2019年03月05日

「貰いっ子」

「貰いっ子」

似てない・・・

それは小学校4年の時だった。

酔っ払った父は伯母と口論となり僕を突き放すようにしてこう僕に言った。

「オマエはお父ちゃんの子じゃあねぇや」

僕はあまりにも突然のことなので父の言っている言葉の意味がわからなかった。
伯母が泣きながら叫ぶように言った。

「自分の子を可愛がってどこが悪いのさ」

伯母が僕のことを「自分の子」って、どういうこと?
そう思いながら泣いているおばの顔をのぞいた。
すると伯母は僕をきつく抱きしめ何度も何度も「ごめんね」を繰り返した。

伯母の涙が僕の額を濡らす。

それでも僕にはそれがなんのことなのか分からずにいた。
そこへ加陽子ねぇちゃんが学校から帰ってきた。
高校3年生だった加陽子ねぇちゃんはその空気を察したのか僕を伯母から引き離すと、

「おじさん、帰って、おじさん、もう来ないで」

そう言って僕をきつく抱きしめながら・・・

「ハジメはあたしが面倒見るから」

それでもその意味が分からずにいる僕は加陽子ねぇちゃんを振り払って父のところへ。
今度はその父が泣きながら僕をきつく抱きしめて・・・

「ハジメ、帰ろ。高崎の家に帰ろ。お母ちゃん待ってるし」

伯母も加陽子ねぇちゃんも泣き崩れたまま僕が父にしがみつくのを見ていた。

「まっちゃん、悪かったな。じゃぁ帰ってみるから」

そう言って父は僕を自転車の後ろに乗せるとバラスの新道を高崎に向かってこぎだした。
僕は父にしがみついた。何かはわからないけど急に涙が溢れ出してきた。

「自分の子を可愛がってどこが悪いのさ」

そう言って泣き叫ぶ伯母の言葉が頭の中でぐるぐる回りだした。

そうなんです。僕の父と母の間には子どもがなかった。

昭和16年、東京駅に務める父と母は、渋谷でタイル工事の仕事をしていた母の姉の夫の紹介で結婚。巣鴨で生活していた。
東京大空襲で焼け出され父と母は母の実家の高崎へ疎開するようにして新田町に移り住んだ。父は終戦まで東京駅に勤務その後北高崎駅に転勤。

昭和22年、母の長兄がシベリア抑留から復員。

そう僕は復員した松原保夫を父に、満津子を母に昭和24年2月11日(金)に群馬県碓氷郡豊岡村大字787-1に生まれる。
ここで伯母と言っているのが実母、生みの母です。

その母は僕を生むと同時に脊髄カリエスという難病に冒され10年床に臥してました。
もちろん母乳は僕に飲ませるわけにもいかず。かと言って村内、ご案内のベビーブームで貰い乳もままならず母の実家、前橋の兄弟姉妹のところを東奔西走した。

それでも、いずれも叶わず・・・
父と母は思いあぐねた結果父の父母とも相談して高崎で子どものいない「妹のナツ」のところへでも預けるか、ということに話はなったが、父の母は反対したという・・・

「ナツに赤ん坊の世話ができるわけがない」

当時28歳だったナツ。夫、渡辺兼吉38歳は子宝に恵まれ無かった。

さて、そこからがこの「ヒストリア」。

「貰いっ子」
  


Posted by 昭和24歳  at 21:24Comments(0)

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