2011年06月06日

偽装された「高崎という街」

偽装された「高崎という街」

偽装された「高崎という街」

高崎駅東口 イーサイト高崎

プリンター修理にヤマデンに行ったついでに・・・・・・

その“イーサイト”とやらへ。

まあ、高崎駅は西口も東口も、あの時代の面影は、その欠片さえない。

コレが、「進歩」ということなんだろうか ???

西口の商店街も、まあ、月曜日ということなのか閑散としたものだ。



昭和四五年・・・・・・

未だ「高崎駅」西口も停車場の趣をなしていた。

そう、「昔ながら」のそれだ。

駅舎は明治からの物だろうか白塗りの壁に年季の入った鴨居と頑丈そうなベンチに風情があった。

改札口には入り口と出口は別棟で何れも木戸に駅員が番を張っていた。

高崎駅西口。正面の大戸を入ると高い吹き抜けの天井・・・・・・

そこには何かの絵画か彫刻があったように記憶するが、それがなんであったかは定かではない。

左手に「切符売場」、右手が待合室に売店が。

冬場にはその待合室には大きな石炭ストーブが焚かれていたように記憶する。

1番線のホームには上野からの電気機関車が電気機関独特のうなりを立てながら出入り・・・・・・

夜の7時、8時ともなると金沢行きや秋田、青森行きの夜行列車がホームを賑していた。

そう、「西口」と言うからには「東口」もあったわけだが、

しかしそれはまるで「ついで」のようにひっそりと佇むようにしてあった。

その頃の東口は「工業地帯」で、今は「09」(衰退)などと囃されているが・・・・・・・

当時は、昭和電工、高崎製紙、古川鉱業と東町、栄町一体は煙と騒音でけたたましく揺れていた。

東口改札はこじんまりとした駅舎と言うよりは“小屋”といった趣で、

西口と結ぶ通路は幾重にも並ぶ線路の上の屋根つき高架橋、100メートルくらいはあっただろうか。

そこから先一帯は田圃だらけで、はるか先には「高崎競馬場」も透けて見えていた。

もっともご案内の“マルキュー”こと“109”は棟高の“イオン”のせいかどうかは知らないが、

このところはご案内のとおり、さっぱりらしい。

西口には駅舎を抜けると旅館、土産物屋が軒を並べ、まあ観光都市ではないのでその賑わいは知れたものだったが、

それでもそこは“商都たかさき”である・・・・・・

森繁の東宝映画“駅前シリーズ”じゃあないが、じつにそれらしい趣をなし、

「万年屋、永楽」の食堂に、当時では流行の、駅前喫茶「ブリッジ」、そして、まあ、今で言えばファミレスだろうか、

レストラン喫茶「ナポリ」を中心にして飲食街が栄えていた。

今は、ブリッジはコンコースに、ナポリは豪華な「ホテル」に衣を変えている。

まあ、しかし、「ナポリ」はご案内のとおりだが、これも栄枯盛衰か。

その頃はその飲食街を通り抜けると南小辺りには屋台の「おでんや」を商う店が未だ数件あったような記憶が在る。

昭和四二年に「問屋町」なるものが仕上がるまでは・・・・・・

「吉野藤、国光」の老舗繊維問屋が新町の角に羽場を利かせていた。

当然、商人の街。その停車場から数歩に「豊田屋」、「信濃屋」の老舗旅館と旦那衆の帳に料亭「岡源」。

さらには、元紺屋、中紺屋の繊維問屋街を過ぎれば「たかさき」の奥座敷、花街「柳川町」が袖を引かせた。

どうやら、昭和四〇年代が時節を分けたようだ。

「藤五デパート」は今の「本店タカハシ」から再開発の走りで連雀町に6階建てのビルディングに店を移した。

もっとも、その最初の「藤五」が在ったところはたしか、高崎では初めての百貨店「有賀園」だった。

その“有賀園百貨店”だが、記憶は定かではないが屋上には「飛行塔」、「動物園」のような物があったような・・・・・

僕が未だ、オシメをあてている頃、オフクロに強請ったような気がしないでもない。

