2018年02月07日

「八間道路の夜店」を、中銀レトロ・アヴェニューで

「八間道路の夜店」を、
中銀レトロ・アヴェニューで


本通り商店街約1kmに渡り露店が立ち並び、夏の尾道を盛り上げます。
金魚すくいをしたり、わた菓子やりんご飴を食べながらブラブラしたり。
子どものころに戻ってみませんか?

尾道市、総人口135,545人。高崎市はおよそその3倍の人口規模ですから・・・・・
レトロアヴェニューって言うんなら中銀、やってみたら。
「高崎の夏を盛り上げます」って。

八間道路の「夜店」

その昔、渋川までの「ちんちん電車」が走っていた田町通から、弓町の四つ角までの道幅「八間」。
その道をはさんで大正昭和と栄えたと聞く、「大類里街道」をそう呼んでいるようだ。いつの頃であったかはそれは定かではない。
僕が物心ついた頃にはその「八間道路」、夏の風物詩として「夜店」が子ども心を躍らせた。
もちろん、テレビなんぞはなく、映画館でさえ東小学校の校庭で夜間に上映されたそんな時代の話だ。

「夜店」、それは「法輪寺」の門前を中心に、露天が縁日の賑わいを創っていた。

その時代、それぞれの家にまだ「風呂」などと言うものはそうはなかった時代のことで、あの界隈だけでも「銭湯」が、旭町の「東湯」、屋号は忘れてしまったが、山田町と椿町の「椿湯」。
それに「八間道路」北通町にも大きな銭湯があった。戦後、間もない昭和30年の始まりの頃その「銭湯」でさえ贅沢だったのかも知れない。
もっぱら僕らは、タライ行水を浴びて、短尺帯の浴衣を着せてもらい母に手を引かれ行ったんpが「夜店」。ノスタルジックな響きの言葉だ。
定番の金魚掬い、ヨーヨー、綿アメ、それに多分5円くらいだったか木箱の中で「飛行機」の回るクジ。焼きそば、お新粉細工、アメ細工・・・
ハリガネ鉄砲を器用に作る小父さん、木の鉄砲・・・カーバイトの灯りの下で焼く「焼き饅頭」。極めつけは、法輪寺の境内で開かれる「のど自慢」と、どう言う訳か「ボクシング大会」があったりして。

そうそう、法輪寺のボクシング大会と言えば法輪寺門前横にあった「太陽堂」という菓子屋のオヤジさんが仕切っていたようだった「。
というのも、そこには大河原くん」という転校生の同級生がいて、そんな話を聞いたことがあった。

兎に角、その「八間道路」弓町の交差点から先は、東、北と戦前から工業地帯。
開かずの踏み切りには、まるで問答無用のように「SL」が怒るようにしてけたたましく往来していた。
その辺り、満州帰りやら、復員のニイサン、小父さんが朝に夜に口角泡を飛ばしていた時代であった・・・・・

その時代、労働者の足と言えば、もちろん「自転車」・・・それさえも贅沢な時代だったかもしれない。
サラリーマンの月給が1万円台の頃の話だから差し詰め一ヶ月分の月給を叩いて手にしたに違いない当時のサラリーマン。
僕も自転車を覚えたのは親父の通勤用、「自家用自転車」の「三角乗り」からだった。

まあ、その時代はデパートもないし、もちろんスーパーだってない。朝餉夕餉の買い出しはもっぱら九蔵町か、その八間道路だった。
子どもだった僕らには駄菓子屋華やかりし頃で、ベーごま、ビー球、面子と遊びに事欠くことはなかった。
気づいた時には、そんな「夜店」の風物も消えてしまっていた・・・・・
駄菓子といえば、もう一度どうしても食いたいのが「ボタンキョウ」。薄汚れたガラス瓶の中にプカプカ浮いた奴。
其の「ボタンキョウ」だが最後に食ったのが昭和50年の夏、ようやく探し求めてたどり着いたのが芝塚の駄菓子屋だった。

どこにでもありそうな「町」・・・

それが「高崎」かも知れない。
でも僕にとっての「高崎」は、世界でたった一つの「高崎」なのである。

僕の横丁には駄菓子屋が数軒あった。東小学校、東二条通の八間道路から高砂町五本辻の300メートルほどの間。
高砂町下には、山盛、長井、長谷川、戸塚とあった。入り組んだ町名に、九蔵町の中村、弓町の栗原、神田・・・・・
その中でも完全に駄菓子屋と言えるのは、山盛、長井、栗原だったろうか。
山盛は、模型専門。模型とは言っても竹籤をセメダインで貼付け、障子紙を翼に貼り、竹のプロペラをゴムの動力で飛ばす奴。山盛は、どう言う訳か小父さんも小母さんも無愛想で、子どもには人気が無かった。それでも、初めての少年マガジンはそこ、山盛で買った。
長井は、山盛とは二軒長屋続きですぐ隣にあった。もともとは、下駄屋を商っていた。もっぱら低学年の子どもたちは「長い」で買っていた。
冬には、「お好み焼き」もやっていて・・・小母さんも面倒見が良かった。残念ながら今はその二軒とも、往時を偲ぶものは何も無い。

「ビー球、メンコ、ベーゴマ」はみんなそこで買った。
雨が降ればその横丁の軒先でベーゴマ合戦。僕らがよくやったのは藤巻箪笥店の軒が「ショバ」であった。
長井と言えば、ボタンキョウはもちろんだが、ひとつどうしても忘れられない駄菓子があった。

それは「ソースイカ」である。

今にして思えば、その「ソースイカ」なんだが、なんとも不気味に着色された代物。
スッパイんだけど、今の「ヨッチャンの酢漬けイカ」なんて足下にも及ばない美味さだ。

で、僕らはどう言う訳か「長谷川」には行かなかった・・・どうやら「長谷川」は女の子専門だったようだ。
その長谷川の手前に「杉山」と言う貸し本屋・・・今で言えば、「TSUTAYA」か(笑)。
その「杉山」では、赤胴鈴の助、いがぐり君、月光仮面・・・よく借りた。遅れても延滞金は付かなかった。
小学校の入り口に「武田」と言う「文房具屋」もあった。当時はセルロイドの下敷、セルロイドの筆箱・・・
兎に角割れやすいし熱に弱くすぐに曲がったりして持ちが悪い。鉛筆も芯が良く折れたから結構その「武田」繁盛していたようだ。

弓町に行くと小高の床屋、泥鰌屋、タバコ屋、寺田の肉屋・・・そして栗原へと続く。栗原は僕らが小学校の時はまだ無かった。
栗原に気付いたのは、僕の娘たちが駄菓子屋通いを始めてからだ。
次女はもっぱら、高崎保育所の帰りには必ず、「長谷川」で駄菓子を買って、「ウサギの本屋」で、付録を買うのが楽しみだった。
昭和50年も呉れようとした静かな時代・・・
なぜか、とっても静かな時代だったような気がする。
もしかしたら、今の時代に似てるのかも知れない・・・その静けさは。

昭和30年代、東小学校の生徒数は800人を切ることはなかった。
駄菓子屋も、文房具屋も繁盛したはずである。

「八間道路の夜店」を、
中銀レトロ・アヴェニューで



Posted by 昭和24歳  at 14:09 │Comments(0)

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