2018年04月02日

僕が育った町は曇りのち晴れ

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僕が育った町は曇りのち晴れ

“高砂町”序

高砂町は日清製粉と東小学校の裏門の入り口からを起点に始まる、“高砂町一番地”。
そのとまくちは、弓町がわに武田文具店、高砂町がわが山田畳店、対面かぎ状の交差点、九蔵町がわが中村パン店。そこは辻違いに弓町、九蔵町、そして高砂町が絡まるようにしてあった。
正式にはその横丁の表通りを、「東二条通り」というのだそうだが、僕は一度もそこをそう呼んだことはない。
その高砂町一番地から北へおおよそ、百メートルあるかないかの所が僕にとっての「横丁」だった。

高砂町は(上)と(下)に別れていて、はっきりしたことは知らないが僕の横丁辺りは(下)で、その高砂町を二分していた「五本辻」から向こうが(上)と言われていた。
僕の“横丁”はその高砂町一番地から一八番地辺りの「五本辻」までと、その東二条通りから日清製粉工場敷地手前の袋小路からなっていた。

その横丁の東には今は空き地、駐車場になっているが、そこには広大な日清製粉高崎工場があり、そのはるか向うは上越線、信越線、両毛線が走っていて・・・・・・・
その時代は蒸気機関車、SLやら最新式の電気機関車が轟音をたてて忙しくしていた。

日清製粉は一年中、昼夜を違わず製粉機械の止まることはなかった。
その製粉工場の大きさといったら、ビルにしたら一〇階以上はあったのではなかっただろうか、円筒形のサイロ。
巨大な粉挽き機械の「ゴーッゴーッゴー」という音が、その異様に大きな建物と重なるようにしていまでも目に浮かぶ。

日清製粉はご存知、館林財閥の「正田家」の会社。
子どもの頃に噂で耳にした話だが、なんでも今上皇后、ご幼少の折にはそこ、日清製粉高崎工場をお訪ねになったとかならなかったとか。
というわけかどうかは知らないが僕の家の小路に面してその当時「テニスコート」なる物がその日清製粉にはあった。
さすが正田家の日清製粉、その頃はこの辺の工場ではテニスどころか社員、従業員が日曜休日にスポーツなどという時代ではなかったのだからいずれにしてもそのハイカラさを窺い知ることが出来る。
その日清製粉の塀づたいに小路を北へ詰めた所にその日清製粉高崎工場の“社宅”があった。

財閥系大企業・・・・・・
今にして思えば、あの時代「工場勤め」とはいえその横丁界隈ではエリートの趣で、
その社宅に住む僕の同級生などは通っていたのは「高崎保育所」ではなく「聖光幼稚園」という私立のキリスト教系の洒落た奴だった。
典型的な「社宅族」、ニューファミリーで、当時、昭和30年代、、まだ世間では“ボーナス”などという贅沢ないただきモノはなかったように思うが、その時代に「クリスマスプレゼント」とか、同級生たちは騒いでいたように記憶している。

もちろん、電気洗濯機、電気冷蔵庫、テレビと・・・・・・
あの時代のこと、その日清製粉社宅の屋根屋根には“テレビアンテナ”が見る間に林立して、横丁の垂涎を誘っていた。

今はその面影さえない。
何もかもが変わってしまっている。

良かったのか悪かったのか、そんな思いがそこに立ったとき交錯する・・・・・・

僕が育った町は曇りのち晴れ




Posted by 昭和24歳  at 18:11 │Comments(0)

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