2011年06月08日
「ロックな街」高崎が、「軽音の街」高崎に(笑)。
「ロックな街」高崎が、
「軽音の街」高崎に(笑)。
「坂城ブルースフェスティバル」でドラムを叩く“昭和24歳”
“たかさき”は実に『ロックな街』である。
いや、あった(過去形)・・・・・・
まあ、“ロック”と言えば聞こえはいいが、ようするに流行りモンに敏感。
そして、それに“弱い”上州人気質とでも言うのだろうか・・・・・
江戸の頃はよくは知らないが、ご案内の花街、花柳界もそれは評判だったと仄聞。
今では、それ、見る影はほとんど見当たらないが。
あの柳通り、“ビューホテル”の所は往時、それこそ“粋な黒塀観越しの松”の料亭『宇喜代』があった。
もちろん戦争中まではそこ“柳川町”と言えばそこは色街。
通称“だるまや”とか言って第十五連隊の兵隊さんや、街の若い衆の憩いの場所とかであった。
戦後、それも干支が一回りした頃の昭和33年に“売春防止法”完全実施で一時はその灯の消えた“柳川町”。
その後は、キャバレー、クラブ、バー全盛時代で昭和50年代半ば頃までは隆盛を極めた。
もっとも、朝鮮動乱特需。そして糸偏特需があり・・・・・・
幾度かの好、不景気を繰り返す中、どう云うわけかあの“バブル”の恩恵にはそう預らずに、
その花街、色街はなんとも奇天烈な外国語の飛び交う街へと変貌した。
まあ、それは、なにも「高崎」だけではないだろうが。
その“ロック”はこの街の底辺の若者文化を作り出した。
なんと言っても、日本ロック界“NO1”と言っても過言ではない伝説のギタリストを排出したロックな街“たかさき”である。
しかし今ではそれを騒がせる彼ら、その伝説のギタリストたち・・・・・・・
その少年の頃は鼻ツマミモンであったことは想像に難くはない。
ある時、その伝説のロックグループの隆盛も沙汰止みになったころの、そのメンバーの一人と話しをする機会があった。
そのときの彼の言葉は、
「これと言って高崎には・・・・・・」
であった。
なんでも始めて買ったベースが、駅前通の“イシズカ”(今の“カインズ”FC)と言う雑貨店だったとか。
“音楽のある街”とはどうやら何事も“アカデミズム”であることが絶対条件であるようだ。
しかし、時代は変わった。行政が率先して“そんな音楽”ロックを主催したり後援したりするようになった。
僕らの時代、昭和40年代は・・・・・・・
そんな音楽、ロック、エレキはイクォール“不良”のレッテルが即貼られ、
学校はバンド活動なんかすれば停学か、ダンスホール(ライブハウス)で補導でもされれば退学処分。
世間の目は“真っ白”だった。
しかし、そもそも“ロック”とはだが・・・・・・
“ロック”とは反体制で、自由の表現。それは時には政治、思想にも影響を与えるたぎる若者文化。
それは、
「行政とは相容れない対峙する文化なのである」
と、大袈裟にも言ってみる(笑)。
それは“ハングリー”であり、結果が“成り上がり”の象徴でもある。
ロックな街“たかさき”
今日日のその姿・・・・・・
行政が若者に媚びているのか、当世、若者が思想もヘッタクレもないヘナチョコになったのか。
まあ驚きと言えば、行政主催の『高校生バンドコンテスト』だ(笑)。
ロック魂、ロック・スピリッツ、精神が“インポテンツ”してしまっている。
もちろん行政にとっては都合のいい市民の一丁上がりということなのだろうが。
昭和40年代から平成20年を眺めてみた時・・・・・・
実は、わが末娘、「軽音」とかの部活でベース弾きなのだ。
さらに、一丁前に、スリーユニットのバンドに参加して「ライブハウス」とかの青春の日々。
そんな末娘に、昨日、その伝説のギタリストの「サイン」が届いた。
その時の娘の喜びようはなかった。
それはそうだ、伝説のギタリストのサインなのだから。
というのも、僕の先輩の元美術教師、なんでも、新島学園時代のその伝説のギタリスト・・・・・・
「教え子」だそうで、先日の代々木体育館でのコンサートに招待されて、その際僕の末娘のことを。
因みに、「山田かまち」も「氷室京介」、「松井常松」も教え子だというのだから、スゴイ(笑)。
そういえば、伝説のギタリスト、先般「徹子の部屋」で、その趣は、不良から、好々爺に(^^ゞ
「もう50ですから」
「ロックな街」高崎が、
「軽音の街」高崎に(笑)。
「軽音の街」高崎に(笑)。
「坂城ブルースフェスティバル」でドラムを叩く“昭和24歳”
“たかさき”は実に『ロックな街』である。
いや、あった(過去形)・・・・・・
まあ、“ロック”と言えば聞こえはいいが、ようするに流行りモンに敏感。
そして、それに“弱い”上州人気質とでも言うのだろうか・・・・・
江戸の頃はよくは知らないが、ご案内の花街、花柳界もそれは評判だったと仄聞。
