2010年12月08日
ジョン・レノン射殺、没後30年
ジョン・レノン射殺、没後30年
ジョン・レノン射殺から30年 記念の地にファン続々
産経新聞 12月8日(水)10時25分配信
【ニューヨーク=松尾理也】元ビートルズのジョン・レノンがニューヨークの自宅アパート前で凶弾に倒れてから、8日で30周年を迎える。当日夜には、殺害現場に面し、ジョンを記念して設けられたセントラル・パークの一角「ストロベリー・フィールズ」でファンたちがキャンドルサービスを計画しているほか、すでに続々とファンが訪れ、それぞれの「30年前」に思いをはせている。
【フォト】没後30年を迎え、未発表曲3曲が入った「ジョン・レノンBOX」も発売
7日午後、思い思いにありし日のジョンをしのんでいた市民や観光客のひとりでマサチューセッツ州在住の製材業、コルビー・トーマスさん(49)は、カナダ・ユーコン準州からやってきた女性と、会話を弾ませていた。実は会うのはこれが初めて。だが15年前にジョンのファンサイトを通じて知り合ってから、2人はずっと連絡を取り合ってきた。
<以下本文>
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101208-00000517-san-ent
その意味では僕の歴史はジョン・レノンに始まって、
「ジョン・レノン」で終わるのかもしれない。
昭和40年12月、高崎、砂賀町のダンスホール「社交」のステージでギターを弾く僕。
姉から譲り受けたポータブルレコードプレイヤーで、すり減るまで聴いたビートルズ・・・・・・
それは嘉多町にあったサカイレコードで買ったEP「抱きしめたい」、確か180円。
当時、音楽センターの掃除のアルバイトが一回100円だったから、2回分(笑)。
それにしても、初めて聴いたその「エレキ」の衝撃は今でも思い出すとゾクゾクする。
まあ、そのころ「エレキ」といえば不良の代名詞だったけど・・・・・・
その「ダンスホール」は別世界だった。もちろん「不良」の溜まり場で、知った顔の同級生も(-_-;)。
しばらくすると、高崎では人気ナンバーワンの「ザ・プラネッツ」からドラムでの誘いがあった。
なんでも、「ザ・プラネッツ」のドラムとギターがリサイタル終了後にプロになるため辞めるとかで。
「ザ・プラネッツ」は高崎のもうひとつのダンスホール「みゆき」の看板バンドだった・・・・・・
で、その「ザ・プラネッツ」、実は「ビートルズ」ではなく「ローリングストーンズ」をカヴァー。
正直、僕は「ストーンズ」は趣味ではなかったが、その「ザ・プラネッツ」のオープニング、
♪タイム・イズ・オン・マイ・サイド♪のかっこよさには一発で参ってしまった(-_-;)。
で、その「ザ・プラネッツ」だが、僕のあとに参加したリードギターの時男ちゃんの影響で・・・・・・
ビートルズの楽曲も演奏するようになった。
しかし、リードボーカルの高木さん、どうやらビートルズが苦手で、
まあ、自称「高崎のミック・ジャガー」だったわけで、ビートルズの楽曲は僕か時男ちゃんが歌うことになった。
まあ、時男ちゃん、「サージェント・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のアルバムを買い込んで・・・・・・・
それをコピーとかだたから、高木さんの困った顔と言ったらなかった(笑)。
それでも、最後の音楽センターリサイタルでは♪レディ・マドンナ♪を何とかヤッタv(=^0^=)v
で、「ザ・プラネッツ解散」で、ひとり夜汽車に飛び乗る。
っていうか、東京まで、赤羽で赤羽線に乗り換えて、池袋から山手線で渋谷へ。
そこからが僕の極貧の「ミュージシャン生活」っていうか修行が始まるわけですけど・・・・・・
まあ、ソコ、「渋谷」が全てです(-_-;)。
で、「挫折」です。この楽曲↓が上手く叩けず敢無く「クビ」(笑)。
まあ、この楽曲↑だけじゃあなかったんですけど・・・・・・
♪ゲット・バック♪とか♪カム・トゥギャザー♪とか、ほとんどがダメでした。
まっ、そんなこんなで半世紀余、そのまんまの昭和24歳です(-_-;)。
しかし、「ビートルズ」の東京、武道館公演は衝撃でした・・・・・・
昭和41年(1966年)6月30日・・・・・
しかし、なんとシンプルなセットだこと(笑)。
ジョン・レノン射殺、没後30年
ジョン・レノン射殺から30年 記念の地にファン続々
