2016年09月26日

追憶と忘却の交錯

追憶と忘却の交錯


何年ぶりだろうか。

僕は僕が生まれた家の前を・・・・・

とは言ってもそこにはその昔の姿はどこにもない。
すっかり変わってしまったその“形”に己の道の長さを感じ、一抹の不安が過ぎった。

庭の柿の木も、“マルヨ”と記された商い屋、その格子のガラス戸も今はない。

祖父が亡くなったのは昭和31年。祖母が33年。そして父が昭和40年、母は平成16年・・・・・・

一枚の写真を思い出した。

それは未だ僕がここには、この世にはいない時代の一葉である。

出征中の父をのぞいた父の妹家族、それも東京の伯母たちの集団疎開の大家族。
姉3人に従兄弟たち、祖母、伯父伯母たちのその“戦争”を全く感じさせない・・・・・・
平穏な昼下がりを写した庭先でのこと。

母の背中に眠る姉はこの翌年に亡くなった。

その頃はここには道がなかった。

その“庭先”でのそれ・・・・・・



戦後、そこは“新道”が貫かれ、今はその庭先にひっきりなしに自動車が行き交う。
まるでそれはひとつの時代を引き裂き、引き千切るかのようにして。

明治の終わり、日露戦争から復員した祖父がそこに“新宅”を出したのが大正元年、翌年の2年、父が生まれた頃だった。
そこは八幡八幡宮、豊岡八幡宮を中心としたひとつの村の中の集落だった。
祖父も父もそこで終戦戦後と、父が亡くなる頃まで農業と万屋、そして桃梅の市場の仲買などでそこそこの商いをやっていた。

僕の生涯・・・・・・

と言うより、子どもたちがどうそれを感じているかは知る由もないが。
僕はある日友達と待ち合わせるために何年ぶりだろうかかつては桃の花が咲き乱れていた丘陵、桃が丘を歩きながら・・・・・
その桃が丘、長女が5歳、次女が2歳までを過ごした小さな一軒家を探した。

なんと、チョイと小高い丘の上のその小さな一軒家は昔のまま、それは30年以上前と何も変わらぬままそこにあった。
小さな梅の木もそのまま、しかしその僕らが5年ほど暮らしたその家の周りは30年と言う歳月を僕に見せ付けていた。
長女が通った「桃ケ丘保育園」。そこには長女が遊んだ遊具もそのままのようにあった。
長女が保母さんに叱られて閉じ込められたニワトリ小屋も・・・・・
僕が迎えに言って泣きながら飛び出してきたその時のままのようにそこにあった。

そう言えば、30年前、そこいら辺一帯は“若い家族”で活気が漲っていた。
そして今、そこには30年と言う歳を重ねたひとつの街の姿。
印象的だったのは長女次女をベビーカーに乗せて毎日のように買い物に通った「スーパー堀田屋」が消えていたことだった。
そこには「スーパー堀田屋」があったところと、周辺には建売の“若い家族”の佇まいにふれ・・・・・
去来するのはあの時代のざわめき。

そうだ、梅の花が、そして桃の花が咲くはずのころもう一度、友人を訪ねながら・・・・・・・

追憶と忘却の交錯



Posted by 昭和24歳  at 08:53 │Comments(0)

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