2018年10月10日
高崎千年紀委員会
高崎千年紀委員会
数多、戦の後井伊直政はここに高崎城を築城した。
高崎城開城千年、“高崎誕生”千年紀のロマンを今!!
高崎千年紀は“西暦2597年”だ
現在が2009年、つまり今から579年後にその時はやってくる。
もちろんその“西暦2597年”に僕らはいない・・・・・
しかし、今日のこの街の姿はけしてここに生まれ育った、高崎を故郷とする僕らの願っているものではないのではないか。
たしかに誇るべき街の威容はあるのかも知れないが、ソレを見るにつけ冷え冷えとした印象は免れない。
今では高崎のランドマークともいうべき“白衣観音”は昭和初期、井上保三郎翁が私財をなげうっての建立とかだが、戦後生まれの僕らにとってその「観音山」は郷土の誇りとして大いなる存在だ。
それは、未来永劫、建立者、井上保三郎翁の意志を忘れることなく、そうした先人の残した歴史的遺産をいかにして未来につないで行くかが、今、こうして平和な時代を享受する高崎市民、僕らの務めであるのではないかと深く思う。
真の意味での“都市計画”。
それはなにもこの街に高層マンションが林立することではない。そして政治が、行政がその威容を誇るかのような高層の市庁舎を作ることではない。まさにそれは、右肩上がりの高度経済成長時代の墓標であるかのごとき姿ではないか。
真の意味での“都市計画”とは、それは、いかにしてこの風土に照らした「自然豊かな、住み安い、暮らし安い、安心安全」の街づくりをすることではないだろうか。
そして、人はいずれ歴史に眠る、今、今日ここに生きる僕らも、悠久の歴史サイクルからすればその時代というソレはほんの瞬きのまでしかない・・・・・・
どんな立派な高層ビルディングも、やはり瞬きのまでしかない。であるならば、そんな僕らの子、孫、そしてその子の子、孫と子々孫々、数十年、数百年、数千年と今が残る、遺す。そんな街づくりが真の意味の「都市計画」ではないだろうか。
コンクリート建造物の耐用年数、寿命は60年~70年が限界だという。
だとするなら、その威容を誇り造り上げた21階建ての高層市庁舎も60年、70年後には解体されなければならない。たったの60年、70年の間だ。当然、それは近年市街地に林立する高層マンションも同じ命運に尽きるということは言うまでもない。はたしてそういうことがこの街、高崎の未来を見据えたとき正しかったことと言えるだろうか・・・・・・
およそ、人間のすることだからその叡智にも限界があろう。時の経済状況とか政治状況でそうならなければならなかった必然性はあったのかも知れない。しかし、今やもうそういう時代は終わったのではないだろうか。
2050年にはこの国自体も少子化による人口減少が進みその人口規模は今のおよそ半分の“6000万人”という政府統計もある。となればこの街、高崎もけしてその例外ではなく当然人口収縮があり、政治的理由をつけて隣接する他町村を合併しようともそこに来る現実を免れることは絶対にできないのだ。
そこで「高崎千年紀」。
それは今から579年後を想像しての街づくりである。
いったい579年後にはこの街はどんなふうに変容を遂げているだろうか。
想像しただけでもロマンではないか。
そこで、まずそのシンボリックな計画として「高崎城の蘇生計画プロジェクト」だ。
今から421年昔に誕生した『高崎城』そして『城下町』・・・・・
今日のそれはさまざまな理由の中、再開発もままならないままでいるのが今の、平成の『城下町』ではないだろうか。
しかし、ここに高崎には、その城下町にちなんだ町名も、お寺も、神社も今もそのままにして残っている。
あと50年弱で政府の統計通りだとすればこの街の人口も十数万人ほどなることは想像できる。そうした時この高崎という街の「都市空間」がどんなものであるべきかを今こそ「都市計画」するべき時ではないか。
政治的理由の「5カ年計画」とかではなく。
それは『高崎城』をメインにした“公園都市”そして“商業・文化都市”。
それにはまず電線の完全地中化とエコ路面電車の復活。そして行政ゾーンは旧高崎国鉄貨物操作場跡地、あるいは高崎競馬場跡地へ移転させ、現在のNTT、郵便局、市役所等があるところは『高崎城』を中心に歴史博物館、文化施設ゾーンとする。と夢は膨らむ・・・・・・
現在の21階高層市庁舎はその半分の階を行政サービス棟とし、残りは独立行政法人国立病院と連結させ「老人介護施設」とする。最上階は喫茶コーナー付きの図書館なんて言うのはいかがだろうか。いずれにしても高層市庁舎の寿命は60年、70年である。そんな遠い先の話ではないのだから。
この、大恐慌の到来は、それらの「夢」をじっくり考える良いチャンスではないだろうか。
いつ終わるともその見当すらつかないこの街、高崎の再開発事業。コンクリートの建築物もいいが、壊さなければならない時のことを考えて、今、この時代は再開発計画すべきだろう。
その意味ではいくらでも再生の利く日本固有のその風土に合った、自然と調和した「木工建築」を見直さなければならないことが最大限に求められるべきだ。
とにかく人口減少なのだ。すべてが右肩上がりの発想からの行政、公共工事、都市計画ではそれは廃墟を見るのを待つばかりだ。
少なくとも今年二十歳になった成人が50年後高齢者になる頃に、その『高崎城』を中心とし、上毛三山を背景にした森と緑の公園都市“高崎”が始まる、そんなを「大いなる夢」をみたい。
世代を問わず立場を問わず市民、民草の一人ひとりがそんな夢を語ってもいいのではないだろうか。
上記投稿は2009年02月08日を加筆、改訂し再掲
http://g3s.gunmablog.net/e33310.html
高崎千年紀委員会
数多、戦の後井伊直政はここに高崎城を築城した。
高崎城開城千年、“高崎誕生”千年紀のロマンを今!!
