2018年05月28日

風雲和田(高崎)戦国大合戦

風雲和田(高崎)戦国大合戦

和田(高崎)城の天守から眺めた戦中の和田(高崎)城下

和田氏がいつ某の理由でこの地に勃興したのか16世紀の始まり、それは実に興味深い歴史のロマンだ。
誰も語ることのない、その戦国の世の和田城(高崎)は城下町だったらしい。
そこから一世紀の歳月に安室桃山へと・・・

1590年、豊臣秀吉は小田原征伐をし徳川家康に関東を与えるとその家臣であった井伊直政を箕輪城(現・高崎市)に入城させた。
今でもその箕輪城址に立つとその関東平野の北端が一望できる。
そしてその一望の先には荒城と化した「和田城」と原野の中の集落が点在していたのだろう。

そこが高崎市の始まりであった。

まあ、上杉とか武田とか北条とかが切った張ったの戦国時代ですから今の高崎はそれこそ屍累々とした戦場さながらだったんでしょうね。「いざ鎌倉」の鎌倉街道ですから。
ま、歴史を紐解けばわずか500年前の出来事である。

井伊直政は箕輪城からその朽ちた和田城址を再構し「高崎藩」とした。

近江の井伊直政は高崎の城下町普請、つまり都市計画に近江商人を呼び寄せ、同時に箕輪城下の寺社、商人、町人高崎に移転させた。
高崎の城下町、その北のはずれは現在の羅漢町の「法輪寺」だとか、そして町名から察するに鞘町、紺屋町、等など寺院を中心に栄えた。なにせ現在でも中心街にはひと町内に二つからの寺がある。
江戸時代のそのさまはわずか半里四方にも及ばない城下に12もの寺が存在したのだからそれは戦国の名残なのだろうか。

まあ、NHKの大河ドラマじゃあないけどその和田城「和田氏」の始まりと滅亡、そして箕輪城の長野業政から和田義國、いずれも戦国時代の語るも涙のヒストリアだったろう。

そう、くどいがわずか、たったの500年の歳月の出来事なのである。

そして、封印された歴史にはなんといっても駿河大納言こと「徳川忠長」、二代将軍家光の次男、その母は浅井長政の娘「江」、NHK大河ドラマの主人公である。
そこに生を受けた徳川忠長が高崎の大信寺で切腹、享年28歳。その意味では徳川幕府との浅からぬ因縁ながらその歴史の片隅に影を落とす「高崎」。

戦国時代から徳川260年余の泰平の時代、この町の知られざる歴史をあらためて探索し、町人目線からの「わが町高崎」を後世に伝えるのも一考かと・・・

風雲和田(高崎)戦国大合戦



Posted by 昭和24歳  at 19:02 │Comments(0)

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