2019年10月05日

昭和の遺詠を刻む

昭和の遺詠を刻む
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可笑しいでしょ、今や・・・
彼女たちも立派な中年のおばさん(笑)


彼女の父親は大正12年生まれで元々は省線(現・山手線)の運転手だったが徴兵される前に海軍へ志願兵として横須賀へ。
敗戦で復員後は実家の農業の後継に。ご案内の通りの当時の世相です。
義父は農民運動に加わりそこの青年指導者として「日本社会党」のメンバーになる。
当時は片山哲内閣誕生で政界、政党は離合集散、そんな時期だったようだ。

良くは知らないが彼女の母昭和3年生まれの父、祖父は岩鼻村の村議会議員だったという。
当然農家だったが、その時期は大規模な軍需工場「日本化薬(旧・日本火薬製造株式会社)」、戦後は米軍に接収されその後その跡地の大半が「高崎原子力研究所」となっている。
その旧岩鼻村地域は「岩鼻代官所」があり幕末、明治維新にかけ高崎「五万石騒動」、つまり農民一揆があった土地柄か、政治色が強かった。

そんな義父は高崎市のもうひとつの農協の理事を務めながら専業農家として生涯を貫いた。
身長176センチと当時としては長身、国鉄機関士だった義父の一つ違いの弟は182センチ。親戚が寄り合うと身長167センチの僕はガリバーの中の小人のようだった。

残念ながら、その義父、授かった子供が全て女の子4人。
そんな中でも、子供の頃から僕のカミさんに期待していたようだった。婿を迎えて農業を継がせることにと・・・
カミさん、彼女は小さい頃からそんな父親のあとをついて野良仕事、や家畜の世話、夕飯の支度から風呂沸かしまで全てしていたそうです。
豚に赤ちゃんが生まれると母豚に踏まれないように介護していたとも。

そんな義父にとって僕の出現はとんでもないことのようだったようです(笑)。
もちろん結婚には大反対、カミさん、彼女は家を飛び出して僕のところへ。

僕らに長女が生まれて諦めたのか、カミさんの実家へ行くとそんな長女を連れておじいちゃんぶりを近所に見せるようになりました。
お酒は全くダメな義父でしたが、ヘビースモーカー56歳の時「大動脈瘤」で倒れ、手術、それ以降は入退院を繰り返す。
で、73歳の時再発症し手を振りながら手術室に消え帰らぬ人に。

カミさん、元気な頃は夏はぬか漬け、冬はタクワン、白菜漬けは欠かしませんでしたね。
お正月の御節料理、きんぴら、煮豆、ナマス。そして数の子の下ごしらえは職人技。

全て実家でやっていたことだった。

あれから45年、カミさんの実家は末娘、四女が病いに臥しながらひとり住まう。

義母は、92歳。この春脳梗塞で倒れ今流行りの「特別療養介護施設」にありがたくも入所している。

僕が義母、彼女と初めて会ったのは僕が25歳の暮れ、義母、46歳、そして義父51歳の時。

いろいろあった、でもそのワンシーン、ワンシーン克明に乗りに刻まれている・・・

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Posted by 昭和24歳  at 20:27 │Comments(0)

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