高崎千年紀は“西暦2597年”だ
現在が2009年、つまり今から579年後にその時はやってくる。
もちろんその“西暦2597年”に僕らはいない・・・・・
しかし、今日のこの街の姿はけしてここに生まれ育った、高崎を故郷とする僕らの願っているものではないのではないか。
たしかに誇るべき街の威容はあるのかも知れないが、ソレを見るにつけ冷え冷えとした印象は免れない。
今では高崎のランドマークともいうべき“白衣観音”は昭和初期、井上保三郎翁が私財をなげうっての建立とかだが、戦後生まれの僕らにとってその「観音山」は郷土の誇りとして大いなる存在だ。
それは、未来永劫、建立者、井上保三郎翁の意志を忘れることなく、そうした先人の残した歴史的遺産をいかにして未来につないで行くかが、今、こうして平和な時代を享受する高崎市民、僕らの務めであるのではないかと深く思う。
真の意味での“都市計画”。
それはなにもこの街に高層マンションが林立することではない。そして政治が、行政がその威容を誇るかのような高層の市庁舎を作ることではない。まさにそれは、右肩上がりの高度経済成長時代の墓標であるかのごとき姿ではないか。
真の意味での“都市計画”とは、それは、いかにしてこの風土に照らした「自然豊かな、住み安い、暮らし安い、安心安全」の街づくりをすることではないだろうか。
そして、人はいずれ歴史に眠る、今、今日ここに生きる僕らも、悠久の歴史サイクルからすればその時代というソレはほんの瞬きのまでしかない・・・・・・
どんな立派な高層ビルディングも、やはり瞬きのまでしかない。であるならば、そんな僕らの子、孫、そしてその子の子、孫と子々孫々、数十年、数百年、数千年と今が残る、遺す。そんな街づくりが真の意味の「都市計画」ではないだろうか。
コンクリート建造物の耐用年数、寿命は60年~70年が限界だという。
だとするなら、その威容を誇り造り上げた21階建ての高層市庁舎も60年、70年後には解体されなければならない。たったの60年、70年の間だ。当然、それは近年市街地に林立する高層マンションも同じ命運に尽きるということは言うまでもない。はたしてそういうことがこの街、高崎の未来を見据えたとき正しかったことと言えるだろうか・・・・・・
およそ、人間のすることだからその叡智にも限界があろう。時の経済状況とか政治状況でそうならなければならなかった必然性はあったのかも知れない。しかし、今やもうそういう時代は終わったのではないだろうか。
2050年にはこの国自体も少子化による人口減少が進みその人口規模は今のおよそ半分の“6000万人”という政府統計もある。となればこの街、高崎もけしてその例外ではなく当然人口収縮があり、政治的理由をつけて隣接する他町村を合併しようともそこに来る現実を免れることは絶対にできないのだ。
そこで「高崎千年紀」。
それは今から579年後を想像しての街づくりである。
いったい579年後にはこの街はどんなふうに変容を遂げているだろうか。
想像しただけでもロマンではないか。
そこで、まずそのシンボリックな計画として「高崎城の蘇生計画プロジェクト」だ。
今から421年昔に誕生した『高崎城』そして『城下町』・・・・・
今日のそれはさまざまな理由の中、再開発もままならないままでいるのが今の、平成の『城下町』ではないだろうか。
しかし、ここに高崎には、その城下町にちなんだ町名も、お寺も、神社も今もそのままにして残っている。
あと50年弱で政府の統計通りだとすればこの街の人口も十数万人ほどなることは想像できる。そうした時この高崎という街の「都市空間」がどんなものであるべきかを今こそ「都市計画」するべき時ではないか。
政治的理由の「5カ年計画」とかではなく。
それは『高崎城』をメインにした“公園都市”そして“商業・文化都市”。
それにはまず電線の完全地中化とエコ路面電車の復活。そして行政ゾーンは旧高崎国鉄貨物操作場跡地、あるいは高崎競馬場跡地へ移転させ、現在のNTT、郵便局、市役所等があるところは『高崎城』を中心に歴史博物館、文化施設ゾーンとする。と夢は膨らむ・・・・・・
現在の21階高層市庁舎はその半分の階を行政サービス棟とし、残りは独立行政法人国立病院と連結させ「老人介護施設」とする。最上階は喫茶コーナー付きの図書館なんて言うのはいかがだろうか。いずれにしても高層市庁舎の寿命は60年、70年である。そんな遠い先の話ではないのだから。
この、大恐慌の到来は、それらの「夢」をじっくり考える良いチャンスではないだろうか。
いつ終わるともその見当すらつかないこの街、高崎の再開発事業。コンクリートの建築物もいいが、壊さなければならない時のことを考えて、今、この時代は再開発計画すべきだろう。
その意味ではいくらでも再生の利く日本固有のその風土に合った、自然と調和した「木工建築」を見直さなければならないことが最大限に求められるべきだ。
とにかく人口減少なのだ。すべてが右肩上がりの発想からの行政、公共工事、都市計画ではそれは廃墟を見るのを待つばかりだ。
少なくとも今年二十歳になった成人が50年後高齢者になる頃に、その『高崎城』を中心とし、上毛三山を背景にした森と緑の公園都市“高崎”が始まる、そんなを「大いなる夢」をみたい。
世代を問わず立場を問わず市民、民草の一人ひとりがそんな夢を語ってもいいのではないだろうか。
上記投稿は2009年02月08日を加筆、改訂し再掲
http://g3s.gunmablog.net/e33310.html
高崎千年紀委員会
Posted by 昭和24歳
at 13:13
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