2014年01月28日
柳家紫文と高崎“梅玉堂”
柳家紫文と高崎“梅玉堂”
大盛況、ありがとうございました!!
幕開け、どうなることやらと心配だったんですけど・・・・・
迷道院高崎さま、弥之助様、いちじん様、
ブロガーの皆様にも万障お繰り合わせお越しいただいて大盛況でした。
高崎名物の竹内先生と、その教え子の「ココイズミ」の亀田様、
そして僕の同級生の小野里様、島田様ご夫妻、及川様ご夫妻、等々、皆々様・・・・・・
ホントにありがとうございました。
そして、そして、ご近所の妙齢のご婦人トリオ、なんと大正10歳とかのおばさまに、
昭和ヒトケタと思しき、M婦人、そしてI婦人。まあ、デヴィ婦人みたいです・・・・・・
柳家紫文ししょうも、ノリノリで三味線のバチさばきも、お口も滑ります(笑)。
お弟子さんの「小梅」さんも良かったですねぇ、ご機嫌な鳴り物でした。合いの手も。
で、ふと思いました・・・・・・
「九蔵寄席」、九蔵町といえば「高崎保育所」、大雲寺の東側です。
昭和24歳の僕が5歳の時に「竹組」でお世話になった、由緒ある「保育所」で、
これまで、数々の高崎、経済人を輩出しております。
で、なぜ「高崎保育所」かというと、その「紫文師匠」の高座を拝見しながら・・・・・・
ふと、その妙齢のご婦人をお伺いしてみると、なぜか、その高崎保育所の、
「僕の先生」、「波川先生」を思い出していたのです。
その「波川先生」はとても美人な先生で、とにかく僕の憧れ、初恋かも(笑)。
そんな話を、年末のイヴェントにご光来していただいた、同級生の「H氏」にいうと、
「へ~、オマエ、おマセだったんだなぁ、オレ全然覚えてない」
そう言って、笑ってましたけど・・・・・・
思い出せば、僕は「波川先生」にかまって欲しくて、よく保育所の端にあったコンクリート製の滑り台の裏に隠れたり、
お昼寝の時に飲まされるエーザイの「チョコラ」を絶対に飲まなかったり・・・・・・
お昼寝で、よくオネショをしちゃったりと、「波川先生」の手を焼かせたことを今でもはっきりと覚えています。
そして、僕らが小学校2年くらいの時だったでしょうか、その「波川先生」が結婚するとかで、
近所の、久夫ちゃんとか、もっちゃんとかと、たしか江木町にあった先生の家に「オメデトウ」言いに行った記憶も。
そんな「波川先生」の嫁ぎ先が高崎駅前通りにあった「梅玉堂」という老舗の和菓子屋さん。
いつしか、3年からが過ぎた頃、ふと気づくと、高崎駅モントレーに「梅玉堂」のお店が・・・・・・
そこには、その頃「50代半ば」と思しき妙齢の、とびきり美人のご婦人が上品にお客さまを。
まあ、当時は僕が東京へ通勤していた頃でしたから、36歳頃で、その妙齢のお美しいご婦人というか、
「波川先生」はおそらく僕より20歳くらい年上、思わず梅玉堂の和菓子を買い求めるべく「波川先生」の前へ・・・・・・
髪の毛こそ「銀髪」、たしかそのときの記憶では、それでもそのお美しさは「高崎保育所」の、そのまま。
当然、畏れ多く、その「高崎保育所」のお話もできずに、時に、高崎へ早く帰った時などは「梅玉堂」で僕の大好きな「鳥の子餅」を。
そして、時代は過ぎ、やがてその「モントレー」も高崎駅前通りも様変わりしちゃって・・・・・・
それでも、時々、あの「波川先生」のいらした「高崎保育所」が脳裏に巡っていた。というか、僕の次女も「高崎保育所」(笑)。
そんなわけで、「柳家紫文」師匠のライブにご光来いただいた妙齢のご婦人、みなさんお綺麗で、
ふと、「波川先生」ご同年と、「九蔵寄席」、「九蔵町」、「高崎保育所」へと過ぎった。
「波川先生」、お元気だろうか・・・・・・
波川先生と「竹組のよい子たち」(高崎保育所にて)
<昭和29年7月吉日>
柳家紫文と高崎“梅玉堂”
大盛況、ありがとうございました!!
