2010年05月19日
嗚呼、ロックな街♪たかさき♪
嗚呼、ロックな街♪たかさき♪
<坂城ブルースフェスティバルでの“昭和24歳”>
♪たかさき♪ は・・・・・・
そう言えば実に『ロックな街』である。
まあ、“ロック”と言えば聞こえはいいが・・・・・・・
ようするに流行りモンに敏感、“弱い”上州人気質とでも言うのだろうか(笑)。
江戸の頃はよくは知らないが、
ご案内の花街、花柳界もそれはそれは評判だったと仄聞する。
まあ、今ではそれを見る影はほとんど見当たらないが・・・・・・
あの“ビューホテル”の所はそれこそ“粋な黒塀観越しの松”の、
料亭『宇喜代』
があった。つまり、♪お富さん♪の世界である。
もちろん戦争中まではそこ、“柳川町”といえば色町・・・・・・
通称“だるまや”とか言って第十五連隊の兵隊さんや、街の若い衆の憩いの場所とかであった。
そして戦後、それも干支が一回りした頃の昭和33年に“売春防止法”完全実施で一時はその灯の消えた“柳川町”。
その後は、キャバレー、クラブ、バー全盛時代で昭和50年代半ば頃までは隆盛を極めた。
もっとも、朝鮮動乱特需。そして糸偏特需があり、
幾度かの好、不景気を繰り返す中、どう云うわけかあの“バブル”の恩恵にはそう預らずに、
その花街はなんとも奇天烈な外国語の飛び交う多国籍街へと変貌した。
まあ、高崎だけではないだろうが・・・・・
その“ロック”とやらはこの街の底辺の若者文化を作り出した。
なんと言っても、日本ロック界“NO1”といっても過言ではない伝説のギタリストを排出した。
ロックな街♪たかさき♪である。
しかし今ではそれを騒ぐが彼ら、その伝説のギタリストたちが少年の頃は鼻ツマミモンであったことは想像に難くはない。
ある時、その伝説のロックグループの隆盛も沙汰止みになったころの、そのメンバーの一人と話しをする機会があった・・・・・・
そのときの彼の言葉は、
「これと言って高崎には・・・・・・」
であった。
なんでも始めて買ったベースが、駅前通の“イシズカ”(今の“カインズ”FC)と言う雑貨店だったとか。
“音楽のある街”とはどうやら何事も“アカデミズム”であることが条件であるようだ。
しかし、時代は変わった・・・・・・
行政が率先して“そんな音楽”ロックを主催したり後援したりするようになった。
僕らの時代・・・・・昭和40年代は、
“そんな音楽、ロック、エレキは、
イクォール“不良”のレッテルが即貼られ、
学校はバンド活動なんかすれば停学か、ダンスホール(ライブハウス)で補導でもされれば退学処分。
世間の目は“真っ白”だった。
しかし、そもそも“ロック”とはだが・・・・・・
“ロック”とは反体制で、自由の表現。
それは時には政治、思想にも影響を与えるたぎる若者文化。
実は、「行政とは相容れない対峙する文化なのである」と、大袈裟にも言ってみる(笑)。
それは“ハングリー”であり、結果が“成り上がり”の象徴でもある。
ロックな街♪たかさき♪
今日日のその姿・・・・・・
行政が若者に媚びているのか、当世、若者が思想もヘッタクレもないヘナチョコになったのか。
まあ驚きと言えば、行政主催の『高校生バンドコンテスト』だ(笑)。
ロック魂、ロック・スピリッツ、精神が“インポテンツ”してしまっている。
まあ、わが娘、高校に進学して「軽音部」だそうだ・・・・・・
今時の高校には“ロック”を奨励するかの部活動がある。
世の中変われば変わっちゃったもんだとつくづく思う今日この頃です。
もちろん行政にとっては都合のいい市民の一丁上がりということなのだろうが。
昭和40年代から平成20年を眺めてみた時・・・・・・
チョイ、長めのつぶやきでした。
嗚呼、ロックな街♪たかさき♪
<坂城ブルースフェスティバルでの“昭和24歳”>
