2008年12月31日
“赤ちょうちん”
“赤ちょうちん”
それは34年前の僕らの始まりでもあった・・・・・
“赤ちょうちん”というか♪神田川♪なんだけど・・・・・・
僕が手拭いをマフラーにして、彼女が石鹸カタカタ言わせたのは成田町の竹の湯でした。
たしかに、裸電球で西日さえあたらない街はずれのアパート。
驚いたことにまだそのアパートあるんです。もちろんだれも住んではいませんけど・・・・・
で、よく二人で“赤ちょうちん”へ行きました(笑)。
“赤ちょうちん”
さて・・・・・
それは、できれば縄暖簾のその横に“さも”といった趣でぶら下がる“赤ちょうちん”。
それはどちらの“赤ちょうちん”もチョイとした横丁の・・・・・それ・・・・・
それを麻生太郎風にいうなら、いわゆる「下々のみなさん!!」、庶民のオアシスとでも云ったところだろうか。
それなりの歴史が染み付いたというか、手入れの具合のいい店だったりすると・・・・・柱もカウンターも黒光りしていて、まあ、化粧っ気はそこそこの飾り気のない女将というかカミサンがその亭主を厨房に商っている。
そんな、気の利いたというか、オアシスと言うか、夢のような“赤ちょうちん”はもうない・・・・・
「ぐつぐつ」と煮えたぎるモツ煮の大鍋も相当年季が入っているのか小気味良い。それが音を奏でながら客をまっている。
そう・・・・・そんな店があった・・・・・
そんな店はなにも小奇麗である必要はない。
できれば、灯りは「松下式二股ソケット」の「紐付き2段切替スイッチ」あたりが隙間風に触られてかすかに揺れていると嬉しい。
それにいくらかヒシャゲタ“アルマイト製”の灰皿と、箸もけして割りばしなんかじゃあなくて、やはり年季の入った塗りのやつ。
更に欲を言えば格子の障子窓には雨露を耐え忍んだであろう、幾重もの染みでもあれば肴には困らない。
そして、それの開け閉めにはいつも一工夫させられる滑車の引戸・・・・・・
もちろん格子に曇りガラスで取っ手の所は庶民の血と汗と涙が染み付いて黒光りしているやつ。
そして時期でも良ければ、開け放たれた障子、格子の隙間から知った顔がチラホラ覗ける。
それでもどう云うわけか素のままだとそれなりに気を遣いながら開けかけた暖簾をそっと避けて具合のいい席を選る・・・・・・
「ここが空いてるよ」
と、常連だろう何気に気安い。
そう云った店は団体で来る客はそうはいない。大概が一人か二人と決まっている。
それでも3人寄らずとも、そこそこに仕上がってくるとつまらない揉め事を肴に結構賑やかになる。
贅沢なブランデーやウイスキーなどは無い精々がニッカかトリスのか「角」、それもポケットだったりする・・・・・
店の中は口角に泡を飛ばし、日々日頃の溜飲を下げるかのような俄か天下人の五月蝿さが滑稽さを誘う。
しかし、そんな“俄か天下人”もそこのカミサンにあってはとりわけ形無しで一言文句も言われようもんなら・・・・・
そう、それはまるで蝿取り紙にと捕まっちまった蝿が裸電球にに透けてジタバタしているさまのようにオロオロする。
贅沢だろうか・・・・・
そうかもしれない。否、贅沢である。
本当に贅沢であった。今はもうその店はない・・・・・
“中熊”
僕らはそれを、「チュークマ」と呼んでいた。高崎の夜の政官財界奥座敷として名を馳せていた“宇喜代”の路地を挟んだ、その辻向かいに“中熊”はあった。
“宇喜代”がお偉方の奥座敷なら、“中熊”は「労働者の奥座敷」といったところだろうか・・・・・
それにしても棲み分けの良い時代ではあったものだ。
“中熊”は亭主は厨房で肴を、おかみさんはカウンターで鍋守奉行・・・・・・
何と言っても、一番のウリ「モツ煮込」である。相当に年季の入った仕込であることはその味が証明している。
器は瀬戸物、箸はけして割箸などであろうはずがない。上物ではないにしろその塗り箸の持て成しだ・・・・・・
それに、季節物の“漬物”。これが絶品である。当然、夏場は茄子と胡瓜、カブ、の糠漬け。そして冬場は白菜漬け・・・・・
申し訳ないが、これにその「煮込み」があれば、“宇喜代”とて敵うまい!!
