2020年01月04日

お母さんを考える。

お母さんを考える。


お母さんへのすべての感謝を一篇の詩に凝縮させて二カ月後、生まれながらにして重度の脳性マヒだった奈良県の少年やっちゃんは天国に旅立った。やっちゃんを見守ったすべての人の愛と涙に溢れた珠玉の一冊。

 ごめんなさいね おかあさん
 ごめんなさいね おかあさん
 ぼくが生まれて ごめんなさい
 ぼくを背負う かあさんの
 細いうなじに ぼくはいう
 ぼくさえ 生まれなかったら
 かあさんの しらがもなかったろうね
 大きくなった このぼくを
 背負って歩く 悲しさも
 「かたわな子だね」とふりかえる
 つめたい視線に 泣くことも
 ぼくさえ 生まれなかったら


日本における「男の地位」と「女の居場所」。 

上州はもちろんのこと落語に出てくる横丁のオカミサンは必ずと言っていいほど亭主のケツを叩いている。

僕が子どもの頃だが、父親は鉄道員、母親は専業主婦。

普通、「勤め人」と言われていた家庭では大体が「母さん」はいつも家にいた。

つまり、「父さん」一人の稼ぎで一家を養っていたもんだ。

もちろん不幸にしてというか、それぞれの事情で「母子家庭」になってしまった家では「母さん」の稼ぎでと言うことになるのだが、
当時はこれと言って、今のような「OL」とかスーパーでの仕事とか、町工場でのパートとかの職場は「お母さん」にはなかったし、
そもそも、零細、中小企業の専門職ではある種、徒弟制度の側面もあり女性進出の余地のある労働市場ではなかった。

あったのは、戦後、僕らの時代ぐらいまでだろうか、大企業、この辺りでは沖電気とか、太陽誘電、専売公社...
いわゆる、「女工」とかで事務職もほとんどが男の職場だった。

僕の姉も高校を卒業すると東芝の前橋工場に就職したが結婚と同時に退職、それ以来ご亭主が40代で他界するまで専業主婦だった。

巷間、日本は職場での女性の地位は低い、後進国並みだと言うのですが、しかし家庭での地位は一番ですね(笑)。

わが家でも、表向き(外交)は僕ですが、実態はカミサンがいちいち指図します。
これもやはり西洋から見たらその後進性の極みでしょうか(笑)。
西洋では、ほとんどの場合亭主が財布の実権を握っているとかですけど。

ところで、今日の日本社会の忌々しき現象は「お母さん」の存在が消えたことにあるのではないかと。

それはつまり、「共働き」です。

つまり、亭主の稼ぎだけでは食っていけない社会になってしまったと言うことです。「労働分配率の偏在」。そして妙に金のかかる社会になってしまった。

戦後高度経済成長の中で女性の社会進出がいわれてきたが、結果はそのことが男と女が同等の地位を労働環境の中で得るということは果たされなかった。

しかし、西洋がはたしてその意味でチャンスを得た女性が幸せかというとそれはいささか疑問だ。

60年代のアメリカのホームドラマではやはり専業主婦だった。

サラリーマンであるパパを家族が迎える、そんなストーリーがほとんどだった。

たまに、キャリアウーマンというか、パパの妹とかのオバサンは一見して風変わりな役柄(笑)。

つまり「日本昔ばなし」にあるようにお爺さんは山へ芝刈りに、そしてお婆さんは川へ洗濯に行ったり、食事の支度をしたり、近所づきあいをしたり

現代社会で母親も父親と同じように働くとなれば、子育てはどうしましょう...

ベビーシッター、施設での長時間保育、家政婦を雇う?莫大な出費です。

子どもが学校へ行くようになって、朝食は?夕食は?

もし、日本の男が能力のある女にチャンスを与えるようになったら日本の経済はよみがえるかも知れなぃというのですが、それは能力のある女性にだけですか?

その意味では専門職、教員、弁護士、最近は女性多いですよね。政治家は少ないけど(笑)。

僕の意見は反対ですね。

亭主一人の稼ぎで家族を食わせるように普通の家庭がなれば日本経済は甦る。

ところで、今日の日本経済、企業収益はバブル期のそれをしのぐ最高の好況だったとアベノミクス統計は言うが...

