2013年09月14日

高崎「ラーメン考」(1)

高崎「ラーメン考」(1)
<一分加筆して再掲>



「たかさき」でラーメンを語るには、一時、田町通りから駅前へと軒を連ねた「夜鳴き」、

それなくしては「ラーメン考」、後も先もない。

あれは、たしか昭和の35、6年頃だろうか・・・・・

いわゆる、「幸楽苑」じゃあないが、まだ「ラーメンがご馳走」だったそんな時代のことだ。

「来来軒」

僕の家の傍に住んでいた・・・住んでいたというか「居た」と云う趣だった。

あの時代、夫々に訳ありのご時世です。

ご多分に漏れずその「来来軒」親子、縦に「2畳一間」の間借り・・・・・

それが親子で3人なんて云うのも別になんとも思わなかった時代だった。

その店子の「来来軒」のマスターファミリー。ま、マスターと言ったかどうかは知らないが。

そのマスター、なんでも、出は良かったようで、高崎の「大店」の「ボン」だったと云うお噂も仄聞した。

既に、そのマスター、とっくの昔に彼岸に旅立ったと風の便り・・・・・

高商出身、野球部で「甲子園」に行ったと云う、兵だったらしい。

僕よりも4歳年下の「息子」が居た。

マスターには訳在りの小母さんが時々取っ変え引っ変え身を寄せていたが、

もちろんその親子は「クレイマー・クレイマー」だった。

その息子、当時小学校4年くらいで健気にも「屋台」の支度を手伝い七輪に炭を熾すのも慣れた手つき、

けして「幸福」とは云えないが、滅法明るかった・・・・・

まあ、その時代、何処も彼処も似たようなものであったのだから暗くなりようがなかったのかもしれない。

で、その親父、「来来軒」のマスターときたら兎に角「酒癖」が悪い。

それは「悪い」と云うより、多分「弱い」のではないだろうか。

で、弱いくせに酒好きで、飲むと人が変わるタイプの人。

そんなマスター、仕事を終えていつ帰ってきたのか、僕の横丁の路地裏で朝方には、

その屋台を枕に「潰れている」。

「父ちゃん、父ちゃん、風邪ひくよっ」

ランドセルを背負った孝行息子は、何処までも健気に、そんな酔いつぶれた親父を介抱する。

日清製粉の板塀と奥まったところの突付には日清製粉の社宅が・・・・・

そんな高砂町、横丁、路地裏の風情に孝行息子声がひびく。

「父ちゃん、オレ学校へ行ってくるから、家に帰ってちゃんと寝ろよ」

江木の方からは「本郷軒」。ここは2代目だと云う。

巷間、その筋の通の間では足利銀行前に店を出す「たつみ」が良いと言う方も居られるが・・・・・・

なんと云っても僕は「本郷軒」が好みだった(過去完了系)。

とにかくラーメンの「上がり」が早い。麺はいつも固めで、スープ味はさっぱり目。

本当の「支那そば」って云う感じがした。

夕方5時過ぎ頃には「チャルメラ」を鳴らしながら高砂町の横丁を引いていく。

その先代は歩いて引いたが、2代目は「ホンダスーパーカブ」を、そろりそろりと往来した。

「ラーメン屋さ~ん」

彼方此方から丼を手に屋台を囲む。

不思議なもので一人が声をかけだすとつられるように4、5人が集まってくる。

当時は未だ「出前」ものを取るとかと云う贅沢は無かったし・・・・・

子供が3、4人もいたら「ラーメン代」だけでも大変な額になってしまう。

そんな時、決まって声をかけるのは、これから夜のお給仕に出かけるお姉さんかお兄さん。

どちらかと云えば僕等はそれを羨ましそうに眺めていた口であった。

「本郷軒」はご案内の2代目で、この親爺も「酒好き」の「意気地なし」(失礼、そう見えた)。

多分「来来軒」とおんなじで、お酒が「好き」だけど「弱い」。

朝方、5時頃までの営業らしいから「本郷軒」を食べるなら「午前様」まで・・・・・・

あとは、へべれけで、目を据わらせながら「麺」を上げている。

そうなると、折角の「本郷軒」のシコシコ麺もさっぱりスープあったもんじゃあない。

「親爺、このラーメン伸びてるぞ」

なんて客が言おうものなら・・・・・

「なにをぅ、じゃっ、ラーメンもうオシメエだ」

と言ってさっさと火を落として行灯を消しちゃう始末。

酒が入るとコロッと人が変わっちまう。普段はどちらかと云うと物静かなお兄さんなのだが。

このところ、話も聞くことはないが・・・どうしているだろうか。

石原から毎週「金曜日」と「土曜日」に赤羽楽器前にお出ましになる「夜鳴き」。

屋台の名前をど忘れしてしまった・・・「なんとか軒」であることは確か。この方も2代目。

その「夜鳴き」の親爺にいつか、聞いてみたことがあった・・・・・

「本郷軒の親爺、糖尿悪そうだったけど、死んじまったって本当かい」

って。そしたら、親爺、言うことにゃァ・・・・・・

「この間ふら~~~と、本郷軒、久しぶりに来たよ。みんなで俺を殺しやがる」
「この商売、結構冬場は冷えてどうしょもねえんだ。本郷軒も膝と腰やったってずっと立ってられねえんだってよ」