とは言うものの、小生、“宇喜代”とやらに上がれるほどの身分でないのでその比べを知る由もない、只の僻みかもしれないが。
何しろ、“宇喜代”とやら、蛇が出るのかヘビが出るのか畏れ多く、そこで一体どんなものを飲ませて食わせてくれるのかは想像もしたことが無いのだから。
酒の銘柄は憶えていない、その“中熊”・・・・・・
と云ううより“中熊」”を、「チュークマ」と呼ぶくらいだから、小生、頂くのはもっぱら焼酎、ご存知の「ウメ割」だ。これも矢鱈と逸品である。
分厚いカットグラス・・・・・そんな気取った物ではないただの分厚い「コップ」。まあ、その分厚いコップにもそれなりの商いのコツがあったようだが・・・・・
その分厚いコップとその皿受けに零れても尚、並々と注いでくれる「ウメ割り」。
中学で習った・・・・・?
小学校だったか、「表面張力」。その表面張力に嬉々としながら・・・・・
まず、両手を膝の上に置き、嬉しさを隠し、徐を装いながらグラスに口づけ、「チューッ!!」っとイクッ!!
まさに、それこそが「チュークマ」!!
途中、溢れ零れた皿受けの「ウメ割」を、まるで子どもの頃に駄菓子屋で「さぐり」に当たった時のような気分でコップに戻す・・・・・
<少し増えている・・・・・!!>
裸電球に透かして量を確かめ「ニンマリ」する。
その“チュ―クマ”のもうひとつの売りは「濁り酒」だ。
誰とはなしに酒飲みが度胸試しのつもりでそれを覚える。変な話、胃カメラの時の「バリュウム」のような感じが最初の覚えである。
慣れて来ると確かに美味いに違いは無いが兎に角、足腰に来るのが騒ぎである。僕は2杯目は遠慮する事にしていた・・・・・
“チュークマ”のそれは、昭和45年、僕が当時隆盛の「キャバレー」でドラムを叩いていた頃の時代の話である。
まあ、そんな店は今はもうない・・・・・
いや、一つや二つはないとあまりにも寂しすぎるので、大事にしまって置いてあるところが、あそことあそこにある。
そのあたりを次回は描いてみたい・・・・・
それは34年前の僕らの始まりでもあった・・・・・
“赤ちょうちん”というか♪神田川♪なんだけど・・・・・・
僕が手拭いをマフラーにして、彼女が石鹸カタカタ言わせたのは成田町の竹の湯でした。
たしかに、裸電球で西日さえあたらない街はずれのアパート。
驚いたことにまだそのアパートあるんです。もちろんだれも住んではいませんけど・・・・・
で、よく二人で“赤ちょうちん”へ行きました(笑)。
“赤ちょうちん”
さて・・・・・
それは、できれば縄暖簾のその横に“さも”といった趣でぶら下がる“赤ちょうちん”。
それはどちらの“赤ちょうちん”もチョイとした横丁の・・・・・それ・・・・・
それを麻生太郎風にいうなら、いわゆる「下々のみなさん!!」、庶民のオアシスとでも云ったところだろうか。
それなりの歴史が染み付いたというか、手入れの具合のいい店だったりすると・・・・・柱もカウンターも黒光りしていて、まあ、化粧っ気はそこそこの飾り気のない女将というかカミサンがその亭主を厨房に商っている。
そんな、気の利いたというか、オアシスと言うか、夢のような“赤ちょうちん”はもうない・・・・・
「ぐつぐつ」と煮えたぎるモツ煮の大鍋も相当年季が入っているのか小気味良い。それが音を奏でながら客をまっている。
そう・・・・・そんな店があった・・・・・
そんな店はなにも小奇麗である必要はない。
できれば、灯りは「松下式二股ソケット」の「紐付き2段切替スイッチ」あたりが隙間風に触られてかすかに揺れていると嬉しい。
それにいくらかヒシャゲタ“アルマイト製”の灰皿と、箸もけして割りばしなんかじゃあなくて、やはり年季の入った塗りのやつ。
更に欲を言えば格子の障子窓には雨露を耐え忍んだであろう、幾重もの染みでもあれば肴には困らない。
そして、それの開け閉めにはいつも一工夫させられる滑車の引戸・・・・・・
もちろん格子に曇りガラスで取っ手の所は庶民の血と汗と涙が染み付いて黒光りしているやつ。
そして時期でも良ければ、開け放たれた障子、格子の隙間から知った顔がチラホラ覗ける。