幕開け、どうなることやらと心配だったんですけど・・・・・
迷道院高崎さま、弥之助様、いちじん様、
ブロガーの皆様にも万障お繰り合わせお越しいただいて大盛況でした。
高崎名物の竹内先生と、その教え子の「ココイズミ」の亀田様、
そして僕の同級生の小野里様、島田様ご夫妻、及川様ご夫妻、等々、皆々様・・・・・・
ホントにありがとうございました。
そして、そして、ご近所の妙齢のご婦人トリオ、なんと大正10歳とかのおばさまに、
昭和ヒトケタと思しき、M婦人、そしてI婦人。まあ、デヴィ婦人みたいです・・・・・・
柳家紫文ししょうも、ノリノリで三味線のバチさばきも、お口も滑ります(笑)。
お弟子さんの「小梅」さんも良かったですねぇ、ご機嫌な鳴り物でした。合いの手も。
で、ふと思いました・・・・・・
「九蔵寄席」、九蔵町といえば「高崎保育所」、大雲寺の東側です。
昭和24歳の僕が5歳の時に「竹組」でお世話になった、由緒ある「保育所」で、
これまで、数々の高崎、経済人を輩出しております。
で、なぜ「高崎保育所」かというと、その「紫文師匠」の高座を拝見しながら・・・・・・
ふと、その妙齢のご婦人をお伺いしてみると、なぜか、その高崎保育所の、
「僕の先生」、「波川先生」を思い出していたのです。
その「波川先生」はとても美人な先生で、とにかく僕の憧れ、初恋かも(笑)。
そんな話を、年末のイヴェントにご光来していただいた、同級生の「H氏」にいうと、
「へ~、オマエ、おマセだったんだなぁ、オレ全然覚えてない」
そう言って、笑ってましたけど・・・・・・
思い出せば、僕は「波川先生」にかまって欲しくて、よく保育所の端にあったコンクリート製の滑り台の裏に隠れたり、
お昼寝の時に飲まされるエーザイの「チョコラ」を絶対に飲まなかったり・・・・・・
お昼寝で、よくオネショをしちゃったりと、「波川先生」の手を焼かせたことを今でもはっきりと覚えています。
そして、僕らが小学校2年くらいの時だったでしょうか、その「波川先生」が結婚するとかで、
近所の、久夫ちゃんとか、もっちゃんとかと、たしか江木町にあった先生の家に「オメデトウ」言いに行った記憶も。
そんな「波川先生」の嫁ぎ先が高崎駅前通りにあった「梅玉堂」という老舗の和菓子屋さん。
いつしか、3年からが過ぎた頃、ふと気づくと、高崎駅モントレーに「梅玉堂」のお店が・・・・・・
そこには、その頃「50代半ば」と思しき妙齢の、とびきり美人のご婦人が上品にお客さまを。
まあ、当時は僕が東京へ通勤していた頃でしたから、36歳頃で、その妙齢のお美しいご婦人というか、
「波川先生」はおそらく僕より20歳くらい年上、思わず梅玉堂の和菓子を買い求めるべく「波川先生」の前へ・・・・・・
髪の毛こそ「銀髪」、たしかそのときの記憶では、それでもそのお美しさは「高崎保育所」の、そのまま。
当然、畏れ多く、その「高崎保育所」のお話もできずに、時に、高崎へ早く帰った時などは「梅玉堂」で僕の大好きな「鳥の子餅」を。
そして、時代は過ぎ、やがてその「モントレー」も高崎駅前通りも様変わりしちゃって・・・・・・
それでも、時々、あの「波川先生」のいらした「高崎保育所」が脳裏に巡っていた。というか、僕の次女も「高崎保育所」(笑)。
そんなわけで、「柳家紫文」師匠のライブにご光来いただいた妙齢のご婦人、みなさんお綺麗で、
ふと、「波川先生」ご同年と、「九蔵寄席」、「九蔵町」、「高崎保育所」へと過ぎった。
「波川先生」、お元気だろうか・・・・・・
波川先生と「竹組のよい子たち」(高崎保育所にて)
<昭和29年7月吉日>
柳家紫文と高崎“梅玉堂”
Posted by 昭和24歳
at 06:10
│Comments(2)
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梅玉堂、懐かしいですね~。
次男が同級生です。
「波川先生」に面立ちが似ています
そうですか、波川先生のご次男の方と同級生。ところで波川先生はお元気でしょうか?
それと、梅玉堂さんは今は?