2015年03月16日

高崎のグループサウンズ史

高崎のグループサウンズ史



出演は「みゆきダンスホール」

ここも連日超満員。「モンキーダンス」に「ゴーゴー」、まあ、世間で言う「不良」て云うやつ。そろそろ「フーテン」と云う言葉が流行り始めた頃だろうか。しかし、所謂「団塊の世代」。兎に角無茶苦茶な同世代の人数、その青少年が「エレキ」にシビレて街中に繰り出していたのだから、今の少年少女どころの騒ぎではなかっただろう。
「プラネッツ」はその「みゆき」をベースに、前橋の赤城会館、桐生、足利、熊谷と遠征していた。
 何処に行ってもボーカルの高木さんは物怖じしない相当のロックスターだった。けして「上手い」分けではないのだが雰囲気は抜群の物があり、お得意のナンバーは「ナナ」。克美しげるの曲。そして、アダモの「ブルージーンと革ジャンパー」。 得意のパフォーマンスで、「プラネッツ」ファンと言うよりも「高木」ファンが多かった。
 正直…「何故?」って云う感じもしないではなかったのだが、兎に角芸人であったことは確かだ。
 その芸人ぶりは今も変わらず彼方此方で披露しているようだ。時代はまさにエレキバンドブーム真っ盛り。それこそ猫も杓子目「テケテケテケーーー」。
 その頃、高崎にはそれなりに仕上がっているバンドが3つあった。まず「プラネッツ」である。そして「ビーズ」に「マイティーズ」。

「ビーズ」

 ビーズは兄弟3人を中心に、確かドラムが従兄弟、そしてボーカルが「ジュンちゃん」。この「ジュンちゃん」が結構名物的存在であった。
 見事な「ロングヘアー」。ルックスも、わが「ミックジャガー」よりは、もっと「ミックジャガー」だった。腰の辺りまで伸びに伸ばした「ロングヘアー」を振り乱しながら歌う様は、まさに「ミックジャガー」を髣髴とさせていた。しかし、当時のボーカルは、わが「ミックジャガー」もそうだが、歌詞「英語」が無茶苦茶。それこそ外人が聴いたらどんな顔をするか想像するだけで可笑しい。が、しかしそんなことはそんな事は全くお構いなしで、「ロック」はハートだと言わんばかりにチンプンカンプンにノリノリの多国籍語。またそれが受けるのだから何とも云えない。
 もう一人のミックジャガーの「ジュンちゃん」、今ごろ何処でどうしているだろうか。確か僕よりひとつ年上だから、今は「六七歳」。
 おそらく、髪の毛は「ロングヘアー」じゃあないとは思うが、風の便りにも届かない。

「マイティーズ」

 このバンドは、わが「プラネッツ」のリードギターのお兄さんがリードギターを勤める。どちらかと言うとインストルメンツを得意とするバンド。「寺内たけしとブルージーンズ」はお手の物だった。
 お兄さんのギターテクニックは残念ながら弟の「ジュリー」には及ばなかった。
 そうそう、わが「プラネッツ」のリードギター「時夫ちゃん」はメンバー紹介の時「ジュリー」と言ってくれときかなかった。
 もちろん、このジュリーは残念ながら「ロングヘアー」ではない。天然パーマの縮れっ毛で「ロングヘアー」には出来ない。
 それでも細工をしてぺったりとはしていたがそこそこには伸ばしていたが、そんなわけで、やはり「ジュリー」と言うには無理があった。
 しかし、そのジュリーこと、「兼谷時夫」なかなかの好男子でジュリーと言うよりは、ビートルズの「ジョージハリスン」を中国人にしたような感じだった。
 そうだ、思えば「プラネッツ」、ロングヘアーはドラムの僕だけだった。ベースの「中島さん」も癖っ毛で、ぺったりと「七三」に分けていた。そう、ルックスはブルーコメッツのベース「高橋」さんに似ていた。もしかしたら本人もそれを意識していたのかもしれない。

