2012年07月02日

【訃報】落語家先生逝く、群馬脳外中島英雄医師(67歳)

【訃報】落語家先生逝く、
群馬脳外中島英雄医師(67歳)




テレビで観るコントなどの視覚によるものより、落語のような聴覚刺激による笑いのほうが、大脳が活発に働くことがわかっています。また、古典落語のように笑いのツボや落ちがわかっていることが、脳をリラックスさせると考えられています。




訃報:中島英雄さん67歳=中央群馬脳神経外科病院理事長/群馬
 中島英雄さん67歳(なかじま・ひでお=中央群馬脳神経外科病院理事長)29日死去。通夜は7月3日午後6時、同病院との合同葬は4日正午、高崎市寺尾町1072のラサ中山。自宅は同市筑縄町21の6。喪主は長男伸介(のぶゆき)さん。

 脳神経外科医の傍ら、笑いが免疫力を高めたり脳を活性化する医学的効用を説き、自ら十代目・桂文治一門の桂前治として高座に上がっていた。
<引用:毎日新聞2012年06月30日地方版>
ソース:http://mainichi.jp/area/gunma/news/20120630ddlk10060106000c.html

67歳で・・・・・

「笑いと長生き」

中島先生、一体どうしちゃったんでしょうか?

実は僕は十数年前、中島先生に母を手術してもらった。

その時のこと、先生が大学時代、

群馬大学医学部学生の頃のおはなし・・・・・

コレ、↓

【昭和】横丁の♪オールディーズ♪

僕が育った横丁“高砂町・上”

