2010年10月01日
大手前の子【伊勢殿】とか。
大手前の子【伊勢殿】とか。
<田中友次郎著:大手前の子より抜粋引用>
伊勢殿
連雀町と田町との境、ちょうど郵便局の向かい合いに、伊勢殿(いせでん)と呼んだお宮があった(正しくは神明社、江戸天明年間の建築といわれる両大神宮遥拝所である)。連雀町の氏神として、毎年のお祭りには、提灯を飾り、万灯立てたりして、にぎやかであった。
ふだんは余りお詣りするひともなく、総土蔵造りの社殿は薄暗く、冷たくヒッソリとしていた。社前の石畳の右手に、おでん屋の屋台店が建っていて、水屋(みずや)おおいかぶさるようになっていた。
このおでん屋は、母娘で商売をしていた。夕方から軒に赤提灯などを掲げ、出入りの客もボチボチ続いていたようだ。母に伴われて田町の親戚に遊びに行った夜など、母は伯母と話込んで、いつも帰りが遅くなった。田町から連雀町あたりの店は、皆とうに戸を立てているのだが、この屋台店の油障子の中は、まだ赤々としていて、若い男の話声など聞こえた。
ここの煮込みおでんは、松小屋の頃など、幾度か買ったことがあるが、磨きこんだ赤胴の釜から出される厚手のコンニャクや里芋は、よく味がしみていて、美味しかった。おでんの外に煎餅、南京豆、飴なども商っており、甘酒などもあった。夏は氷屋を開いたが、四つ角の氷屋がうまいので、ここの氷水は飲まなかった。
伊勢殿の裏手は空地になっており、正月に連雀町の松小屋が造られた。またそこには、掘抜き井戸があって、いっつもコンコンと清水がわき出ている。その頃(街に水道の敷設される前で)大手前の「きんた」の横に、公衆ポンプがあって、一般の町屋では、そこから飲水を朝夕荷架で汲んでいたが、渇水期や、大雨の後で、水の濁りが来ると、その伊勢殿裏に、汲みに行ったものだ。
伊勢殿の南隣りは樋口瀬戸物店である。広々とした露店の瀬戸物置き場が、伊勢殿の裏手の竹垣を境にして続いている。瀬戸物屋の二男のあきら君(今、楽天の主人公)が友達であったから、ぼくはよくそこへ遊びに行き、立ち並ぶ大きな土管の上を、トントン渡って面白がったことがある。-------ちょうどいなばの兎が、鰐の頭の上をピョンピョン渡って行ったように。
あきら君の家の築山の先に、当時珍しい三階建の離れがあった。一階は、俵包みの瀬戸物で一杯になっている土間、二階から三階は、客座敷になっていた。三階に上がると、随分高く、ちょいと目が回りそうで、欄干からは街の屋並みがよくながめられなかったのを覚えている。
伊勢殿の御神霊は、明治四十年、市内各地にあった多数の氏神と同様に、嘉多町のお熊んさまに合祀された(その数は二十余社)。昔からの熊野神社(おくまんさま)が、高崎神社と改称され、ここに名実とともに高崎の総鎮守となったわけである。
高崎神社の祭礼には、神輿(みこし)の先頭に、高足駄に長い鉾(ほこ)を突き、天狗の面をつけた猿田彦が、町々を練り歩く。子供心に、この長身の天狗が恐ろしかったものだが、ある時、天狗に着ているつづれ錦の脇割れから、中に半てんの人影が見えたことがある。それからは、天狗は結局人が扮装しているのだと知れて、却ってこの天狗に親しみを感じた。
神霊が移って一層さびしくなった伊勢殿は、その後久しくそのままになっていたが、いつの頃か、町屋が立ち並んでしまった。そうして、社前の屋台店の人達もどうなったのか。今、大手前から田町に続く、人の往来も激しいアーケードに変わって、昔、伊勢殿のあったあたりは、見当がつかなくなってしまった。
この大手前のこの背景となった時代は、明治三十七、八年の日露戦争の頃から、明治四十三年高崎に初めて水道が敷かれ電車が通るようになった頃まで()一九〇四年~一九一〇年)とか。
僕らならどんな高崎を描き遺すだろうか・・・・・・
大手前の子【伊勢殿】とか。
<田中友次郎著:大手前の子より抜粋引用>
伊勢殿
