2013年04月11日

高崎の「レ・ミゼラブル」そして高崎藩、幕末の町人文化

高崎の「レ・ミゼラブル」
そして高崎藩、幕末の町人文化


高崎の「レ・ミゼラブル」そして高崎藩、幕末の町人文化
http://www.4gamer.net/games/150/G015000/20121115062/

まあ、「士農工商」という身分社会の中には・・・・・

ここ高崎にも「レ・ミゼラブル」が?


4月6日(土)から中心市街地の13店舗の飲食店で
 高崎商工会議所は、高崎市と協力し、今週末の6日(土)から「高崎まちなかオープンカフェ」を開始する。

 「高崎まちなかオープンカフェ」は、中心市街地の回遊性とにぎわいづくりを目的に飲食店の店先にテーブルや椅子を並べ、飲み物や軽食を楽しんでもらうもので、「たかカフェ」の愛称で浸透させていく。

<抜粋引用:高崎新聞 2013年4月5日>
ソース:http://www.takasakiweb.jp/news/article/2013/04/0502.html

だそうです・・・・・

さて、「八重の桜」もそうだが、時代を教える大河ドラマ、

そのほとんどが「権力者側」からのシナリオである。

まあ、同じNHKでも「梅ちゃん先生」の連続朝ドラは戦後すぐの、

いわゆる下町が舞台で、その中の庶民が主人公、高視聴率だったようだ・・・・・

それは、現在70代、80代の高齢者には若かりし頃を回顧させ、

戦後生まれ世代の僕らにも当時の生活を思い起こさせ、郷愁を誘った。

まあ、「堀北真希」ちゃんのクサくない「演技」もよかったのかもしれない。

といったように、このところのテレビだが「ドラマ」がない・・・・・

大衆、庶民が主人公のそれ「時間ですよ」とか「寺内貫太郎一家」とか、

「渡鬼」も終了して、まあ、精々がわかりやすいサスペンスものか「相棒」とか。

まあ、プロデューサー、作家、脚本家の久世光彦氏もお亡くなりになり、

同じくプロデューサーの石井ふく子氏、脚本家の橋田壽賀子氏もそろそろご高齢だし。

まあ、NHK大河では「篤姫」の田渕久美子氏のストーリーが良かったかなぁ、と。

で、SFぽかったが、大衆、民衆を素材にした「JIN-仁」・・・・・

そして「とんび」描いた森下佳子氏には正直いって、ハマっちゃいました(笑)。

その意味では次期NHK朝ドラ「ごちそうさん」も森下氏によるものだが、

大阪の街が舞台とか。「てっぱん」もそうだったが、

どうも富司純子の「大阪弁」には違和感がと、関東の人間にとっては「言葉の壁」が。

まあ、そんなわけで前置きが長々としちゃったけど・・・・・・

「チョンマゲ時代の高崎」って、その町人の暮らしってどんなんだったんだろうかと。

その中で、取り分けてテーマになってもいいと思うのが明治維新直後の「高崎五萬石騒動」。

まっ、今日へと続く明治新政府にとって何か都合の悪いことでもあるのかと勘ぐっちゃうけど、

秩父事件の映画化「草の乱」があったように、コレ↓

総製作費4億5000万円は主に一般市民からの出資によって賄われ、登場するエキストラの数はのべ8000人。しかもすべてがボランティアという空前絶後の規模での撮影となった。
ソース:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E3%81%AE%E4%B9%B1#.E6.A6.82.E8.A6.81

「高崎五萬石騒動」はその幕末、明治維新と農民と権力との戦い・・・・・

そして、高崎の「町人」との関わり合いとその後。

当然その後には明治政府の日清日露戦争が有り、昭和恐慌もあり、

その中での町人の暮らしは消して安頓としたものではなかったのではないか。

さらに、明治新政府、高崎第十五連隊の設営に伴う「高崎城」の完全取り壊しは、

高崎藩は佐幕派であり、倒幕派の水戸天狗党との下仁田戦争も遠因ではないかと。

その明治維新により「高崎藩士」はどうなったのか「町人」の生活はどうなったのか?

また、昭和10年、後に日銀総裁となった高崎出身の深井英五↓

1871(明治4)年、高崎市に生まれる。経済的に恵まれず師範学校進学を断念。そんな中新島襄が外遊中にブラウン夫人から託された奨学金の受給者に選ばれ、1886(明治19)年晴れて同志社英学校普通科に入学する。同志社在学中は抜群の成績で特に語学力は群を抜いていたという。1891(明治24)年卒業。
ソース:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E4%BA%95%E8%8B%B1%E4%BA%94#.E7.94.9F.E6.B6.AF

そういうことからも、高崎を舞台にした「大河ドラマ」もない話ではない。

高崎で非業の死を遂げた「徳川忠長」も第二大将軍・徳川秀忠が父と、

あのNHK大河の「江」を母に、上野樹里の息子(次男)との縁の高崎は・・・・・・

その意味でも題材には事欠かない。

ところで、迷道院さん、「八重の桜」と「小栗の椿」も素晴らしいが、

江戸時代「高崎の町人」をテーマにした記事を書いてくれませんか、その卓越された調査力で。

民家に残る高崎城
今となっては残念な旧高崎城の取り壊しですが、当時も財政難だったようで、売れるものは市内の素封家に売却したものと思われます。

もしかすると、まだまだどこかの民家に高崎城が残っているかもしれません。

<抜粋引用:隠居の思ひつ記 2009年07月15日>
ソース:http://inkyo.gunmablog.net/e53370.html

興味が尽きないですね。

しかし、どういう手順というか経路で・・・・・・

その「高崎の素封家」の手に渡ったんでしょうか?

元はといえば、高崎城、幕府から明治新政府に戦利されたとは言え、

年貢や冥加金、運上金からの「公共財」だったわけでは?

高崎の「レ・ミゼラブル」
そして高崎藩、幕末の町人文化




Posted by 昭和24歳  at 15:54 │Comments(1)

この記事へのコメント
>年貢や冥加金、運上金からの「公共財」だったわけでは?

グリーンピアの売却と同じ感覚なんでしょうね。

慶応三年に21万両だった高崎藩の借財は、明治四年の廃藩置県時、45万両に膨れ上がっていたそうです。
いかに、戊辰戦争で新政府軍に忠誠を示すための出費が多かったかということです。
そこへもってきて、五万石騒動で年貢が減少する訳ですから、高崎藩も大変だったんですね。

困った高崎藩は、藩札をじゃんじゃん発行してその場をしのごうとしますが、結局そのツケは、超インフレと踏み倒しという形で、町人に回ってきます。
昔も今も、変わらないですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎 at 2013年04月11日 22:24
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