2013年02月22日
糞以下の“ペン
糞以下の“ペン”
「小泉君には“8月15日”には参拝しないように電話しておいた。するなら“13日”にと。結果そのとおりになった・・・・・」
直接電話できる間柄らしい(笑)。
“月刊現代”ではあの鈴木宗男代議士と小島進ヒューザー社長、進行役に佐高信で・・・・・・
佐高信といえば辛口コメントの評論家ではあるし、
著書も書きっぷりの面白さから結構読ませてもらっているが、
“歳をとる”ということは“ま~るく”なるというかある種の自己保身に走るというか・・・・・
しかし佐高氏のことだからあとで鈴木、小島両氏をどこかでこき下ろすんだろうけど、
その対談記事はその“佐高信”の存在を貶めたに等しいものであったことを感じたのは僕だけだろうか。
“ジャーナリズム”とはなんだろうか・・・・・・
結果、それは権力に阿る。時代の経過とともに。
もっとも読売のように戦中は特高の官僚だった者が“新聞社社主”になるのがこの国だが、
サンケイの鹿内にしても戦中の“サンスケ”がらまりで権力の中枢で、
“ジャーナリズム”も衣を纏っていた。
毎日新聞にしても長州閥の御用新聞が始まりで経営不振には三菱財閥に買収されたりもしている。
新聞、テレビは当然ながら広告収入が経営の根幹・・・・・・
さらにその広告の裁量権は旧国策情報宣伝社“電通”がすべてを握っている。
要は、電通が広告をつけなければ一切の番組、ニュースは作られないし、報道されない。
さて・・・・・
今日を嘆く。まあ嘆いているのは50年も生きてしまっている僕だけかもしれないが、
あの戦争の後に生まれた僕らが60年近くたってもあの時の“ママ”を嘆く・・・・・・
実はあの頃と“何も変わっていない”ということを生きてきた証明として、
そう感じているからではないだろうか。
ということは“ジャーナリズム”が何かを変えたか・・・・・・
変わったのは米占領政策での経済至上主義という国策。
論調では、一国平和主義。そういわれる中にもあの戦争以来、
日本人何人足りとも武器を持って、或いは軍人、兵隊として外国へ行って、
戦闘、戦争、或いはそれを目的として“人殺し”をしていない・・・・・・
とは言うが、沖縄をはじめとする米占領政策による日本国領土を軍事基地、
それも世界最大の“戦略基地”として“占領”したまま、されたままにあるという事実。
現実的には、世界から見たこの状況はこの日本という国、日本列島は・・・・・・
日本列島そのものが“米軍基地”としか映っていない。
元内閣総理大臣の中曽根康弘の“日本列島不沈空母”発言・・・・・・
これはこの国の権力者の“本音”ではないだろうか。
もちろん、靖国批判をする浮沈空母列島艦長“中曽根康弘”元海軍主計少佐、特高官僚、
戦後は香川県警警務課長、警視庁警視、監察官・・・・・・
その後衆議院議員ともちつもたれずの入魂の間柄“ナベツネ”の本音であろうことを疑うことはできない。
中曽根康弘回想記・・・・・・
『二十三歳で三千人の総指揮官』に次のように記している(同書72ページ)。
「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。
そんなかれらのために、私は苦心して、“慰安所”をつくってやったこともある。
彼らは、ちょうど、たらいの中にひしめくイモであった。」
23歳の青年将校が日本軍兵士のために“慰安所”を作ってやったそうだ。
ではその時の“慰安婦”はどこの誰で、どのようにして集めたのか?
“高雄海軍施設部女子挺身隊「静和寮」寮長”
23歳の青年将校は現中華民国(台湾)で慰安施設を作ったのだろうか。
糞以下の“ペン”である。
新聞は“糞以下”・・・・・・糞も拭けない(笑)。
「小泉君には“8月15日”には参拝しないように電話しておいた。するなら“13日”にと。結果そのとおりになった・・・・・」
直接電話できる間柄らしい(笑)。
“月刊現代”ではあの鈴木宗男代議士と小島進ヒューザー社長、進行役に佐高信で・・・・・・
佐高信といえば辛口コメントの評論家ではあるし、
著書も書きっぷりの面白さから結構読ませてもらっているが、
“歳をとる”ということは“ま~るく”なるというかある種の自己保身に走るというか・・・・・
しかし佐高氏のことだからあとで鈴木、小島両氏をどこかでこき下ろすんだろうけど、
その対談記事はその“佐高信”の存在を貶めたに等しいものであったことを感じたのは僕だけだろうか。
“ジャーナリズム”とはなんだろうか・・・・・・
結果、それは権力に阿る。時代の経過とともに。
もっとも読売のように戦中は特高の官僚だった者が“新聞社社主”になるのがこの国だが、
サンケイの鹿内にしても戦中の“サンスケ”がらまりで権力の中枢で、
“ジャーナリズム”も衣を纏っていた。
毎日新聞にしても長州閥の御用新聞が始まりで経営不振には三菱財閥に買収されたりもしている。
新聞、テレビは当然ながら広告収入が経営の根幹・・・・・・
さらにその広告の裁量権は旧国策情報宣伝社“電通”がすべてを握っている。
要は、電通が広告をつけなければ一切の番組、ニュースは作られないし、報道されない。
さて・・・・・
今日を嘆く。まあ嘆いているのは50年も生きてしまっている僕だけかもしれないが、
あの戦争の後に生まれた僕らが60年近くたってもあの時の“ママ”を嘆く・・・・・・
実はあの頃と“何も変わっていない”ということを生きてきた証明として、
そう感じているからではないだろうか。
ということは“ジャーナリズム”が何かを変えたか・・・・・・
変わったのは米占領政策での経済至上主義という国策。
論調では、一国平和主義。そういわれる中にもあの戦争以来、
日本人何人足りとも武器を持って、或いは軍人、兵隊として外国へ行って、
戦闘、戦争、或いはそれを目的として“人殺し”をしていない・・・・・・
とは言うが、沖縄をはじめとする米占領政策による日本国領土を軍事基地、
それも世界最大の“戦略基地”として“占領”したまま、されたままにあるという事実。
現実的には、世界から見たこの状況はこの日本という国、日本列島は・・・・・・
日本列島そのものが“米軍基地”としか映っていない。
元内閣総理大臣の中曽根康弘の“日本列島不沈空母”発言・・・・・・
これはこの国の権力者の“本音”ではないだろうか。
もちろん、靖国批判をする浮沈空母列島艦長“中曽根康弘”元海軍主計少佐、特高官僚、
戦後は香川県警警務課長、警視庁警視、監察官・・・・・・
その後衆議院議員ともちつもたれずの入魂の間柄“ナベツネ”の本音であろうことを疑うことはできない。
中曽根康弘回想記・・・・・・
『二十三歳で三千人の総指揮官』に次のように記している(同書72ページ)。
「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。
そんなかれらのために、私は苦心して、“慰安所”をつくってやったこともある。
彼らは、ちょうど、たらいの中にひしめくイモであった。」
23歳の青年将校が日本軍兵士のために“慰安所”を作ってやったそうだ。
ではその時の“慰安婦”はどこの誰で、どのようにして集めたのか?
“高雄海軍施設部女子挺身隊「静和寮」寮長”
23歳の青年将校は現中華民国(台湾)で慰安施設を作ったのだろうか。
糞以下の“ペン”である。
新聞は“糞以下”・・・・・・糞も拭けない(笑)。
Posted by 昭和24歳
at 20:08
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