2013年04月21日

高崎“ 萬来軒”が閉店しました。

高崎“ 萬来軒”が閉店しました。




それはまさに「昭和の灯火」といってもいいかもしれない。

僕が小学生の頃の「えびす講」だっただろうか・・・・・

中銀の入口九蔵町、嘉多町、新紺屋町とが交差する四角から、

高崎神社に向かっておおよそ、200mくらいの、あれは高崎神社の参道だろうか。

そこには所狭しと「露店」が立ち並んでいた。

当時のえびす講はその高崎神社参道の露店がひとつの華だった・・・・・

もちろん、中銀の新紺屋町、寄合町、中紺屋町も黒山の人でごった返していた。

高崎神社では「くじ引き」と、そう「のど自慢大会」がなんといっても盛況だった。

その「のど自慢大会」でいつも優勝するのは春日八郎バリにポマードでテカテカにして、

ビシッと決めていた、たしか「トラさん」といったか、いつもは「刃物研ぎ」稼業に、

自転車にその商売道具を載せて高崎の街を流していた、粋なお兄さん。

歌う曲は、そう、当然「春日八郎」の当時は「お富さん」「別れの一本杉」、

そして「赤いランプの終列車」と、賞品の味噌、醤油、米を独り占めしていた。

で、その向こうを張るかのように勝負を競っていたのが、「片腕」の「近藤さん」というお兄さん。

この「近藤さん」は一にも二にも「伊藤久男」の「イヨマンテの夜」が十八番だった。

「伊藤久男」も裸足で逃げ出すかのような爆声で歌い上げるそれは只者ではない、そんな趣。

まあ、ご両人とも、おそらくすでに鬼籍かと。

そんな高崎神社のえびす講の帰りに当時小学生だった僕が母親にねだったのが・・・・・・

ご案内の“ 萬来軒”の、当時はラーメンとは言わない、中華そばとも言わない、

あの石原慎太郎じゃあないが「支那そば」、それだった。

昭和30年代、そんな“ 萬来軒”に限らず、いわゆる「食堂」に入るなんてぇことは、

僕ら子どもにとっては「海外旅行」にでも行くような話だった、いや、大袈裟でもなんでもなく。

その“ 萬来軒”でいただいた「支那そば」のあの独特な麺の味・・・・・・

もちろん現代の麺の味とは似ても似つかない、なんでなんだろうか、製法に違いがあるのか?

聞きかじりでは、「かん水」の分量の差が、とか、もちろん「日持ち」のこともあってなのか。

その支那そばの焼豚も支那竹もこの上ないご馳走だった、それよりなにより、

なんといっても僕が大好きだったのが「鳴門巻」、それをスープを飲み干す寸前に・・・・・

その味を噛み締めるようにしていただいたことを今でも覚えている。

高崎の街に、いわゆる「ラーメン屋さん」が一つ、二つと消えてゆく。

まあ、今風の「ラーメンショップ」もいいが、その「支那そば」はひと味もふた味も違う。

今思うんだけど、決めては、今となってはそれは「炒飯」にあるかもしれない。

そういえば、あれは南町か、「可楽」のチャーハンと硬焼きそばは行ける・・・・・

東龍のチャーハンもご機嫌だ。

高崎“ 萬来軒”が閉店しました。




Posted by 昭和24歳  at 15:27 │Comments(2)

この記事へのコメント
満来軒が閉店ですか・・
よく中華そばの出前とりました・・
昔風の中華そばですよね・・
出前は、中華は満来軒、そば、うどんは「すかや」、カツ丼とカレーは「池田屋」だったなぁ・・
「池田屋」は火事で燃えちゃったって聞いたけど・・
上カツ丼は絶品だった・・
Posted by 昭和29 at 2013年04月25日 16:02
>「池田屋」だったなぁ・・

「池田屋」って、どの辺でしたっけ?

「すかや」といえば八間道路の田町支店のそば汁は絶品でした!!
Posted by 昭和24歳昭和24歳 at 2013年04月26日 15:00
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