そこは明治、大正、昭和と、『職人街』の趣をなしていたようだ。

大工、鍛冶屋、建具屋、表具屋、竹屋、そして箪笥屋、風呂桶屋、等々。

まあ、一軒の家を建てて、入れもんから何から、何でも揃ってしまうといった・・・・・・

そんな横丁。

そんな横丁の路地裏に僕んちはあった。

因みに、僕んちの親父は職人ではない「ポッポ屋」。

つまり「勤め人」でそんな高砂町、横丁の表通りは職人街で、その路地裏は、

長屋がひしめき合う、戦後、未だ干支がひと回りした頃の話・・・・・・

今で言えば、「サラリーマン」だろうか、それにしても子沢山の時代で、

毎日が喧騒に昏れていた。

そんな、僕んちの隣に「藤巻箪笥店」と言う箪笥製作工場があった。

そこの息子で、「ひさおちゃん」と言うハイカラな同級生がいた。

「ひさおちゃん」は中学に入ると直ぐに・・・・・・・

なんと「フォークギター」なるアメグラの象徴とも言えるモノを手にしていた。

ひさおちゃんは上下を姉妹に挟まれ、横丁の子どもであったが、

当時は「花嫁道具」と言えば「箪笥」と言うくらいの、そんな時代だったので、

ひさおちゃんちの『藤山箪笥店』も職人を3人ほど使う結構な身上持ちで・・・・・・・

その、暮らしぶりというか、生活そのものがハイカラだった。

僕んちといえば、親父がポッポ屋の安月給取りだったものだから、その生活レベルの差は、

歴然としていたことを、子どもながらに感じ取ってはいた。そんな記憶がある。

そう言えば、その、“ひさおちゃんち”には、僕が小学校の頃のことだ、どこんちにも電話もテレビも入っていない、

そんな時代、“ひさおちゃんち”にはソレらが鎮座、奉られていて、そう、随分と重宝させて貰ったもんだった。

まあ、ひさおちゃんなんだが、「ひさおちゃん」はと言うよりは・・・・・・・・

ひさおちゃんちの小父さん、小母さん、休みの日には連れ立って映画見物だろうか、

その横丁では評判のカップルだった。

まっ、僕んちの親父、おフクロとはくべるべくもない、その横丁にしては「お上品」な夫婦だった。

そう・・・・・小父さんは大正元年生まれで、確か僕んちの親父と同い年。

で、小母さんは、そうだ、北小で、アノ、郷土の誉れ、「平成の大勲位」と同級生だったって言うから、

大正7年生まれで丁度、戦前昭和の「モボ、モガ」だったのかも知れない。

いずれにしろ僕んちの親父とおフクロとでは比べるまでもない「ハイカラさん」の趣きだった。

そんな両親の寵愛を一心に受けていたひさおちゃんは・・・・・・・・

どちらかと言うと中学一年のその頃から「文化的」なものには造詣が深かった。

また、そればかりではなく、ひさおちゃんにはその当時から恵まれた大都会の香りのする情報源があったのだった。

当時テレビのヒットパレードでは・・・・・

「花はどこへ行った」や、「七つの水仙、500マイル、パフ」などが毎日のように流れていた。

ひさおちゃんには群大の医学部に通っている東京から前橋に下宿していた「ヒデ坊」と言う従兄がいた。

つまり、「ヒデ坊」はひさおちゃんのお母さんの甥。

つまり、ひさおちゃんの大都会の香りのするその情報源はその従兄の「ヒデ坊」という、その東京のお兄さんだった。

従兄の「ヒデ坊」はなんでもひさおちゃんちが「叔母」さんち”ということもあって、ちょくちょく遊びに来ていて、

その都会的センスの情報を、ひさおちゃんにレクチャーしていたらしい・・・・・・

『フォークギター』

ひさおちゃん、どうだとばかりに僕に見せびらかした、その神々しい『フォークギター』。

それは「ヒデ坊」からのお下がりだったのだ。

「ヒデ坊お兄ちゃんが来ているから遊びに来ないか」

ある日、ひさおちゃんはそう言って僕を呼びに来た。

〈なんだ、ひさおちゃん、また僕に見せ付けるつもりだな〉

僕はそう思うと少し悔しかったがまた、あの「歌」と「フォークギター」が聴けるのかと思うと・・・・・・

ドキドキしながらひさおちゃんちへ急いだ。

階段の上からなんとも言えぬ響きの「音」が聴こえてきた。

僕の胸はどうしようもないくらい高鳴っている。階段の下からいつものように、

「ひさおちゃ~ん」

と声をかけたいのだが言葉が出ない。まずい。

僕はそこに立ちすくしてしまっているではないか。

こんなところを、ひさおちゃんの妹のとも子ちゃんや小母さんに見られたらと思うと・・・・・・

いっそのことこのまま帰ってしまおうかとさえ思った。

♪ウエハボーザフラワースゴ~ン、ロンターイムパースィン♪

と、階段の上の方から流れてくるフォークギターの音と英語の歌。

なんと、ひさおちゃんは一緒に口ずさんでる。

「ひさおちゃーん」

僕は咄嗟の内に階段を覗き込むようにしてひさおちゃんを呼んだ。

「おー、上がって来いよ」

ひさおちゃんは二階から階段下を覗き込むようにして僕を手招きした。

まあ、当時は未だ「カルチャーショック」なんていう言葉はなかったんだが、

生まれて初めて「花は何処へ行った」という英語の歌を生で聴いて、僕は・・・・・・

「コレだ !! 」

と、全く新しい世界が僕の目の前に広がるのを感じて、

なんかひとつ大人になったような気分になってる自分に得も言えぬ興奮をしていた。

僕はこの胸のトキメキをひさおちゃんに感づかれないように、ゆっくりと階段をのぼった。

本当は駆け上がりたいほどだったのだが・・・・・・・

ひさおちゃんとヒデ坊お兄ちゃんは向い合ってフォーギターを弾いている。

初めて耳にするそのヒデ坊お兄ちゃんのフォークギターの響きはテレビで見たそれと全く同じだ。

ヒデ坊お兄ちゃんも「アイビールック」。

それは、まるでブラザースフォーのレコードジャケットから抜け出てきたような趣。

ひさおちゃんはチラっと僕の方を向くと・・・・・・

「どうだい !! 」

と言わんばかりににこりともせず僕を一瞥するようにして、ヒデ坊お兄ちゃんのギターの弾き方を真似て言った。

「これっ、ブラザースフォーって言うんだ」

僕の方を見向きもせずひさおちゃんは言う・・・・・・

「これがいちばん簡単だから直ぐに覚えられるぞ」

ヒデ坊お兄ちゃんはひさおちゃんにそう言いながらギターを弾き続ける。

まるで魔術師のように親指と人差し指と中指を使い「なんでもない」っと言うような顔をして弾いている。

鉄線が張ってあるギターを右手の指で“コロコロ、コロ”っと・・・・・・

左手の指はゼンマイ仕掛けでもあるかのように“サッサッサッ”と小気味良く動かせて弾いている。

「C、Am、F、G7、これだけ。やってごらん」

ひさおちゃんはつっかえつっかえでもでも何とか弾いているではないか !!

