2013年11月28日
柳川町そぞろ歩き
柳川町そぞろ歩き
おおよそが“中熊”、
こんな趣ではなかったか・・・・・
先日、久々に柳川町へ・・・・・
「そういえば、ここに宇喜代があったねぇ」
とは、その「宇喜代」で披露宴をやったとかの先輩。
歩く人もほとんどなく、まあ、月曜日だったんだが、人並みもさっぱりでした。
「ここに“中熊”(チュークマ)があったの憶えてます?」
「へ~、中熊ねぇ。バー銀なら知ってるけど、知らん」
そのバブルの紳士であっただろう先輩、縄のれんの赤提灯にはとんと縁がなかったようだ。
その中熊、以前にもここで書いたが、再掲しよう。
「昭和は遠くなりにけり、かぁ」
そんな、バブルの紳士、先輩の言葉に“中熊”を肴に語った。
それは「昭和のある風景」とでも言おうか・・・・・・
縄暖簾、赤提灯、ちょいとした横丁の下々、庶民のオアシスとでも云ったところだろうか。
時代が染み付いた趣の赤提灯。柱もカウンターも黒光りしていて、
“ぐつぐつ”と煮えたぎるモツ煮の大鍋も相当年季が入っているのか小気味良い音を奏でながら客をまっている。
そう・・・・・・
そんな店はなにも小奇麗である必要は全くない。
できれば灯りは「松下式」二股ソケットの紐付き2段切替スイッチあたりが格子からの隙間風に撫でられていると嬉しい。
それにアルマイトの灰皿と箸も使い倒した年季の入った漆塗りのやつ。
欲を言えば客寄せ、障子の小窓には雨露を忍んだ幾重もの染みでもあれば肴には困らない。
そして、開け閉めに一工夫させられる滑車の引戸。
もちろん取っ手の所は庶民の血と汗と涙が染み付いて黒光りしているやつ・・・・・
さらに、時期でも良ければ開け放たれた障子、格子の隙間から知った顔がちらほら。
それでもどう云うわけかそれなりに気を遣い開けかけた暖簾をはらって具合のいい席を選る。
「ここが空いてるよ」
と、常連だろう。何気に気安い。
そう云った店は団体で来る客はそうはいない。
大概が一人か二人と決まっている。
それでも3人寄らずとも、そこそこに仕上がってくるとつまらない揉め事を肴に結構賑やかになる。
そこには贅沢なブランデーやウイスキーなどは無い精々が“角”ではないだろうか。
店の中は口角に泡を飛ばした五月蝿さがそれぞれの日々の溜飲を下げる。
蝿取り紙に吸い付かれた蝿が裸電球にに透けてジタバタしている。
贅沢だろうか・・・・・
そうかもしれない。否、贅沢である。
本当に贅沢であった。
今はもうその店はない。
「中熊」。
僕らは、その店を「ナカクマ」とは言わず、「チュークマ」と呼んでいた。
高崎の夜の政官財界奥座敷として名を馳せていた「宇喜代」と路地を挟んで、その辻向かいに「中熊」はあった。
「宇喜代」がお偉方の奥座敷なら、「中熊」は労働者の奥座敷。
それにしても棲み分けの良、そう、聞き分けの良い時代ではあった。
「中熊」は亭主は厨房で肴を、おかみさんはカウンターで鍋守。
何と言っても、一番のウリ「モツ煮込」。
相当に年季の入った仕込であることはその味が証明してくれている。
器は瀬戸物、箸はけして割箸などではない。
上物ではないにしろそのご案内の漆塗りの箸で持て成しだ・・・・・
それに、季節物の「漬物」、これが絶品である。
当然、夏場は茄子と胡瓜、カブ、の糠漬け。そして冬場は白菜漬け。
申し訳ないが、これにその「煮込み」があれば、「宇喜代」とて敵うまい。
とは言うものの小生、「宇喜代」とやらに上がれるほどの身分でないので、只の僻みかもしれない。
何しろ、「宇喜代」とやらで言ったどんなものを飲ませて食わせてくれるのかは想像にすら及ばないのだから。
酒の銘柄は憶えていない。
と云ううより「中熊」。それを「チュークマ」と読んで呼ぶくらいだから、
呑むのは焼酎、ご存知「ウメ割」。そう、これが矢鱈と逸品である。
分厚いカットグラス・・・そんな気取った物ではない、それはちょいと端の欠けた受皿の「コップ」。
そのコップに、皿受けに零れても尚、並々と注いでくれる。
中学で習った・・・?
