2018年03月07日

上州高崎今昔“駅前繁盛記”

上州高崎今昔“駅前繁盛記”

この辺りだった・・・
小ぶりだが美味い・・・
「馬車屋」のおにぎり。


当時、あの頃の高崎駅前の土産物屋辺りは確か「アーケード」になっていたように憶えている。
今の朝鮮飯店の合い向かいがやはり旅館で道幅は現在の半分くらいだろうか大きな建物といえば新町までの右手の、月賦専門店「緑屋」が目立っていた。

僕は駅を背に右手の「馬車屋」と云う「おにぎり屋」が贔屓だった。日通の高崎支店の手前である。

姐さん風の「キッ」とした女将さんと、手代のオネェさん、年の頃は三十半ばか、当時昭和50年。
その女将さんにしょっちゅう叱られながらも甲斐甲斐しく客を案内していた。

「すみませんねぇ、気が利かなくて」

と、女将は手を休めることなくおにぎりを握りながら客を気遣う。

「すみません、すみません」

手代のオネェさん、すみませんを口癖のように繰返す手代のお姉さん。

まあ、客が七、八人で目一杯のカウンターだけの店だからそう意気込むこともないのだろうが、その女将さんはどう言う訳か律儀であった。

兎に角、その馬車屋。季節季節の漬物が美味い、これが堪らなく美味いのだ。それに、大きくも無く小さくも無い、いつも炊き立てのご飯のおにぎり。

僕はもっぱら、「おかか、こんぶ、シャケ」だったが、さっと仕上げた「なめこ汁」もなかなかのものだった。
今ではそんな気の利いたものを食わせる店はない。もっとも食う方もどうやらその辺、即席「インスタント世代」美味いも不味いも口が知らないのかも知れない。

その「馬車屋」も再開発とやらで、僕が暫く高崎を離れている間に姿を消してしまっていた。今のオーパのスタバ辺りか。
もう一度食べてみたい。どうしても食べてみたいもののひとつなのだが・・・・・

しかし、どうやらそれは思い出の中に仕舞われてしまうのだろう。
そうと思うと無性にもう一度食べてみたくなる最後に食べたのが昭和55、6年だったろうか。

間口半間のガラスの格子戸のシブイ滑車の軋む音が今も耳に残る。

その頃の高崎駅前には「馬車屋」を挟んで南に「もみじ食堂、小徳食堂」そして「堺屋土産物店」。
北に、「キング・バー、喫茶うえの」とあったように記憶する。
そして「日通」。そこから先は今はニチイ、高島屋となるが、一帯が「高崎倉庫」と「群バス」の車庫があり、もちろん舗装などはされてはおらず、梅雨時などの雨上がりは歩くのにも一苦労。
また、雨が上がって乾けば乾いたで砂埃でまた往生させられたものだ。

もちろんそこには“高島屋”の「た」の字も無い。
今の高島屋、旧ダイエー辺りで「慈光通り」は袋になっていて、日通の貨物トラックと国鉄の客車の操作場が昼夜違わずけたたましく賑やかな音の所だった。
因みに、昭和三十年代まではその客車を揃える「客車区」と、上、信越線、両毛線を挟んだ向かいには「蒸気機関車」のターンテーブルが忙しくしていた。

そんな昭和三〇年代の風情がそこにはあった。


やきとり「ささき」

その、日通の前を暫く行くと右手に赤提灯見える。その頃は電車区とかになっていたのだろうか。
昭和の三〇年代中頃までは本線を挟んで「SL」がターンテーブルの上で汽笛と共にもくもくと煙を吹き上げていた。
重厚長大な時代とでも云うのだろうか、あるものひとつひとつがとてつもなくおおきく映った。
もっとも僕が子どもだったせいもあるのかも知れないが兎に角大人たちは忙しくしていたのが今でも脳裏に焼きついている。

その「赤提灯」には、「ささき」と書いてある。暖簾を背中に垂らして開いた戸口からは夕方になると勤め帰りの客がはみ出している。
古くからの客に言わせると、それを「コーラス」状態と言うのだそうだ。
斜に構えて椅子に座るからそう云うのだそうだが、丁度「コーラスグループ」が唄う時のように。