産経新聞 12月8日(水)10時25分配信
【ニューヨーク=松尾理也】元ビートルズのジョン・レノンがニューヨークの自宅アパート前で凶弾に倒れてから、8日で30周年を迎える。当日夜には、殺害現場に面し、ジョンを記念して設けられたセントラル・パークの一角「ストロベリー・フィールズ」でファンたちがキャンドルサービスを計画しているほか、すでに続々とファンが訪れ、それぞれの「30年前」に思いをはせている。
【フォト】没後30年を迎え、未発表曲3曲が入った「ジョン・レノンBOX」も発売
7日午後、思い思いにありし日のジョンをしのんでいた市民や観光客のひとりでマサチューセッツ州在住の製材業、コルビー・トーマスさん(49)は、カナダ・ユーコン準州からやってきた女性と、会話を弾ませていた。実は会うのはこれが初めて。だが15年前にジョンのファンサイトを通じて知り合ってから、2人はずっと連絡を取り合ってきた。
<以下本文>
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101208-00000517-san-ent
その意味では僕の歴史はジョン・レノンに始まって、
「ジョン・レノン」で終わるのかもしれない。
昭和40年12月、高崎、砂賀町のダンスホール「社交」のステージでギターを弾く僕。
姉から譲り受けたポータブルレコードプレイヤーで、すり減るまで聴いたビートルズ・・・・・・
それは嘉多町にあったサカイレコードで買ったEP「抱きしめたい」、確か180円。
当時、音楽センターの掃除のアルバイトが一回100円だったから、2回分(笑)。
それにしても、初めて聴いたその「エレキ」の衝撃は今でも思い出すとゾクゾクする。
まあ、そのころ「エレキ」といえば不良の代名詞だったけど・・・・・・
その「ダンスホール」は別世界だった。もちろん「不良」の溜まり場で、知った顔の同級生も(-_-;)。
しばらくすると、高崎では人気ナンバーワンの「ザ・プラネッツ」からドラムでの誘いがあった。
なんでも、「ザ・プラネッツ」のドラムとギターがリサイタル終了後にプロになるため辞めるとかで。
「ザ・プラネッツ」は高崎のもうひとつのダンスホール「みゆき」の看板バンドだった・・・・・・
で、その「ザ・プラネッツ」、実は「ビートルズ」ではなく「ローリングストーンズ」をカヴァー。
正直、僕は「ストーンズ」は趣味ではなかったが、その「ザ・プラネッツ」のオープニング、
♪タイム・イズ・オン・マイ・サイド♪のかっこよさには一発で参ってしまった(-_-;)。
で、その「ザ・プラネッツ」だが、僕のあとに参加したリードギターの時男ちゃんの影響で・・・・・・
ビートルズの楽曲も演奏するようになった。
しかし、リードボーカルの高木さん、どうやらビートルズが苦手で、
まあ、自称「高崎のミック・ジャガー」だったわけで、ビートルズの楽曲は僕か時男ちゃんが歌うことになった。
まあ、時男ちゃん、「サージェント・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のアルバムを買い込んで・・・・・・・
それをコピーとかだたから、高木さんの困った顔と言ったらなかった(笑)。
それでも、最後の音楽センターリサイタルでは♪レディ・マドンナ♪を何とかヤッタv(=^0^=)v
で、「ザ・プラネッツ解散」で、ひとり夜汽車に飛び乗る。
っていうか、東京まで、赤羽で赤羽線に乗り換えて、池袋から山手線で渋谷へ。
そこからが僕の極貧の「ミュージシャン生活」っていうか修行が始まるわけですけど・・・・・・
まあ、ソコ、「渋谷」が全てです(-_-;)。
で、「挫折」です。この楽曲↓が上手く叩けず敢無く「クビ」(笑)。
まあ、この楽曲↑だけじゃあなかったんですけど・・・・・・
♪ゲット・バック♪とか♪カム・トゥギャザー♪とか、ほとんどがダメでした。
まっ、そんなこんなで半世紀余、そのまんまの昭和24歳です(-_-;)。
しかし、「ビートルズ」の東京、武道館公演は衝撃でした・・・・・・
昭和41年(1966年)6月30日・・・・・
しかし、なんとシンプルなセットだこと(笑)。
ジョン・レノン射殺、没後30年
Posted by 昭和24歳
at 18:24
│Comments(1)
『IMAGINE』思いえがいてごらん…誰にだってできるはずさ。ジョン・レノンから手渡された僕の行動の指針です。