2015年10月29日

【備忘録】エレキの行商と大阪

【備忘録】エレキの行商と大阪

【備忘録】エレキの行商と大阪

>でも関東弁シャベルせんせー、あこがれましたよ。

「すんまへん、”アテ”もらってもいいです?」

「何だ、それ?」

「ええっ、“アテ”言いません?」

「だから、なんだそれっ?って聞いてるんだよ」

「僕、”レイコ~”にしますぅ」

「なんだ”レイコ~”って?」

「ええっ、”レイコ~”言いませんのぅ?」

「だから”レイコ~”ってなんだ?って聞いてんの!!」

大阪の営業所は「中崎西」でした梅田の西っ側でしょうか、大阪能楽堂のすぐ近く・・・・・

まあ、想像するに「お父さんはお人好し」の世界(笑)。
大人言葉も子ども言葉もないような、駄菓子があって、小学校が近かったのでわいわいがやがやな横丁。
そんな路地の奥まったところでした「大阪営業所」。

大阪出張の時はいつも「東急イン」に。
大きなお寺の真隣りで、飲んで帰ると「夜鳴きラーメン屋台」で出ていて楽しみでした。
そこからだと、営業所まで徒歩15分くらいだったでしょうか。
そう言えば、船場、心斎橋、長堀橋あたりだったろうか煙をもんもんとさせた焼肉屋、七輪で焼くホルモンは美味かったなぁ。

まあ、大阪出張って言っても滞在はせいぜい3日で、和歌山の「ぶらくり横丁」のお得意さんへ。
で、フェリーに乗って徳島から高松。で、まだ高速が全線開通してなかったので山道を高知まで。

で、高知から松山に来てそこからフェリーで柳井へ。そこから宇部。宇部の商店街はすっかり寂れてましたね平成6年ころ。
下関まで行って山陽道を広島、福山、そして倉敷、岡山。そこでエレキを積んだ車は大阪営業所の社員に渡して新幹線で名古屋まで。
名古屋からは東京の社員の車を引き継いで、岐阜、敦賀、福井、小松、金沢、高岡、富山、上越、長野まで。
冬季オリンピック開催の4年前でした。

そこから松本へ。松本では下請け工場と生産の打ち合わせをしたり。ちょうど「松本サリン事件」のあった年ですね。
東京ナンバーの車は検問されました、信大付近。
松本での宿泊は浅間温泉。年に一回は上高地、白骨温泉へ。末娘が2歳の頃はよく連れて行きました。
エレキの行商も終わりになるので、カミさんが末娘を連れて長野まで「特急あさま」で、新幹線はまだ開通してませんでした。
高崎へ帰るのは、中山道を佐久インタまで、で、吉井インタが終点。

高崎へ帰ると真っ先に、郷土料理「いろり」へ(笑)。

昭和60年から平成8年4月までよく走りました。北海道から九州まで。

僕には西日本の景色より、やっぱり東北北海道の景色が好き。

西日本には季節感がないように感じるのは僕だけだろうか、博多の夏は香港のような空気。

【備忘録】エレキの行商と大阪



Posted by 昭和24歳  at 18:10 │Comments(0)

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