「ザ・プラネッツ」リサイタル



 昭和四三年、「プラネッツリサイタル」。群馬音楽センターは2度目だった。リードボーカルの高木さんとベースの中島さん、富岡さん以外は「初体験であった」。
第一部が「グヤトーン・エレキ大合戦」で二部が「プラネッツ」のリサイタルだった。確かその一部の大会で優勝したのが「マイティーズ」だったと記憶する。
 二千人は入ろうと言う「群馬音楽センター」。その、群馬音楽センターが「超満員」なのには驚かされた。
 プラネッツ、オープニングのテーマ曲、そうストーンズの「タイムイズオンマイサイド」で緞帳が開いた。 ペインテッドブラック、ルビーチューズデイ、テルミーと、高崎の、角刈りの「ミックジャガー」がステージ所狭しと駆け回る。そして、ベースの中島さんがブルーコメッツの「雨の赤坂」、ベースを弾きながらしっとりと歌う。僕はビートルズの「イエスタデイ」と、R&Bの「サニー」が持ち歌。「三つ子の魂百まで」だろうか、その2曲は今でも空で歌える。
 アレから45年ボーカルの高木さんとはこのところとんとご無沙汰だが時夫ちゃんとは音楽活動で時々会う、中島さん、野中さんには暫く会ってないなぁ。今頃あの当時を夢の中に遊んでいるのだろうか。

新宿「アシベ」

 三回目のリサイタルもそれなりに盛り上がったが「エレキブーム」の翳りも見え始め僕ら自身が少しずつ冷め始めていた。どうやら、クリーム、ジミヘン、バニラバッジなんかをやり始めてからボーカルの高木さんと、ベースの中島さんに無理があったようだ。それと言うのも、時夫ちゃんが次々と新しいのをコピーしてくる。最初の内は「ゴールデンカップス」なんかで誤魔化していたが……
 時夫ちゃん「ゴールデンカップスはブルースなんだ」と言い出して、ベースのフレーズ、サイドギターのコードワークを五月蝿く言うもんだからベースの中島さん、サイドギターの野中さん、とうとう音を上げてしまった。高木さんも気を使ってか「今度新宿のアシベに行こうや、「カップス」やっている時にでもと言った。
「新宿アシベ」は甲州街道沿い。甲州街道と明治通りがぶつかる丁度の所のビルの地下にあった。出演スケジュールには、「ブルーコメッツ、カーナビーツ、ジャガース、スパイダース」等の当時テレビを賑していたバンドがずらりとかかれていた。「ゴールデンカップス」は、丁度「長い髪の少女」がヒットし始め、満席。それでも何とか2階席に席を取れたのは幸いだった。
 デイブ平尾、エディ藩、ルイズルイス加部、マモルマヌー、ミッキー吉野。確か、対バンは「パワーハウス」だったか、柳ジョージがリードギターの。可笑しなもので、それで全員すっかり自信がついちゃった感じで「カップス」のカバーと、カップスかカバーする「クリーム」を本気でコピーし始めた。しかし、壁にぶつかるのにそうは時間を必要とはしなかった。
 その年の夏、観音山に「カッパピア」がオープンした。エレキブームと相まって「カッパピア」も当時人気の「バンド」や「歌手」を呼んだ。そこも連日超満員、流れるプールが、流れない。

 田辺昭知とスパイダース。この、田辺昭知さんは凄かった。後で知ったのだがその筋では相当のお方だったらしい。それもそのはず、「ムッシュ」こと、かまやつさんも、井上崇之さんも、マチャアキ、井上じゅん」なんかぴりぴりしていた。
 田辺さんは僕等より一〇歳ほど年上だった。楽屋に入るとあの「マチャアキ」が田辺さんの肩を揉んだりしていた。僕は「スネアー」にサインをしてもらいたくて「スネアー」を抱え、オズオズト楽屋に入った。

「スミマセン…サインを・・・」

 田辺さんは一言も発せず、こっちへ来いと云うように目で僕を促す。なんともいえぬその存在感に躊躇してると「マチャアキ」が僕の手から「スネアー」を取ると田辺さんに前に差し出した。
 田辺さんは〈ササッサーーーッ〉とサインをすると僕を睨むようにして一瞥。 今でもそのラディック製のスネアーは僕の宝物だ。

 後は、フォーリーブス、淺川マキとか。僕はその淺川マキで初めて「カラオケ」なる物の存在をその時知った。
 オープンリールのでかいデッキで、専属の「カラオケ係」、多分マネージャーなんだろうけど四苦八苦しながら調整していた。

 そんな「カッパピア」。今は見る影もない。当時の燦然と輝いたステージも朽ち果て、テントは破け往時を偲ばせる欠片もない。
 そう云えば僕らの面倒を見てくれた「大井田さん」もすっかり白髪頭になってしまっていた。
 「カッパピア」もだが、「フェアリーランド」も時代の波には抗しきれず閉鎖した。

高崎のグループサウンズ史



Posted by 昭和24歳  at 18:57 │Comments(0)

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