「ささき」の客筋はと云えば、ポッポやにはじまって職工―――当時は少し北側にある「高崎鉄道管理局」から向こうは、東京ガス、古河鉱業、昭和電工、日清製粉、小島機械、水島鉄工所、そしてそれらを取巻くように下請けの工場が犇きあっていたのだった。

所謂、労働者。筋骨隆々とした汗の匂いをぷんぷんさせた戦後のひと時代を彩った大衆の街の音。この時代に思えばそれは粗野ではあるが今のような白けた冷たさはなかったような気がする。

「ささき」の品書きには「ヤキトリ」と「お新香」しかない。それも、「ヤキトリ」とは云うものの「鶏」ではなく、「豚モツ」である。

「ヒモ、レバー、タン、ハツ、カシラ、コブクロ、ナンコツ」。それの、塩かタレ。

「ささき」は、女将さん、ママさんと言うよりは、どちらかと言うと「お母さん」の趣。詳しくは聞いたことは無いが何でも2代目で、出身は「越中富山」だと聞いていた。
お手伝いのお姉さんも、お姉さんと言うよりは「お姉ちゃん」・・・・・
その「ささき」が再開発で通町に移転するまで、「お姉ちゃん」も何代か替っている。

しかし、源氏名かどうかは知らないが、何れも「ちーちゃん」であったと記憶する。
また、夫々の「ちーちゃん」が姉妹であるかのようによく似ていて、代々の「ちーちゃん」が共に「やきとり屋」の趣ではない。
がしかしその趣ではないにしてみてもやはりそこは「ささき」の「ちーちゃん」なのである。これは万人の譲る所である。

ご案内のママさんと云うより、「お母さん」の趣、それも優しそうな、どこにでもいそうなそのお母さんはもの優しい言葉遣いで得もいえぬ面持ちで酔客を心地好くさせていた。

中には酒癖の悪い客も時にはいる。

「ま~怖い、いけませんよ。もうお出ししません」

と、その客が四の五の言おうと。「はい、お会計。早く帰んなさい」と捌かれてしまう。

代々の「ちーちゃん」も口数は至って少ない。もっとも、夕方五時も間も無く「満席」。
それでさっきの「コーラス」状態で二〇人近くがカウンターに集るとそこは既に、まるで「すずめの学校」なのだ。
それも、柱時計が十一時を打つ頃には黙っていても閉店を知らされる。それもそのはず、「高崎線、上信越線、両毛線、八高線、上信」と最終電車が無情にも最後の串を取り上げる。

僕が初めて「ささき」に行ったのはやはり昭和四五年頃だろう。ニュージャパンのメンバーでもあり友人の「加部」に連れられていったのが最初だった。

「なべ~イッパイ行くか」

僕にとっての「ささき」の始まりははっきりはしないが、その酒飲み人生のとっつきが「ささき」であったことは間違いがない。

ジャパンの仕事が休みの時によく加部と連れ立って「ささき」、「中熊」、「一力」そして上がりが「富寿司」だった。

「今度立ち退きでお店は続けたいんだけどね」とお母さん。

そう云えば、駅前の再開発でその「ささき」の直ぐ前にスーパー「ダイエー」と「高島屋」が出来ていた。当然駅周辺の様子も一変し、既に「ささき」の裏に広がった「電車区」も既に双葉町の方へ移っていた。
長女がオシメをしている頃もよく行った。まるい椅子を二つほどつなげてその長女の惜しめを替えたのが懐かしい。その長女、昭和五一年生まれだから今から27年も昔の事だ。

「しばらくお休みするけどまた開けたらお出かけください」

どこまでも丁寧な口調で店の移転でしばしの休業を夫々の客に案内していた。

保健所の営業許可証には「佐々木真一」と書かれていた。

「佐々木真一?」

どこかで聞いた事がある名前だ。そうだ確かそんな名前の歌手がいた。

いつかお母さんに聞いた事があった。

「佐々木真一って、息子さん?」

「そうなの―――息子、今度のお店の時は息子にやってもらう事にしてるの」

その後、暫くは僕も仕事で東京へ通ったりしていていつも夜遅く今はない「ささき」の前を通り過ぎながら後ろに「その」音を聞いて「ささき」を懐かしんでいた。

上州高崎今昔“駅前繁盛記”



Posted by 昭和24歳  at 15:08 │Comments(0)

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