2014年11月26日

続・卸売りセンター“うらの”が閉店

続・卸売りセンター“うらの”が閉店

続・卸売りセンター“うらの”が閉店

卸売りセンター“うらの”

卸売りセンター“うらの”の創業は確か昭和40年後期ではなかったか・・・・・

僕がその“うらの”に通い始めたのが昭和55年頃で長女が4歳で次女が生まれたばかりだった。
今でこそすっかりその景観は趣を異にしているが、“うらの”は飯塚のパチンコ三光の路地を隔てた北側にあった。
あの当時はまだ街中の食堂も結構盛んで、ファミレスもまだなかったそんな時代・・・・・
まさに「卸売りセンター」の看板通りで連日買い物客でごった返していた“うらの”であった。

あの頃は街中にも八百屋、肉屋、魚屋等々とまだそこそこに忙しくしていた。
駅前には「ダイエー」、「ニチイ」ができ次第にその街中から中小商店に少なからず営業に影を落としていた。
それはまだ、「藤五」も「田原屋」、「十字屋」「八木橋」「赤かんばん」もあって「高島屋」の出来る前の話。
まあ、モータリゼーションと核家族化でしょうか、当然、郊外には「とりせん」その“うらの”の近くにあって・・・・・・
そんな中、大型スーパーも「マツセー」(現・フレッセイ)などがあちこちに開店を忙しくしていた。

そんな時の“うらの”は、いわゆる「見てくれ」はともかく、その名も「卸売りセンター」のとおり裸売、箱売りで繁盛。
店舗、駐車場と、どうやら間に合わなくなったのか、現在の地に移転、そこでのその時の様子もやはり連日ごった返していた。
とにかく、まだ右肩上がりの名残を残していたその時代、街中には「スナック」「ラーメン屋」等々が街中を賑やかにしていた頃。
時々出かけると、柳川町の知ったマスター、ママさんに必ず出くわしたのを憶えている。

時代だろうか・・・・・

あの頃、まだ若々しくその忙しい店を切り盛りしていた“うらの”の女将さん、お御髪も白くなっていた。

「六哉さん、亡くなったんです」

「六哉さん」とは僕が若い頃公私にお世話になった方で、その“うらの”の叔父にあたる人でした。
そんな縁もあって“うらの”には何か親しみを覚えていたものですから・・・・・
時々、とある仲間と会食というか「朝飲み会」を定期的にやっていた、その“うらの”にある「食堂みつい」に緊急集合がかかりその事実を。
ほぼ40年の歴史に幕を閉じる、卸売りセンター“うらの”を見つつ、瞬間僕の終わりも過ぎった。

街中から中小小売店が消え、郊外の中規模スーパーも心なし寂しさの中に。

それにしても、今のところ「アイザワ」の戦略は図星。

太田、館林、佐野、そして高崎と多店舗展開を仕掛ける「アイザワ」だが・・・・・

卸売りセンター“うらの”のリベンジはあるのか否や!??

続・卸売りセンター“うらの”が閉店



Posted by 昭和24歳  at 12:20 │Comments(1)

この記事へのコメント
今日久々にうらのに行ったら解体されていてとても悲しかった…
20年以上も通っていたのでまた再開して欲しいとせつに願っています
(´・ω・`)
Posted by カイト at 2015年01月11日 19:31
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