もっとも「本郷軒」、もう70も半ば過ぎ、後期高齢者・・・・・・

途切れ途切れの客じゃあ確かに立ちっぱなしはえらい事にちがいない。

そんなわけで、その高崎唯一の「夜鳴き」屋台ラーメン、月に最低2回は食べに行く。

そうだ・・・やはり、ラーメンと言ったら「成吉思汗」。

ここも昭和40年代よく行った。

あの小汚い店の「ラーメン」が格別〈小汚い、は余計だと叱られそうだが〉。

つるっ禿の爺さんが、帳場で「勘定」をする。

「成吉思汗」と、名前の通り如何にも「本場」と云う感じの「ラーメン」。

もっともその頃は本場のラーメンを知っていたわけじゃあないから確信は無いが・・・・・

兎に角、雰囲気が想像のそれなのだ。

醤油ラーメンだがギトギトに脂ぎったスープに麺。これは「絶品」。

それに「支那竹」メンマが、日本一美味い(僕は日本中のラーメンを食べている)。

まあ、強いて言うなら、米沢駅前のラーメン屋のシナチクがその次かな(笑)。

ただし、「成吉思汗」を食べるなら夕方が僕は好きだった・・・・・

昼はスープはどちらかと云うと「さっぱり」。やはり、ここは「ギトギト」の「こってり」が美味い。

昭和43年、僕が「みゆきダンスホール」にバンドで出ていた時は何時ものように食べていた。

今のマスターは僕より3歳上だから、当時、22歳だったか。

今では、主のような「ママさん」も当時は未だ「交際中」のオボコ(だったかどうかは知らないが)。

たしか祝言は未だだったようなお二人さんだった。

それでも、店を手伝ったのか・・・恥ずかしそうに、下を向いて「注文」を取っていた。

そんな古い話をしようもんなら・・・・

「ヘーーーーッ」

と、そっくり返って、

「グァハーーーーッ」

と、貫禄十分の女将さんに、今ではなっている。

僕の当時の定番は、「ラーメン+カレー」。これが絶妙なバランスで絡み合う。

しかし、この「ラーメン+カレー」を食すには作法が要る・・・・・

まず、微妙なバランスで大きめなスプーンに「カレーライス」を適宜な分量を量るように乗せ、

「ふっ」っと、吹きながら口に運び含む。

そう・・・あくまでも含むと云う作法が肝心なのだが・・・・・

そこへ、やおらに裂け具合の悪い「割り箸」で、玉のように浮く脂を「さっ」と絡め、

口中で、今か今かと迎える「カレー・ライス」と「合体」させる。

その瞬間、実に絶妙のバランスの取れた「味」に舌鼓を打つ。

それに、カレー・ライスに合い物の「福神漬け」がさらにその「ラーメン+カレー」を引き立てる。

「福神漬け」、新進か東海かは知る由も無いがその味は今の物ではない。

やはり「成吉思汗」、ここのラーメンは「閉店間際」のそれが「ゴキゲン」だ。

中通の「らっちゃん」が店をたたんでしまったのは残念だ。

もう10年以上は経つだろう、最後に行ったのが今19歳の末娘が保育園の時だったから。

「らっちゃん」は僕が中学に通ってる頃から同じ場所にずっとあった・・・・・・

その頃の「らっちゃん」はひとつの店舗を半分にしたような店で、

隣は多分「らっちゃん」のマスターの親父さんだろうが「カメラ屋」をやっていた。

いやぁ、多分ではない絶対に「らっちゃん」の親父さんだ。

第一、そっくりな「ひょー」ッと云う顔をしていたし。

その「らっちゃん」の親父さんのカメラ屋の小父さんが面白かった。

たしか「浅間カメラ」とか言ったと記憶する・・・・・

「僕・・・いい物を見せてやるよ」

丁度カメラに興味があった年頃で店を覗き込むと、

小父さんが小さな望遠鏡のような覗きメガネのような物を出してきて・・・・・

「見てごらん」

と、実にいたずらっぽく、ニコニコ笑ってる。

それを言われたままに覗くと、裸のオネエサンがくるくる回ってる。

僕等が「ワーッ」と騒ごうものなら・・・・・・

「ハッハッハッハーーーー」

と大笑いしていた。面白い小父さんだった。

その「らっちゃん」。僕が、キャバレー「ニュージャパン」のドラマーだった頃は・・・・・・

毎晩のように食いに行っていたが、その頃にはもう「カメラ屋」は無かった。

その分「らっちゃん」は倍の広さになっていた。

「らっちゃん」は、1に「焼きそば」、2に「湯麺」、3、4がなくて、5に餃子。

「らっちゃん」の餃子は「カラッ」としていて、薄皮の「もっちり」した、「焼き餃子」。

本当は「1」に「餃子」を上げたい所なのだが、幾ら美味くても餃子は添えもん。

しかし、秘伝を継承するお世継ぎは時代の流れか店に立つ事は無かった。

「らっちゃん」の息子…大学生の頃は休みの時に時々店を手伝っていた。 

どうも、あそこんちは代々男親の「DNA」が強烈なのか、二人の息子、小さい時からみているが、

「らっちゃん」は、カメラ屋の親父にそっくりで・・・・・・

息子達は二人とも「らっちゃん」にそっくりと来ている。

「らっちゃん」のママさんは丸顔の品のいいお母さんだったが「男衆」はみんな「ラッキョ顔」。

しかし、あの「らっちゃん」の焼ソバがもう今は無いと思うと寂しいのは僕だけではないはず。

あの・・・ラッキョ顔のマスターも、どうやら草臥れて焼きが回ったらしい。

またひとつ、大切なものが零れてしまった・・・・

昭和と云う「ポケット」から。

高崎「ラーメン考」(1)





Posted by 昭和24歳  at 20:11 │Comments(0)

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