「フザケルな!」である。
その最高裁も国家の一機関でしかない。
本来が、そこに急ぐ「政治的判断」。行政府ではなく、立法府、政治家として、“選良”の心づもりが多少なりともあるのなら、そこは、なにがなんでも「政治が救済」するべきではないのか。
「すぐに、なんでも国のせいにする。社会のせいにする」
と、もっともらしきことを言う人がいるが、 果たしてそうだろうか。
かの、太平洋戦争(大東亜戦争)では、その行政が国民の生命と財産のほとんどを失わせたではないか。
バブル経済崩壊、金融機関への“公的融資”という税金の私物化で、その挙句が、政府日銀のゼロ金利政策の被害はより甚大だ。
バブル崩壊後の超低金利で「91~04年に家計が失った金利収入は累計304兆円」(日銀の白川方明理事)に上る。要するに、家計から銀行に304兆円ものカネが“所得移転”されたということだ。
年間“100兆円”からの、本来国民が、預金者が得られるべき収入の所得移転がなされている。
このことが、国の“作為的犯罪”でなくて、なにが犯罪になるのだろうか。
多くの“生活者”を、経済難民にし、それでも、「景気は上向いてる」と妄言する政府。
空前の利益を得ているのは、つまりはその国家にタムロし、政治家、官僚と癒着し、「持ちつ持たれつ」の関係で、それはタダ、労働分配率を法律でもって低く工作し、加えて、社会保諸費の企業負担分を逃れた結果ではないのか。
「おれを侮辱するんじゃねえ!」。
そう言って、包丁を振り回したそのことは狂気の沙汰だが しかし今社会はあまりにも荒みきっている。
この街でも、考えられない老舗、自動車教習所の閉鎖。
中央商店街では、夕闇に迫ると外国人、「フィリピンパブ」の客引きが居並ぶ。
「生活者がそこにいる」、という実感がどうしても伴わないこの街の姿。
先日の新聞でも、「倉賀野高崎操作場跡地再開発」で解説があったが...
高崎市、こんなことを何年やってるんだろうか。
どうやら、小泉政治の「改革」も、それは「内向き」のものでしかった。
国民、生活者の意図するところ、少なくとも国民生活の向上に資するものがあっただろうか。
「改革には痛みを伴う」
と言うが、その「痛み」を感じるのは国民だけではないか。
国民の生活の知恵、生きる知恵としては、その「痛みにタダ耐えるだけ」か、「その痛みに慣れて疲れて」暴走するしかないのか。
さて、「生活者」をいう政府。
はたして、年収200万円そこそこで、今、生活が成り立つとでも思っているのだろうか。
この水準を良しとするなら、社会保障制度は確実に破綻する。
2008年01月05日「少年の狂気」(12年昔の今日)
ここにとある少年がいた。小学校時代に過酷ないじめに遭い、自己を喪失していた少年の心中には憎しみと悔恨しかなかった。そして、18歳の時に少年事件を起こし、監修される。しかしその後少年は立ち上がり、戦場に赴いた。時には人を殺すことが善いことも有り得るが、心のわだかまりは消えない。善と云う観念を喪失した少年の行きつく先には何が待っているのだろうか?
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-08-EK-0223932
<通り魔>「殺してやる」と叫んで次々襲う 恐怖の商店街
1月5日20時32分配信 毎日新聞
少年が壊れているのではない...
僕が、あなたが、社会が壊れていることに気付きませんか?
これが、米国のように“銃社会”なら「銃乱射の地獄絵」でしょう。
どうでしょう、それでもアメリカと言う国家はその“銃”を、「銃が人を殺すのではない、人が人を殺す」と言って、人類が“火”を使い始め、それを武器に獣の世界に生きてきたことを平然と言ってのける社会。
そんな米国に、いくら戦争に負けたからと言って、その社会のあらましまで真似ることもないだろうに、 と思う今日この頃です。
「おれを侮辱するんじゃねえ!」。
と、16歳の少年が...
弱肉強食、全てにおいて自己責任。
弱い者は、いつも虐げられ、今は、生きる糧さえママならない。
その犯罪を容認するものではないが、そうした、その少年が感じる鬱憤以上のことを今日の行政、為政が平然としているではないか。
行政、為政誰も、何一つ、責任をとらない。そしてそれを、延々とつづく「行政訴訟」という、もっともらしいところに下駄をはかせる。
その間に、対行政被害者がどんなに苦しもうが、死んじまおうが「最高裁の判断を待つ」の言い草。
「フザケルな!」である。
その最高裁も国家の一機関でしかない。
本来が、そこに急ぐ「政治的判断」。行政府ではなく、立法府、政治家として、“選良”の心づもりが多少なりともあるのなら、そこは、なにがなんでも「政治が救済」するべきではないのか。
「すぐに、なんでも国のせいにする。社会のせいにする」
と、もっともらしきことを言う人がいるが、 果たしてそうだろうか。
かの、太平洋戦争(大東亜戦争)では、その行政が国民の生命と財産のほとんどを失わせたではないか。
バブル経済崩壊、金融機関への“公的融資”という税金の私物化で、その挙句が、政府日銀のゼロ金利政策の被害はより甚大だ。
バブル崩壊後の超低金利で「91~04年に家計が失った金利収入は累計304兆円」(日銀の白川方明理事)に上る。要するに、家計から銀行に304兆円ものカネが“所得移転”されたということだ。
年間“100兆円”からの、本来国民が、預金者が得られるべき収入の所得移転がなされている。
このことが、国の“作為的犯罪”でなくて、なにが犯罪になるのだろうか。
多くの“生活者”を、経済難民にし、それでも、「景気は上向いてる」と妄言する政府。
空前の利益を得ているのは、つまりはその国家にタムロし、政治家、官僚と癒着し、「持ちつ持たれつ」の関係で、それはタダ、労働分配率を法律でもって低く工作し、加えて、社会保諸費の企業負担分を逃れた結果ではないのか。
「おれを侮辱するんじゃねえ!」。
そう言って、包丁を振り回したそのことは狂気の沙汰だが しかし今社会はあまりにも荒みきっている。
この街でも、考えられない老舗、自動車教習所の閉鎖。
中央商店街では、夕闇に迫ると外国人、「フィリピンパブ」の客引きが居並ぶ。
「生活者がそこにいる」、という実感がどうしても伴わないこの街の姿。
先日の新聞でも、「倉賀野高崎操作場跡地再開発」で解説があったが...
高崎市、こんなことを何年やってるんだろうか。
どうやら、小泉政治の「改革」も、それは「内向き」のものでしかった。
国民、生活者の意図するところ、少なくとも国民生活の向上に資するものがあっただろうか。
「改革には痛みを伴う」
と言うが、その「痛み」を感じるのは国民だけではないか。
国民の生活の知恵、生きる知恵としては、その「痛みにタダ耐えるだけ」か、「その痛みに慣れて疲れて」暴走するしかないのか。
さて、「生活者」をいう政府。
はたして、年収200万円そこそこで、今、生活が成り立つとでも思っているのだろうか。
この水準を良しとするなら、社会保障制度は確実に破綻する。
2008年01月05日「少年の狂気」(12年昔の今日)
Posted by 昭和24歳
at 10:15
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