連雀町と田町との境、ちょうど郵便局の向かい合いに、伊勢殿(いせでん)と呼んだお宮があった(正しくは神明社、江戸天明年間の建築といわれる両大神宮遥拝所である)。連雀町の氏神として、毎年のお祭りには、提灯を飾り、万灯立てたりして、にぎやかであった。
ふだんは余りお詣りするひともなく、総土蔵造りの社殿は薄暗く、冷たくヒッソリとしていた。社前の石畳の右手に、おでん屋の屋台店が建っていて、水屋(みずや)おおいかぶさるようになっていた。
このおでん屋は、母娘で商売をしていた。夕方から軒に赤提灯などを掲げ、出入りの客もボチボチ続いていたようだ。母に伴われて田町の親戚に遊びに行った夜など、母は伯母と話込んで、いつも帰りが遅くなった。田町から連雀町あたりの店は、皆とうに戸を立てているのだが、この屋台店の油障子の中は、まだ赤々としていて、若い男の話声など聞こえた。
ここの煮込みおでんは、松小屋の頃など、幾度か買ったことがあるが、磨きこんだ赤胴の釜から出される厚手のコンニャクや里芋は、よく味がしみていて、美味しかった。おでんの外に煎餅、南京豆、飴なども商っており、甘酒などもあった。夏は氷屋を開いたが、四つ角の氷屋がうまいので、ここの氷水は飲まなかった。
伊勢殿の裏手は空地になっており、正月に連雀町の松小屋が造られた。またそこには、掘抜き井戸があって、いっつもコンコンと清水がわき出ている。その頃(街に水道の敷設される前で)大手前の「きんた」の横に、公衆ポンプがあって、一般の町屋では、そこから飲水を朝夕荷架で汲んでいたが、渇水期や、大雨の後で、水の濁りが来ると、その伊勢殿裏に、汲みに行ったものだ。
伊勢殿の南隣りは樋口瀬戸物店である。広々とした露店の瀬戸物置き場が、伊勢殿の裏手の竹垣を境にして続いている。瀬戸物屋の二男のあきら君(今、楽天の主人公)が友達であったから、ぼくはよくそこへ遊びに行き、立ち並ぶ大きな土管の上を、トントン渡って面白がったことがある。-------ちょうどいなばの兎が、鰐の頭の上をピョンピョン渡って行ったように。
あきら君の家の築山の先に、当時珍しい三階建の離れがあった。一階は、俵包みの瀬戸物で一杯になっている土間、二階から三階は、客座敷になっていた。三階に上がると、随分高く、ちょいと目が回りそうで、欄干からは街の屋並みがよくながめられなかったのを覚えている。
伊勢殿の御神霊は、明治四十年、市内各地にあった多数の氏神と同様に、嘉多町のお熊んさまに合祀された(その数は二十余社)。昔からの熊野神社(おくまんさま)が、高崎神社と改称され、ここに名実とともに高崎の総鎮守となったわけである。
高崎神社の祭礼には、神輿(みこし)の先頭に、高足駄に長い鉾(ほこ)を突き、天狗の面をつけた猿田彦が、町々を練り歩く。子供心に、この長身の天狗が恐ろしかったものだが、ある時、天狗に着ているつづれ錦の脇割れから、中に半てんの人影が見えたことがある。それからは、天狗は結局人が扮装しているのだと知れて、却ってこの天狗に親しみを感じた。
神霊が移って一層さびしくなった伊勢殿は、その後久しくそのままになっていたが、いつの頃か、町屋が立ち並んでしまった。そうして、社前の屋台店の人達もどうなったのか。今、大手前から田町に続く、人の往来も激しいアーケードに変わって、昔、伊勢殿のあったあたりは、見当がつかなくなってしまった。
この大手前のこの背景となった時代は、明治三十七、八年の日露戦争の頃から、明治四十三年高崎に初めて水道が敷かれ電車が通るようになった頃まで()一九〇四年~一九一〇年)とか。
僕らならどんな高崎を描き遺すだろうか・・・・・・
大手前の子【伊勢殿】とか。
Posted by 昭和24歳
at 20:18
│Comments(1)
おかげさまで、往時の伊勢殿の姿を想像してみることができます。
書き残しておくというのは、大事なことですね。