2015年12月14日
【高崎記憶遺産】東竜が終了しました「肉味噌ラーメン」。
【高崎記憶遺産】東竜が終了しました「肉味噌ラーメン」。
<↑上毛新聞>
いかにも職人といった風情の無愛想だった大将と、
そして、行ったら下町の食堂のおばちゃんの趣のオカミさん。
お疲れ様でした・・・・・
忘れじの味惜しみ行列 高崎の「東竜」43年の歴史に幕
看板メニューは「肉みそラーメン」
看板メニューの「肉みそラーメン」などが多くの人に親しまれた群馬県高崎市通町のラーメン店「東竜」が今月7日、43年の店の歴史に幕を下ろした。店主の細矢政男さん(75)と妻のチエ子さん(73)で切り盛りしてきたが、高齢を理由に閉店を決断。2人は11日から片付け作業を始めた。ファンからは「肉みそラーメンは“ソウルフード”だった」と惜しむ声が上がった。
肉みそラーメンは、しょうゆラーメンに回鍋肉(ホイコーロー)を載せた開業時からのメニュー。サラリーマンや部活動帰りの高校生らの人気を集め、最近も昼時に行列ができた。
<引用:上毛新聞 2015年12月12日(土) AM 06:00>
http://www.raijin.com/ns/3914498475938071/news.html
>「肉みそラーメンは“ソウルフード”だった」
刑事コロンボじゃあないけど・・・・・
「うちのカミさんが好きでした。肉味噌ラーメン」
1972年(昭和47年)のオープンでしたか。
で、浅草の老舗中国料理「東魁楼」で修行、のち高崎に出店した「東魁楼」って、アノ東魁楼?
デッカイ餃子がうまかったなぁ、焦げ目がキツネ色でジューシーで!!
昭和47年て言ったら、キャバレーニュージャパンでドラム叩いてて、あさま山荘事件、やじ馬・・・・・・
碓氷峠、吹っ飛ばしました。で、煌々と照らされ、ごった返す軽井沢警察署に連れ込まれる逮捕された連合赤軍の皆さん。
2月でしたけど、碓氷峠には雪はなかったですね、検問も厳しくなかった。
余談だけど道交法の「酒気帯び禁止」は昭和45年5月でしたから僕が16で免許取って5年目でしたね。
つまり、昭和45年5月以前は検問はやってませんでした。で45年以降1年くらいは注意でした・・・・・・
「お酒飲んで運転しちゃあダメだから」って言われる程度で、そうこうしてたら切符切られて公安委員会の聴聞、魔の金曜日(笑)。
自動三輪付きの「運転免許証」とサヨナラしちゃいました(;´д`)
まあ、「東竜」がオープンしたのはそんな時代だったんですねぇ、高崎の街中華やかりし頃の。
でも、「東竜」のあの通りは言ったら裏通りで、でも群タクがあって、中華料理って言ったら「尤敏?」だったか、藤五のすぐ裏にありましたね。
あそこは「湯麺」と「餃子」が美味かったなぁ、と記憶。
で、あの通り、その「東竜」は後発で、たしか「尤敏?」だったかと砂賀町の「三明」で。ここは僕が17くらいの時から通っていた。
「社交ダンスホール」でエレキを弾いていた頃です。バンド終わってそのごった返した「三明」、湯麺、ゴチでした。
そうそう、去年辺り?、今年の初め?閉めちゃったけど高島屋側、通町の「三富士食堂」、昭和40年開店。
三富士の大将80歳とか言ってたなぁ、その大将の末の弟とバンド仲間なんで・・・・・・
「兄貴、もう歳で中華鍋ふれなくなっちゃったとか言ってたからなぁ~」
そう言ってこぼしてたそうです。「東竜」の大将75歳ですか、やっぱり、お年頃なんでしょうかねぇ。
で、団塊世代、「高崎の記憶遺産」なんだが、中華だと残すところ新田町の「可楽」と請地の「萬来軒別館」。
そして、相生町の「精華軒」なんだがまあお世継ぎのいるところはともかく、まあ、記憶遺産の殿堂入りも。
あっ、あとひとつ、昭和49年ころから芝塚の交差点のところで商っていた「品芳楼」、わけあってしばらくやってなくて・・・・・
そしたら、成田町って言っても三国街道沿いのところで看板上げて、行ってみようかなぁって思ってたら仕舞っちゃって。
そしたら、柳川町のビューホテル斜前の「時時」、飲んだ帰りによったら、その「品芳楼」の大将。もう71歳だって。
いや、ここのチャーハンは美味い!!、まっ、他のも美味いけど、いわゆる伝統的な中華屋さんですね、いずれのお店も。
そうですか、「東竜」。最後に食べたのはいつだったか、多分、2年は食べてなかった。
で、やっぱり僕は「湯麺・餃子」でしたね・・・・・・
そんなわけで、高崎も次第に暮れてゆきます。さやモールもかなりお仕舞いになっちゃってるし。
やっぱり、再開発すべきは「中銀」と「さやモール」を核にした一帯ですね。確かに行政は大変だろうけど。
そうでもしないと、高崎は終わります。
【高崎記憶遺産】東竜が終了しました「肉味噌ラーメン」。
<↑上毛新聞>
いかにも職人といった風情の無愛想だった大将と、
そして、行ったら下町の食堂のおばちゃんの趣のオカミさん。
お疲れ様でした・・・・・
忘れじの味惜しみ行列 高崎の「東竜」43年の歴史に幕
看板メニューは「肉みそラーメン」
看板メニューの「肉みそラーメン」などが多くの人に親しまれた群馬県高崎市通町のラーメン店「東竜」が今月7日、43年の店の歴史に幕を下ろした。店主の細矢政男さん(75)と妻のチエ子さん(73)で切り盛りしてきたが、高齢を理由に閉店を決断。2人は11日から片付け作業を始めた。ファンからは「肉みそラーメンは“ソウルフード”だった」と惜しむ声が上がった。
肉みそラーメンは、しょうゆラーメンに回鍋肉(ホイコーロー)を載せた開業時からのメニュー。サラリーマンや部活動帰りの高校生らの人気を集め、最近も昼時に行列ができた。
<引用:上毛新聞 2015年12月12日(土) AM 06:00>
http://www.raijin.com/ns/3914498475938071/news.html
>「肉みそラーメンは“ソウルフード”だった」
刑事コロンボじゃあないけど・・・・・
「うちのカミさんが好きでした。肉味噌ラーメン」
1972年(昭和47年)のオープンでしたか。
で、浅草の老舗中国料理「東魁楼」で修行、のち高崎に出店した「東魁楼」って、アノ東魁楼?