今では、それ、見る影はほとんど見当たらないが。
あの柳通り、“ビューホテル”の所は往時、それこそ“粋な黒塀観越しの松”の料亭『宇喜代』があった。
もちろん戦争中まではそこ“柳川町”と言えばそこは色街。
通称“だるまや”とか言って第十五連隊の兵隊さんや、街の若い衆の憩いの場所とかであった。
戦後、それも干支が一回りした頃の昭和33年に“売春防止法”完全実施で一時はその灯の消えた“柳川町”。
その後は、キャバレー、クラブ、バー全盛時代で昭和50年代半ば頃までは隆盛を極めた。
もっとも、朝鮮動乱特需。そして糸偏特需があり・・・・・・
幾度かの好、不景気を繰り返す中、どう云うわけかあの“バブル”の恩恵にはそう預らずに、
その花街、色街はなんとも奇天烈な外国語の飛び交う街へと変貌した。
まあ、それは、なにも「高崎」だけではないだろうが。
その“ロック”はこの街の底辺の若者文化を作り出した。
なんと言っても、日本ロック界“NO1”と言っても過言ではない伝説のギタリストを排出したロックな街“たかさき”である。
しかし今ではそれを騒がせる彼ら、その伝説のギタリストたち・・・・・・・
その少年の頃は鼻ツマミモンであったことは想像に難くはない。
ある時、その伝説のロックグループの隆盛も沙汰止みになったころの、そのメンバーの一人と話しをする機会があった。
そのときの彼の言葉は、
「これと言って高崎には・・・・・・」
であった。
なんでも始めて買ったベースが、駅前通の“イシズカ”(今の“カインズ”FC)と言う雑貨店だったとか。
“音楽のある街”とはどうやら何事も“アカデミズム”であることが絶対条件であるようだ。
しかし、時代は変わった。行政が率先して“そんな音楽”ロックを主催したり後援したりするようになった。
僕らの時代、昭和40年代は・・・・・・・
そんな音楽、ロック、エレキはイクォール“不良”のレッテルが即貼られ、
学校はバンド活動なんかすれば停学か、ダンスホール(ライブハウス)で補導でもされれば退学処分。
世間の目は“真っ白”だった。
しかし、そもそも“ロック”とはだが・・・・・・
“ロック”とは反体制で、自由の表現。それは時には政治、思想にも影響を与えるたぎる若者文化。
それは、
「行政とは相容れない対峙する文化なのである」
と、大袈裟にも言ってみる(笑)。
それは“ハングリー”であり、結果が“成り上がり”の象徴でもある。
ロックな街“たかさき”
今日日のその姿・・・・・・
行政が若者に媚びているのか、当世、若者が思想もヘッタクレもないヘナチョコになったのか。
まあ驚きと言えば、行政主催の『高校生バンドコンテスト』だ(笑)。
ロック魂、ロック・スピリッツ、精神が“インポテンツ”してしまっている。
もちろん行政にとっては都合のいい市民の一丁上がりということなのだろうが。
昭和40年代から平成20年を眺めてみた時・・・・・・
実は、わが末娘、「軽音」とかの部活でベース弾きなのだ。
さらに、一丁前に、スリーユニットのバンドに参加して「ライブハウス」とかの青春の日々。
そんな末娘に、昨日、その伝説のギタリストの「サイン」が届いた。
その時の娘の喜びようはなかった。
それはそうだ、伝説のギタリストのサインなのだから。
というのも、僕の先輩の元美術教師、なんでも、新島学園時代のその伝説のギタリスト・・・・・・
「教え子」だそうで、先日の代々木体育館でのコンサートに招待されて、その際僕の末娘のことを。
因みに、「山田かまち」も「氷室京介」、「松井常松」も教え子だというのだから、スゴイ(笑)。
そういえば、伝説のギタリスト、先般「徹子の部屋」で、その趣は、不良から、好々爺に(^^ゞ
「もう50ですから」
「ロックな街」高崎が、
「軽音の街」高崎に(笑)。
Posted by 昭和24歳
at 21:00
│Comments(1)
九品寺で缶けりした思い出があります。氷室くん(寺○くん)の実家のコロッケはよく買い食いしました。美味かったですよ!
氷室くんのおじいさんは、モンモンが入っている方でしたっけ。たぶん大工か鳶の人だったか。はたまた?
お姉さんは、なっから美人さん。声は氷室くんと似て、ハスキーだったかと。まぁお父さんもハスキーボイスだったし。
山田かまちくんは、小学生の時から絵は天才的だった。しかも美少年だったなあ。エレキギターで感電死というのを新聞で見た時は、愕然としました。彼は数年前に映画化されましたね。DVDで観て、倉賀野ロケとかのシーンがあって、胸が締めつけられました。
ロックな倉賀野を懐かしみます。
因みに布袋くんはアル中先輩の高校の後輩ですって。あの芥川賞作家(町田康)に傷害なんて(@_@)?「仁義なき…」でバーチャルしちゃったか?もやしが強面に仮装することって、ありますから。
ロッケンロール!!!