有賀園は、何でも下仁田の方の出で、先々代が「糸商」、高崎に糸偏華やかりし時一代をなしたと云う。

今のゴルフのデパート「有賀園」がそれである。

以降、百貨店に遊技場があったのが、僕等が子供の頃、昭和30年代後半は「八木橋」くらいだっただろうか。

何を隠そう、群馬、西上州は「川魚」である。

それも、高崎辺りからは「川」も流れは緩やかになり・・・・・

昔から、「鯉、鰻、鰌、鮒」と、中信、南信の方からも買付けされてました。

と云うのも、西毛地域は農業の傍ら、河川漁猟も江戸以前盛んだったようだ。

それは高崎の、と云うより、旧碓氷、群馬、多野郡は上杉とか武田の落武者が多く、

加えて土地は痩せ近年までは稲作には適さず、畑作、養蚕、狩猟、漁猟が主だったようである。

秋から、春にかけて比較的乾燥地帯なので、小麦、漬物は「絶品」。

また、ここは商人、町人の街と云う事もあって、明治の初頭より「ハイカラ」な食べ物・・・・・

つまり“流行モノ”に弱いとでもいうのだろうか上州人(笑)。

「牛鍋」、今は栄華盛衰の歴史に沈みましたが、「なべや」なんと云う“料亭”。

宇喜代、魚仲、暢神荘、岡源、等々「川魚料理」を中心に華やいだそうだ。

そうだ、流行モノといえば“洋食”。因みに、「栄寿亭」は、大正期の創業とか・・・・・

「とんかつ」。これも、それまで近世の食文化には無かったようだし、

高崎の“ハイカラさん”の垂涎のまとではなかったかと想像する。

まあ、その、「栄寿亭」の添えもんの「お新香」だが、どうせなら、もう少し気を使うべきだと思うのだが、

でも、それっ、僕、嫌いじゃあないですけど(笑)。

そういえば、わが末娘・・・・・・・

「無性に“栄寿亭”、食べたくなるときってあるんだよね」

そんなわけで、思い出したように時々、その「栄寿亭」に娘とお邪魔する。

そうだ、昔ながらの「食堂」が通町にあった。

「三富士食堂」。

しかし、その「三富士」、近年の都市計画区画整理とやらでだいぶこじんまりとした店構えになってしまったが・・・・・

その“三富士”。栄寿亭で修行をした御年70過ぎの亭主が商っておるとか。

もしかしたら、「昔の高崎」、その味に出会えるかもしれない「三富士食堂」。

まあ、「昔ながら」がカップラーメンになってしまった昨今のことである、「生昔ながら」は、貴重な存在かと。

そう云えばその・・・・・「昔ながら」がもう残り少ないですね。

“らっちゃん”のヤキソバと餃子、“オリタ”のヤキソバ、そして“ピナン”のナポリタンとか。

そんな「昔ながら」がほとんどなくなってしまった。

それはそうと“もりや”の「昔ながら」、“やきそば”は如何でしょうか?

キャベツと揚げ玉だけの(笑)。

そうだ、かろうじてその「昔ながら」を楽しませてくれるのが・・・・・・

「成吉思汗」。とうとうここだけになってしまった、「たかさき」の昭和。

まあ、“イーサイト”なんだが、

「“イーサイト”栄えて“街”滅ぶ」だろうか。

なんのための都市計画、そして再開発だったのかと・・・・・・

で、それがさらに進むような東口、旧競馬場跡地までのハコモノという「夢芝居」。

偽装された「高崎という街」





Posted by 昭和24歳  at 18:49 │Comments(1)

この記事へのコメント
高崎駅周辺は西も東も、全く様変わりしてしまいましたね。

僕の本籍は下和田ですが、とうの昔に新幹線の高架下で、幻の住所です。面倒くさいからそのままにしてます。それでも通用します。
Posted by 忠やん at 2011年06月07日 01:11
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