2016年08月26日

昭和の風

昭和の風




大川と染物工場

ここ高砂町には僕らが子どもの頃、「大川」と呼んでいた、箕郷、榛名、そして高崎北部の農業灌漑用水を源流にする「長野堰」が町内を南北に分けるようにして流れていた。
その長野堰は高崎市北部の並榎町辺りからその川沿いに何軒もの「染物工場」が林立していた。
今では観ることもないが昭和四〇年頃まではその長野堰で染色上がりの布を川に流し、さらしながら大きな屋上の物干し台にそれを棚引かせるのが風物、風景だった。

僕の育った高砂町には、戦前戦中は軍需工場だった小島機械、水島鉄工所があり、昭和の30年代まではそれはそれは忙しくしていた。
今では7階建ての市営住宅が建ち、その左手、高崎でも最大規模の染物工場跡には高層マンションが4棟も並んで立っている。

随分と様変わりしたものだとその平成の風景に心なしか侘しさが過る・・・・・・
もちろん日清製粉高崎工場も跡も形もない。そこには高層マンションが南東か旧住民住みビト知らずのまま建っている。
その長野堰、大川沿いに、高崎随一の染物工場「川原染物店」があった。
その、川原染物店は僕の同級生「川原君」の家が当時何代続いていたか詳しくは知らないが経営していた。
僕は、小学校の頃その川原君ちの染物工場でよく遊ばせてもらったことを今でも良く憶えている。
高崎一番の染物工場と言うだけあって、それは同じ町内であってもその下町、高砂町「横丁」のそれではない。

川原染物店は、あの時代に「勝手口」なる玄関があった。その当時、勝手口などと言う物がある家はそうはなかったのではないだろうか。
その広さは盾には100メートル近くはあったのではないだろうか。いや、もっとあったかも知れない。
そしてその川原君ちの工場には天を突くような高く、デッカイ煙突が聳え立っていた。

「お店」と言われた正面玄関はまさに名にしおう大店と言った趣で、上がり端の帳場にはその川原君のおばあさんが・・・・・
高貴な、やはり大店の「女将さん」といった風でいつも「シャン」っと座っていた。
川原君のお母さんは織物では全国でも有数の桐生市の、やはり織物問屋か、染物工場かか、そんな大店のお嬢さんで、高崎に嫁いで来たのだと川原君が言っていた。やはり大店の、良いとこのお嬢様らしく、とてもじゃあないが横丁のオバサン、僕のオフクロなどとは「月とスッポン」、なんとも言えない趣をなしていた。
まあ、戦後のあの時代相当の大大尽だったに違いない。

電話室

昭和30年そこそこで、テレビはあるわ、僕の背丈ほどもあろうと言う「電蓄」、それよりもなによりも驚かされたのが、なんと、家の中に「電話ボックス」があるではないか。まだここら辺りの横丁、どこの家にも電話の「デ」の字もない頃の話なのだから珍しいの珍しくないのと言ったら半端ではなかった。

ガラスの格子戸と、真鍮の重厚な取っ手のついた電話ボックスの扉には「電話室」と金文字で仰々しく書かれていた。
僕はあまりもの物珍しさにその電話ボックスから出たり入ったりして川原君ちの番頭さんに良く叱られたのを憶えている。
もちろんその頃の僕の家なんかにはテレビなんて言う近代家庭電気製品などはまだなかった頃だったので、なにが楽しみったって、川原君ちで見せてもらう「ララミー牧場」が最高の楽しみだった。
もちろん川原君はそのララミー牧場の「ジェス・ハ―パー」を真似て、本物そっくりのモデルガンを得意げに「クルクル」っと回しながら早撃ちのポーズをとって見せるのだった。

「ララミー牧場ごっこしようぜ!!」

川原君は僕と遊ぶ時はいつもそれを楽しみにしていた。

「ララミー牧場ごっこ」とは、もちろん拳銃の早撃ちの真似もあるのだが、ジェスとスリムが殴り合いの喧嘩をするシーンの再現である。
どっちが、ジェスで、どっちがスリムだったかは――――?
たぶん交代々々だったとは思うがどっちにしても、いつもテレビではジェスが喧嘩に勝つ。そのことで時々僕と川原君、よく仲違をした。

そう言えば、川原君ちにはピアノもあった。
そのピアノを弾く真似をした。と言うのはララミー牧場の「スリム一家」にいていつもピアノを弾いていた爺や、なんとその爺やがあの「ホーギー・カーマイケル」だった。
名曲「スターダスト、我が心のジョージア」の作曲家だと言うことを後々僕の仕事の中で知った時はなんともいえない感動を覚えた。
川原君の本物そっくりのモデルガン「コルト45」とガンベルト。きっと、お父さんに買ってもらったんだろう。僕は羨ましくて、羨ましくて仕方がなかった思い出がある。
その川原君―――
今では会うこともほとんどないが、市役所の幹部になっているようだ。広報に載っていた。
顔つきはお母さんそっくりで、頭髪こそ白いものが大分目立ってはいたが、その笑い顔は小学校六年の時に河原君のお母さんに撮ってもらった川原君との写真、野球のユニホーム姿で笑っている川原君そのものだった。




野球少年でもあった僕と川原君・・・・・

時代の盛衰か、その染物工場は昭和が終る頃にはなくなっていた。もちろん、水島鉄工所も、小島機械も、もうそこにはない。あるのはあのバブルの影を引きずるマンションと、マンション建設計画予定地のままの広大な空地だけになってしまっている横丁の風景、それだけだった平成の始まり

目を閉じて耳を澄ませば今にも聴こえそうなその「昭和の風」が愛おしい。

昭和の風



Posted by 昭和24歳  at 18:19 │Comments(1)

この記事へのコメント
昭和26歳、東小出身です。大川の風景はもう見られませんね。お兄さんのことは知りませんでしたが、弟さんと同級生でした。一緒によく遊びました。
Posted by 旭町から高砂町 at 2016年08月27日 09:05
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