2017年02月21日
昭和の「みゆきダンスホール」が復活!!
昭和の「みゆきダンスホール」が復活!!
高崎の街中に「昭和」の賑わいを!!
昭和42年頃です。高崎の街中には「みゆき」「社交」「セラビ」と、3ヶ所のダンスホールがあった。
老舗は、ご案内の「みゆきダンスホール」。
「みゆきダンスホール」は中央銀座通りのど真ん中、パチンコ「麗都」の2階にあった。
噂だと、戦後、数ヶ月だったけど陸軍高崎十五連隊跡に米軍が進駐、でいわゆる米兵の遊興施設としてオープン。
その後の社交ダンスブーム、ロカビリーブームで昭和20年代、30年代と当時の若者のたまり場でした。
まあ、「みゆき族」だの「カミナリ族」だの、昭和10年代生まれのお兄さんがリーゼントにラバーソール、マンボズボン。
お姉さんはポニーテールにドットのワンピース、靴はは当然サドルシューズでおしゃれして、ツイスト、マンボ、ジルバ・・・・・
まっ、今はそんなお兄さん、お姉さんもそろそろ80歳になりますでしょうか?とにかく賑やかな時代だったようです。
で、昭和も40年代に入って「テケテケテケーーーッ」です。
アストロノウツの「太陽の彼方へ」、ベンチャーズの「ダイアモンドヘッド」、つまり「エレキブーム」です。
猫も杓子も「テケテケテケーーーッ」で、みゆきダンスホールでは「モンキーダンス」に「サーフィン」「ゴーゴー」でした。
そのうちに、ビートルズ、ローリングストーンズが、そうこうするうちにグループサウンズ・・・・・
「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」「田辺昭治知とザ・スパイダース」で、みゆきはダンスホールは週末は超満員。
そうです、団塊世代です。当時は娯楽らしい娯楽もなくそら、映画といえば「オールナイト」だったりで、街中、若者で溢れかえっていました。
なにせ、高崎の街中には喫茶店だらけ、映画館だって東宝、オリオン座、電気館、東映、松竹、日活、ピカデリーとわんさか。
そんな街中で、みゆきダンスホールのトップスターが「ザ・プラネッツ」でした。
で、その「ザ・プラネッツ」がアレから50年、高崎の街中に「みゆきダンスゴール」を復活、再現!!
グループサウンズはもちろん、当時流行っていたアメグラ、オールディーズにカラオケもやっちゃいます。
飲んで踊って歌って、青春しましょう!!
「青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。」
「青春の詩」サミュエル・ウルマン
昭和の「みゆきダンスホール」が復活!!
高崎の街中に「昭和」の賑わいを!!
昭和42年頃です。高崎の街中には「みゆき」「社交」「セラビ」と、3ヶ所のダンスホールがあった。
老舗は、ご案内の「みゆきダンスホール」。
「みゆきダンスホール」は中央銀座通りのど真ん中、パチンコ「麗都」の2階にあった。
噂だと、戦後、数ヶ月だったけど陸軍高崎十五連隊跡に米軍が進駐、でいわゆる米兵の遊興施設としてオープン。
その後の社交ダンスブーム、ロカビリーブームで昭和20年代、30年代と当時の若者のたまり場でした。
まあ、「みゆき族」だの「カミナリ族」だの、昭和10年代生まれのお兄さんがリーゼントにラバーソール、マンボズボン。
お姉さんはポニーテールにドットのワンピース、靴はは当然サドルシューズでおしゃれして、ツイスト、マンボ、ジルバ・・・・・
まっ、今はそんなお兄さん、お姉さんもそろそろ80歳になりますでしょうか?とにかく賑やかな時代だったようです。
で、昭和も40年代に入って「テケテケテケーーーッ」です。
アストロノウツの「太陽の彼方へ」、ベンチャーズの「ダイアモンドヘッド」、つまり「エレキブーム」です。
猫も杓子も「テケテケテケーーーッ」で、みゆきダンスホールでは「モンキーダンス」に「サーフィン」「ゴーゴー」でした。
そのうちに、ビートルズ、ローリングストーンズが、そうこうするうちにグループサウンズ・・・・・
「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」「田辺昭治知とザ・スパイダース」で、みゆきはダンスホールは週末は超満員。
そうです、団塊世代です。当時は娯楽らしい娯楽もなくそら、映画といえば「オールナイト」だったりで、街中、若者で溢れかえっていました。
なにせ、高崎の街中には喫茶店だらけ、映画館だって東宝、オリオン座、電気館、東映、松竹、日活、ピカデリーとわんさか。
そんな街中で、みゆきダンスホールのトップスターが「ザ・プラネッツ」でした。
で、その「ザ・プラネッツ」がアレから50年、高崎の街中に「みゆきダンスゴール」を復活、再現!!
グループサウンズはもちろん、当時流行っていたアメグラ、オールディーズにカラオケもやっちゃいます。
飲んで踊って歌って、青春しましょう!!
「青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。」
「青春の詩」サミュエル・ウルマン
昭和の「みゆきダンスホール」が復活!!
Posted by 昭和24歳
at 15:05
│Comments(4)
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
ダンスホールの事で質問なんですが、当時ライブしていたバンドは呼び屋が呼んだプロのバンドだったのでしょうか?ジャズ喫茶やダンスホールはあの当時、芸能色が強く、職業として米兵相手にビジネスとして演奏していたと聞いた事があります。高崎はどうだったのか教えていただけませんでしょうか?
高崎の街中で米兵が闊歩していたという話はあまり聞きませんから米兵相手のビジネスということではなかったようです。もともとが軍都、高崎でしたので赤線は栄えてました。で、バンドですけど終戦直後からプロということではないようです。ダンスホールが流行りだしたには講和条約発布以降ではなかったでしょうか。因みに演芸、芸能は盛んで古いですが漫才のトップライトのライトさんは高崎、小塙のご出身。戦後復興、高度経済成長の中その手の小屋主は韓国人、芸能プロというか興行師は平場では仕事をしてませんでした。まあ、娯楽に植えていた時代でしたからダンスホールはティーンエイジャー、不良の溜まり場で、プロのバンドがハコで入るようになったのはキャバレー全盛時代からです。ご参考になるかどうか拙文をお許し下さい。