小学校だったか、そのコップの「表面張力」に嬉々としながら―――
まず、両手を膝の上に置き、一旦ツバを飲み込んでから徐に口づける・・・・・
「チューッ」
っとイクッ。
まさに、「チュークマ」である。
途中、溢れ零れた皿受けの「ウメ割」を、まるで子どもの頃に駄菓子屋で「さぐり」に当たった時のような気分でコップに戻す・・・・・
<少し増えている・・・>
裸電球に透かして量を確かめ「ニンマリ」する。
そうだ、「チュ―クマ」のもうひとつの売りは「濁り酒」だろう・・・・
誰とはなしに酒飲みが度胸試しのつもりでそれを憶える。
変な話、胃カメラやなんかの時の「バリュウム」のような感じが最初の覚えである。
慣れて来ると確かに美味いに違いは無いが兎に角足腰に来るのが騒ぎだ。
小生、二杯目は遠慮する事にしていた。
「チュークマ」のそれは、昭和45年、僕が当時隆盛の「キャバレー」でドラムを叩いていた時の話である。
もちろんその「チュークマ」、開業は戦前とも戦後とも、詳しくは知らなかったが、
そう、その時すでに喜寿と思しき先代の女将が時おり小上がりで馴染み客の相手をしていたのだから・・・・・
「宇喜代」は“ビューホテル”となり、「中熊」のそこはバー、クラブのテナントビルに・・・・・
いつしかそこいらの佇まいは激変して、
それは、一時代の贅沢を忍ばせるものはそのほとんどが消し去っていた。
柳川町そぞろ歩き
おおよそが“中熊”、
こんな趣ではなかったか・・・・・
先日、久々に柳川町へ・・・・・
「そういえば、ここに宇喜代があったねぇ」
とは、その「宇喜代」で披露宴をやったとかの先輩。
歩く人もほとんどなく、まあ、月曜日だったんだが、人並みもさっぱりでした。
「ここに“中熊”(チュークマ)があったの憶えてます?」
「へ~、中熊ねぇ。バー銀なら知ってるけど、知らん」
そのバブルの紳士であっただろう先輩、縄のれんの赤提灯にはとんと縁がなかったようだ。
その中熊、以前にもここで書いたが、再掲しよう。
「昭和は遠くなりにけり、かぁ」
そんな、バブルの紳士、先輩の言葉に“中熊”を肴に語った。
それは「昭和のある風景」とでも言おうか・・・・・・
縄暖簾、赤提灯、ちょいとした横丁の下々、庶民のオアシスとでも云ったところだろうか。
時代が染み付いた趣の赤提灯。柱もカウンターも黒光りしていて、
“ぐつぐつ”と煮えたぎるモツ煮の大鍋も相当年季が入っているのか小気味良い音を奏でながら客をまっている。
そう・・・・・・
そんな店はなにも小奇麗である必要は全くない。
できれば灯りは「松下式」二股ソケットの紐付き2段切替スイッチあたりが格子からの隙間風に撫でられていると嬉しい。
それにアルマイトの灰皿と箸も使い倒した年季の入った漆塗りのやつ。
欲を言えば客寄せ、障子の小窓には雨露を忍んだ幾重もの染みでもあれば肴には困らない。
そして、開け閉めに一工夫させられる滑車の引戸。
もちろん取っ手の所は庶民の血と汗と涙が染み付いて黒光りしているやつ・・・・・
さらに、時期でも良ければ開け放たれた障子、格子の隙間から知った顔がちらほら。
それでもどう云うわけかそれなりに気を遣い開けかけた暖簾をはらって具合のいい席を選る。
「ここが空いてるよ」
と、常連だろう。何気に気安い。
そう云った店は団体で来る客はそうはいない。
大概が一人か二人と決まっている。
それでも3人寄らずとも、そこそこに仕上がってくるとつまらない揉め事を肴に結構賑やかになる。