デッカイ餃子がうまかったなぁ、焦げ目がキツネ色でジューシーで!!
昭和47年て言ったら、キャバレーニュージャパンでドラム叩いてて、あさま山荘事件、やじ馬・・・・・・
碓氷峠、吹っ飛ばしました。で、煌々と照らされ、ごった返す軽井沢警察署に連れ込まれる逮捕された連合赤軍の皆さん。
2月でしたけど、碓氷峠には雪はなかったですね、検問も厳しくなかった。
余談だけど道交法の「酒気帯び禁止」は昭和45年5月でしたから僕が16で免許取って5年目でしたね。
つまり、昭和45年5月以前は検問はやってませんでした。で45年以降1年くらいは注意でした・・・・・・
「お酒飲んで運転しちゃあダメだから」って言われる程度で、そうこうしてたら切符切られて公安委員会の聴聞、魔の金曜日(笑)。
自動三輪付きの「運転免許証」とサヨナラしちゃいました(;´д`)
まあ、「東竜」がオープンしたのはそんな時代だったんですねぇ、高崎の街中華やかりし頃の。
でも、「東竜」のあの通りは言ったら裏通りで、でも群タクがあって、中華料理って言ったら「尤敏?」だったか、藤五のすぐ裏にありましたね。
あそこは「湯麺」と「餃子」が美味かったなぁ、と記憶。
で、あの通り、その「東竜」は後発で、たしか「尤敏?」だったかと砂賀町の「三明」で。ここは僕が17くらいの時から通っていた。
「社交ダンスホール」でエレキを弾いていた頃です。バンド終わってそのごった返した「三明」、湯麺、ゴチでした。
そうそう、去年辺り?、今年の初め?閉めちゃったけど高島屋側、通町の「三富士食堂」、昭和40年開店。
三富士の大将80歳とか言ってたなぁ、その大将の末の弟とバンド仲間なんで・・・・・・
「兄貴、もう歳で中華鍋ふれなくなっちゃったとか言ってたからなぁ~」
そう言ってこぼしてたそうです。「東竜」の大将75歳ですか、やっぱり、お年頃なんでしょうかねぇ。
で、団塊世代、「高崎の記憶遺産」なんだが、中華だと残すところ新田町の「可楽」と請地の「萬来軒別館」。
そして、相生町の「精華軒」なんだがまあお世継ぎのいるところはともかく、まあ、記憶遺産の殿堂入りも。
あっ、あとひとつ、昭和49年ころから芝塚の交差点のところで商っていた「品芳楼」、わけあってしばらくやってなくて・・・・・
そしたら、成田町って言っても三国街道沿いのところで看板上げて、行ってみようかなぁって思ってたら仕舞っちゃって。
そしたら、柳川町のビューホテル斜前の「時時」、飲んだ帰りによったら、その「品芳楼」の大将。もう71歳だって。
いや、ここのチャーハンは美味い!!、まっ、他のも美味いけど、いわゆる伝統的な中華屋さんですね、いずれのお店も。
そうですか、「東竜」。最後に食べたのはいつだったか、多分、2年は食べてなかった。
で、やっぱり僕は「湯麺・餃子」でしたね・・・・・・
そんなわけで、高崎も次第に暮れてゆきます。さやモールもかなりお仕舞いになっちゃってるし。
やっぱり、再開発すべきは「中銀」と「さやモール」を核にした一帯ですね。確かに行政は大変だろうけど。
そうでもしないと、高崎は終わります。
【高崎記憶遺産】東竜が終了しました「肉味噌ラーメン」。
Posted by 昭和24歳
at 10:17
│Comments(1)
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でも、店主 仕事が趣味のような生粋の職人ですから、ちょっと心配します。