僕は思わず『すげぇ、ひさおちゃん !! 』と、つぶやいていた。

ひさおちゃんは得意満面である。

そう言えば、ひさおちゃんは小さい頃から何かにつけて“得意たがり屋”だった。

また“得意たがり屋”なだけに得意でない野球とかプールへは何度誘っても、ただの一度も・・・・・・

一緒に、遊んだことはなかった。

まあ、“得意たがり屋”が“得意たがれない”のだから仕方がないことなのだが。

スポーツはいたって苦手なひさおちゃんだったが、

ベーゴマ、メンコ、将棋は結構強かった。そんな時決まって、お決まりの得意満面でポーズをとるのであった。

「君も弾いて見る?」

ヒデ坊お兄ちゃんが僕にそのフォークギターとやらをよこした・・・・・・

実は僕も“ギター”を手に入れていた。姉が高校の時に使っていたやつで、

しかし残念ながら姉のお下がりのギターは鉄線ではなかった。

ナイロン線の『禁じられた遊び』専用のギターだった。

それはひさおちゃんのギターと比べると弦の張ってある所が矢鱈と幅広く、

ナイロン線だからそうは痛くはないが、押えづらくて堪ったもんじゃあなかった。

で、その鉄線の「フォークギター」とやら、左手の指が痛い、指先が潰れる。

ヒデ坊お兄ちゃんのを見ているとなんとも簡単そうなのだが、兎に角痛い、小指が攣れる。

瞬く間に指先は赤くはれ上がり指は攣れ早くも新しいその憧れの「文化」に挫けそうになっていた。

そうだ、ひさおちゃん家には「蓄音機」もあった。

ひさおちゃん家のお父さんは職人さんを数人使っていて、その若い職人さんたちが蓄音機を楽しんでいた。

僕の家の隣が「細工場」っていう所で、日永住込みの職人さんたちが箪笥作りに精を出していた。

年の頃なら23、4か・・・・・・

当時流行の春日一郎『別れの一本杉』を十八番に調子よく鉋をあてていた熊さんという職人さんがいた。

聞けば、その熊さんご愛用の「蓄音機」だったらしい。

その蓄音機で初めて「SP盤」のブラザースフォーを聴かせてもらった。

僕はヒデ坊お兄ちゃんの『遥かなるアラモ』が好きだった・・・・・・

僕はそんな“ヒデ坊お兄ちゃん”のいるひさおちゃんが羨ましくて堪らなかった。

“PPM”に“キングストントリオ”滅茶苦茶カルチャーショック。

そうそう、その「ヒデ坊お兄ちゃん」、群大医学部では確か「落研」入っていた。

それを、というか、ソレも真似て、ひさおちゃんはいつも手拭をベルトに刺して噺家を気取っていた。

実は今日の僕の落語好きもあの頃の、ひさおちゃんのせいかも知れない。

ところで、その「ヒデ坊お兄ちゃん」・・・・・・・・

今では噺家先生としてとある群馬の病院の院長で名を馳せているから面白い。

時々、TBSラジオなどご出演でそのお声はご拝聴させてもらっている。

そう云えば横丁には同世代、あの頃はいろんな名人がいた。

野中のセーちゃん。

やはり横丁の住人だが僕より一級上、いつも窓越しに「フォークギター」を鳴らしていた。

今時の若いもんが「今時の中高年」となった、平成の今・・・・・・・

時節を違え、もうそこ、横丁には住む人もない。

家もない、再開発の名のもとに住処を追われた。それが「時代」なのか。

もちろん、あの頃の横丁のオジさん、オバさんはほとんどいない、既に鬼籍へと。

そして、そこ、かつての横丁には懐かしむ風景さえ失せてしまっている。

2011年06月09日
<【昭和】横丁の♪オールディーズ♪を再掲>
http://g3s.gunmablog.net/e176847.html

僕が今もなお音楽の道に通じてるのも・・・・・

「ヒデ坊おにいちゃん」のおかげかもしれない。

そういえば、箪笥屋のおばちゃんの葬儀の時も、忌中祓いでは笑わせていた。

「笑いは長生きの秘訣」そう言ってた中島先生。

「紺屋の白袴」か「医者の無養生」・・・・・

それとも、「笑わせる」ことに神経使いすぎちゃったのか?

人の人生ってわかりませんね。

合掌

【訃報】落語家先生逝く、
群馬脳外中島英雄医師(67歳)





Posted by 昭和24歳  at 14:15 │Comments(1)

この記事へのコメント
「桂前治」で検索して来ました。唖然!としています。「医者の不養生」ですか・・・中野先生、いや前治師匠、笑えないですよ・・・先生には日野原重明先生ぐらい長生きしてほしかった。
Posted by ピーメン at 2013年02月17日 14:10
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