それでもどう云うわけか素のままだとそれなりに気を遣いながら開けかけた暖簾をそっと避けて具合のいい席を選る・・・・・・
「ここが空いてるよ」
と、常連だろう何気に気安い。
そう云った店は団体で来る客はそうはいない。大概が一人か二人と決まっている。
それでも3人寄らずとも、そこそこに仕上がってくるとつまらない揉め事を肴に結構賑やかになる。
贅沢なブランデーやウイスキーなどは無い精々がニッカかトリスのか「角」、それもポケットだったりする・・・・・
店の中は口角に泡を飛ばし、日々日頃の溜飲を下げるかのような俄か天下人の五月蝿さが滑稽さを誘う。
しかし、そんな“俄か天下人”もそこのカミサンにあってはとりわけ形無しで一言文句も言われようもんなら・・・・・
そう、それはまるで蝿取り紙にと捕まっちまった蝿が裸電球にに透けてジタバタしているさまのようにオロオロする。
贅沢だろうか・・・・・
そうかもしれない。否、贅沢である。
本当に贅沢であった。今はもうその店はない・・・・・
“中熊”
僕らはそれを、「チュークマ」と呼んでいた。高崎の夜の政官財界奥座敷として名を馳せていた“宇喜代”の路地を挟んだ、その辻向かいに“中熊”はあった。
“宇喜代”がお偉方の奥座敷なら、“中熊”は「労働者の奥座敷」といったところだろうか・・・・・
それにしても棲み分けの良い時代ではあったものだ。
“中熊”は亭主は厨房で肴を、おかみさんはカウンターで鍋守奉行・・・・・・
何と言っても、一番のウリ「モツ煮込」である。相当に年季の入った仕込であることはその味が証明している。
器は瀬戸物、箸はけして割箸などであろうはずがない。上物ではないにしろその塗り箸の持て成しだ・・・・・・
それに、季節物の“漬物”。これが絶品である。当然、夏場は茄子と胡瓜、カブ、の糠漬け。そして冬場は白菜漬け・・・・・
申し訳ないが、これにその「煮込み」があれば、“宇喜代”とて敵うまい!!
とは言うものの、小生、“宇喜代”とやらに上がれるほどの身分でないのでその比べを知る由もない、只の僻みかもしれないが。
何しろ、“宇喜代”とやら、蛇が出るのかヘビが出るのか畏れ多く、そこで一体どんなものを飲ませて食わせてくれるのかは想像もしたことが無いのだから。
酒の銘柄は憶えていない、その“中熊”・・・・・・
と云ううより“中熊」”を、「チュークマ」と呼ぶくらいだから、小生、頂くのはもっぱら焼酎、ご存知の「ウメ割」だ。これも矢鱈と逸品である。
分厚いカットグラス・・・・・そんな気取った物ではないただの分厚い「コップ」。まあ、その分厚いコップにもそれなりの商いのコツがあったようだが・・・・・
その分厚いコップとその皿受けに零れても尚、並々と注いでくれる「ウメ割り」。
中学で習った・・・・・?
小学校だったか、「表面張力」。その表面張力に嬉々としながら・・・・・
まず、両手を膝の上に置き、嬉しさを隠し、徐を装いながらグラスに口づけ、「チューッ!!」っとイクッ!!
まさに、それこそが「チュークマ」!!
途中、溢れ零れた皿受けの「ウメ割」を、まるで子どもの頃に駄菓子屋で「さぐり」に当たった時のような気分でコップに戻す・・・・・
<少し増えている・・・・・!!>
裸電球に透かして量を確かめ「ニンマリ」する。
その“チュ―クマ”のもうひとつの売りは「濁り酒」だ。
誰とはなしに酒飲みが度胸試しのつもりでそれを覚える。変な話、胃カメラの時の「バリュウム」のような感じが最初の覚えである。
慣れて来ると確かに美味いに違いは無いが兎に角、足腰に来るのが騒ぎである。僕は2杯目は遠慮する事にしていた・・・・・
“チュークマ”のそれは、昭和45年、僕が当時隆盛の「キャバレー」でドラムを叩いていた頃の時代の話である。
まあ、そんな店は今はもうない・・・・・
いや、一つや二つはないとあまりにも寂しすぎるので、大事にしまって置いてあるところが、あそことあそこにある。
そのあたりを次回は描いてみたい・・・・・
Posted by 昭和24歳
at 13:37
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