それは「経団連」連合」に属する企業と公官庁のお話で中小零細企業の社員、非正規社員の懐は20年前より2割落ちている。

そう、甦らなければいけないのは大衆経済です。

そして、子どもにとってお母さんは絶対です。少なくとも幼児期は母親の温もりは絶対に必要です。

幼、保育園不足で待機児童の増加とかですけど、よくよく考えれば、母親が働かなければ生活できない環境に、そもそも原因があるのではないだろうか。

さらにいえば、公立幼保育園の場合で園児一人当たりの公費負担が年間200万円前後とか。

これらの公費、税金がどのように使われているかは分からないが、それはその意味では幼児教育無償化以前の「子ども手当」です。

しかしその園児一人当たりの公費、税金の200万円は正しく運用されてるのでしょうか?

お母さんを考える。  


Posted by 昭和24歳  at 15:42Comments(0)

2020年01月04日

昭和33年「高崎“SLな時代」

昭和33年「高崎“SLな時代」

「高崎第一機関区」(東町)。

僕らの遊び場といえば上越線沿い、旭町の材木置き場、そして高崎鉄道管理局の敷地だった。
その材木置き場は代々の横丁の“隠れ家”がいくつもあって僕らもご多分にもれず、その隠れ家を作ってそこで遊んだ。

その材木置き場、高鉄管理局の先には国鉄の購買があって、そもそもそれがスーパーの始まりだろうか、
僕のおやじがポッポ屋だったのでよくその購買に母親に連れられて行ったのを覚えている。
そこに旭町の踏切があってその向こうが高崎第一機関区だ。

高崎第一機関区にはSLの車庫というのだろうか格納庫とでもいうのだろうか...
半円形のそれはターンテーブル、回転台につながりいつも数両のSLが忙しくしていたのが今でも目に浮かぶ。
いや、旭町のソレは踏切ではなかった。国鉄職員専用の通路になっていたのだった。
そこのところにはたしか、東町、東三条道路につながる歩行者用の陸橋の様なものがあって、
その陸橋が僕ら悪ガキの格好の遊び場になっていた・・・・・・

ひっきりなしに入れ替えをしていたSLが石炭と水を補給し、貨物、客車をつないで上越線を下る。
そのときその陸橋、僕らは「高橋(タカバシ)」と呼んでいたがその下をモクモクとした煙を噴き上げながら通過する。
そのとき、そのモクモクと噴き上げる煙の中に入って「児雷也!!」と、洒落こんだもんであった。


児雷也って、昭和30年封切の新東宝の映画『伝奇大忍術映画 忍術児雷也』(1955年公開)

当時の少年たちを熱狂させた特撮忍術映画の代表作。大ガマから妖術の極意を授かった児雷也と、大蛇の精を受けた大蛇(おろち)丸の死闘。危機に陥った児雷也の救援にナメクジの精から変幻の術を会得した許嫁の綱手姫が駆けつける...
といった映画で、電気館でやってたやつです。

で、その「児雷也」を気取るのはいいが、まあSL、スティーム・ロコモーティブの噴き上げる噴煙でシャツは真黒、顔も真っ黒。
で、家に帰ると、「またっやってきたのかい」といつも母ちゃんに叱られてました。
そういえば、ある時ガキ大将の一人が線路に置き石をして汽車を止めてエライ騒ぎになったことがあったのを憶えています。

まあそんなこんなで、今ではタワーマンションやら芸術劇場やらなんやらしまいには競馬場が「Gメッセ」で当時の面影は微塵もありません。あの一帯は僕ら、悪ガキの「新世界」でした。
子どもの頃の僕らにとってはその第一機関区というか線路向こうは舗装もされてなく雨上がりの泥濘と晴れた日の土煙と荒涼とした未知の世界だった。
まあ、上越線、高崎線沿いの東三条道路一帯は工場だらけだったようにしか記憶にない。

そう、なぜか線路向こうには興味が湧かなかった。

それでも、小学生時代、多分5、6年生のころだったか、一、二度「高崎競馬場」まで探検に行ったことがあった。
それにしても、どの道をどう通って行ったかは全く覚えていない。
おそらく、八間道路、賛光ネオン、東京ガスタンクの間を抜ける大類里街道の踏切を渡り東三条通りに出て、そこを南へ高崎駅東口をかすり、今でいう競馬場通りに出たのか、
それとも、東口を東へ向かったのか、もちろん当時は建物なんかはほとんどなく一面が田んぼだった。
記憶にはないが、東口から高崎競馬場が見渡せたというのだから。

それにしても、たった60年でこうも変わってしまうモノなんですね。高崎駅東口「東町」「栄町」...

  


Posted by 昭和24歳  at 10:40Comments(0)

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