そこには贅沢なブランデーやウイスキーなどは無い精々が“角”ではないだろうか。
店の中は口角に泡を飛ばした五月蝿さがそれぞれの日々の溜飲を下げる。
蝿取り紙に吸い付かれた蝿が裸電球にに透けてジタバタしている。
贅沢だろうか・・・・・
そうかもしれない。否、贅沢である。
本当に贅沢であった。
今はもうその店はない。
「中熊」。
僕らは、その店を「ナカクマ」とは言わず、「チュークマ」と呼んでいた。
高崎の夜の政官財界奥座敷として名を馳せていた「宇喜代」と路地を挟んで、その辻向かいに「中熊」はあった。
「宇喜代」がお偉方の奥座敷なら、「中熊」は労働者の奥座敷。
それにしても棲み分けの良、そう、聞き分けの良い時代ではあった。
「中熊」は亭主は厨房で肴を、おかみさんはカウンターで鍋守。
何と言っても、一番のウリ「モツ煮込」。
相当に年季の入った仕込であることはその味が証明してくれている。
器は瀬戸物、箸はけして割箸などではない。
上物ではないにしろそのご案内の漆塗りの箸で持て成しだ・・・・・
それに、季節物の「漬物」、これが絶品である。
当然、夏場は茄子と胡瓜、カブ、の糠漬け。そして冬場は白菜漬け。
申し訳ないが、これにその「煮込み」があれば、「宇喜代」とて敵うまい。
とは言うものの小生、「宇喜代」とやらに上がれるほどの身分でないので、只の僻みかもしれない。
何しろ、「宇喜代」とやらで言ったどんなものを飲ませて食わせてくれるのかは想像にすら及ばないのだから。
酒の銘柄は憶えていない。
と云ううより「中熊」。それを「チュークマ」と読んで呼ぶくらいだから、
呑むのは焼酎、ご存知「ウメ割」。そう、これが矢鱈と逸品である。
分厚いカットグラス・・・そんな気取った物ではない、それはちょいと端の欠けた受皿の「コップ」。
そのコップに、皿受けに零れても尚、並々と注いでくれる。
中学で習った・・・?
小学校だったか、そのコップの「表面張力」に嬉々としながら―――
まず、両手を膝の上に置き、一旦ツバを飲み込んでから徐に口づける・・・・・
「チューッ」
っとイクッ。
まさに、「チュークマ」である。
途中、溢れ零れた皿受けの「ウメ割」を、まるで子どもの頃に駄菓子屋で「さぐり」に当たった時のような気分でコップに戻す・・・・・
<少し増えている・・・>
裸電球に透かして量を確かめ「ニンマリ」する。
そうだ、「チュ―クマ」のもうひとつの売りは「濁り酒」だろう・・・・
誰とはなしに酒飲みが度胸試しのつもりでそれを憶える。
変な話、胃カメラやなんかの時の「バリュウム」のような感じが最初の覚えである。
慣れて来ると確かに美味いに違いは無いが兎に角足腰に来るのが騒ぎだ。
小生、二杯目は遠慮する事にしていた。
「チュークマ」のそれは、昭和45年、僕が当時隆盛の「キャバレー」でドラムを叩いていた時の話である。
もちろんその「チュークマ」、開業は戦前とも戦後とも、詳しくは知らなかったが、
そう、その時すでに喜寿と思しき先代の女将が時おり小上がりで馴染み客の相手をしていたのだから・・・・・
「宇喜代」は“ビューホテル”となり、「中熊」のそこはバー、クラブのテナントビルに・・・・・
いつしかそこいらの佇まいは激変して、
それは、一時代の贅沢を忍ばせるものはそのほとんどが消し去っていた。
柳川町そぞろ歩き
Posted by 昭和24歳
at 19:36
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