2017年09月23日

父の自叙伝「エンディングノート」を書く

父の自叙伝「エンディングノート」を書く

昭和18年10月13日・・・
東京市豊島区巣鴨大塚とある。


↑もう一人の父と母の婚礼。
父も写っている、父の兄も姉も・・・・・
そして僕の父も。

渡辺兼吉、俺は大正元年7月15日、静岡県駿東郡沼津町大字小諏訪365・・・・・
父・眞木清五郎、母・渡辺サヨの次男として生まれた。
父のことは全く記憶がない、物心ついた頃年に数日小諏訪の家に逗留した。

戸籍を見ると、俺も兄貴の永吉も、姉の美佐、妹のヨシも「私生児」と記されている。
つまり母子家庭、今でいうシングルマザーなんだろうけど、確かに家は豊かではなかったが沼津の漁村の一角の一軒家に暮らしていた。
伝え聞いたところによると、母・サヨは三島で芸妓をしていて、富山の薬売りの息子、眞木清五郎との恋仲の末、身請けだろうか・・・・・
沼津町小諏訪に居宅を与えられ4人の子どもを育てたようだ。
というのも、父・清五郎の実家は富山では大きな薬房で、母・サヨと俺たち子ども4人を面倒見ることができたらしい。

兄貴の永吉と俺は10歳離れていた、そして姉・美佐とは8歳、妹・ヨシは俺より4歳下だった。
兄貴の永吉は尋常高等小学校を終えると、国鉄の給仕として勤め始めた。
学業も優秀だった兄貴はそのまま国鉄に勤め機関士になったが昭和29年勤務明け、畑仕事をしながら脳卒中で帰らぬ人となった。
享年、53歳。突然の死に俺は妻、ナツと息子、一を連れて沼津の実家に急いだ。
俺にとっては父親のような兄貴で、大正12年尋常高等学校を出ると東京、浅草の酒屋に奉公に出た。

その奉公先の酒屋で5年、17歳になっていた。元来が芸事の好きな俺は3代目三遊亭金馬の通い弟子となり落語家を夢見た。
そんな時期もあったが、日中戦争も始まり、兵隊に取られるかもしれないというので兄の伝手で国鉄に勤務することになった・・・・・
既に30になろうとしていた頃であった。そんな頃、姉・美佐は東京大塚の料亭に奉公に出ていた時に見初められた梅田壮吉と結婚し、その大塚の三業地で小料理屋を商っていた。
そんな関係で、小料理屋仲間の宮内とか言う人の紹介で縁談が持ち上がった・・・・・・

なんでもその宮内さんの小料理屋と入魂にしている、当時ではハイカラな「タイル工事」をしていた森田永吉の妻・シマの妹が22歳で、どうだということで。
まあ、俺は32歳になってたので10も違うのでどうかと思ったが、兄貴も、姉もこのままでは兼吉は一生寡婦暮らしだと心配してさっさとその縁談を勧めていった。
その縁談の相手は松原ナツ。群馬県碓氷郡豊岡村で、当時は桐生ほ和服仕立て工場で仕事をしていたとか言っていた。

話はトントン拍子で進み、その宮内さんのところの料亭で見合い、という運びに。まあ、いいも悪いもないもう敗戦の色濃い昭和18年だった。
早速挙式をその小料理屋の広間で挙げることとなった。
その時の記念写真が↑

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Posted by 昭和24歳  at 20:54 │Comments(0)

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