♪たかさき♪ は・・・・・・
そう言えば実に『ロックな街』である。
まあ、“ロック”と言えば聞こえはいいが・・・・・・・
ようするに流行りモンに敏感、“弱い”上州人気質とでも言うのだろうか(笑)。
江戸の頃はよくは知らないが、
ご案内の花街、花柳界もそれはそれは評判だったと仄聞する。
まあ、今ではそれを見る影はほとんど見当たらないが・・・・・・
あの“ビューホテル”の所はそれこそ“粋な黒塀観越しの松”の、
料亭『宇喜代』
があった。つまり、♪お富さん♪の世界である。
もちろん戦争中まではそこ、“柳川町”といえば色町・・・・・・
通称“だるまや”とか言って第十五連隊の兵隊さんや、街の若い衆の憩いの場所とかであった。
そして戦後、それも干支が一回りした頃の昭和33年に“売春防止法”完全実施で一時はその灯の消えた“柳川町”。
その後は、キャバレー、クラブ、バー全盛時代で昭和50年代半ば頃までは隆盛を極めた。
もっとも、朝鮮動乱特需。そして糸偏特需があり、
幾度かの好、不景気を繰り返す中、どう云うわけかあの“バブル”の恩恵にはそう預らずに、
その花街はなんとも奇天烈な外国語の飛び交う多国籍街へと変貌した。
まあ、高崎だけではないだろうが・・・・・
その“ロック”とやらはこの街の底辺の若者文化を作り出した。
なんと言っても、日本ロック界“NO1”といっても過言ではない伝説のギタリストを排出した。
ロックな街♪たかさき♪である。
しかし今ではそれを騒ぐが彼ら、その伝説のギタリストたちが少年の頃は鼻ツマミモンであったことは想像に難くはない。
ある時、その伝説のロックグループの隆盛も沙汰止みになったころの、そのメンバーの一人と話しをする機会があった・・・・・・
そのときの彼の言葉は、
「これと言って高崎には・・・・・・」
であった。
なんでも始めて買ったベースが、駅前通の“イシズカ”(今の“カインズ”FC)と言う雑貨店だったとか。
“音楽のある街”とはどうやら何事も“アカデミズム”であることが条件であるようだ。
しかし、時代は変わった・・・・・・
行政が率先して“そんな音楽”ロックを主催したり後援したりするようになった。
僕らの時代・・・・・昭和40年代は、
“そんな音楽、ロック、エレキは、
イクォール“不良”のレッテルが即貼られ、
学校はバンド活動なんかすれば停学か、ダンスホール(ライブハウス)で補導でもされれば退学処分。
世間の目は“真っ白”だった。
しかし、そもそも“ロック”とはだが・・・・・・
“ロック”とは反体制で、自由の表現。
それは時には政治、思想にも影響を与えるたぎる若者文化。
実は、「行政とは相容れない対峙する文化なのである」と、大袈裟にも言ってみる(笑)。
それは“ハングリー”であり、結果が“成り上がり”の象徴でもある。
ロックな街♪たかさき♪
今日日のその姿・・・・・・
行政が若者に媚びているのか、当世、若者が思想もヘッタクレもないヘナチョコになったのか。
まあ驚きと言えば、行政主催の『高校生バンドコンテスト』だ(笑)。
ロック魂、ロック・スピリッツ、精神が“インポテンツ”してしまっている。
まあ、わが娘、高校に進学して「軽音部」だそうだ・・・・・・
今時の高校には“ロック”を奨励するかの部活動がある。
世の中変われば変わっちゃったもんだとつくづく思う今日この頃です。
もちろん行政にとっては都合のいい市民の一丁上がりということなのだろうが。
昭和40年代から平成20年を眺めてみた時・・・・・・
チョイ、長めのつぶやきでした。
嗚呼、ロックな街♪たかさき♪
Posted by 昭和24歳
at 09:25
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