2018年04月04日

懐古する「少年時代」

懐古する「少年時代」

まだ長嶋のいない時代・・・
僕は川上ファンだった。
買ってもらったばかりの赤バットとオヤジ。


昭和30年代です。
ご多分に漏れず、ここ地方都市・・・・・
復員兵の家族や、引き揚げ船の中で娘を亡くしたという満洲帰還者家族。
もちろん戦争未亡人家族も。

闇米で旦那が逮捕された米屋の家族。
選挙違反でお父さんがしょっ引かれた友達の家族。

共同水道に共同便所・・・・・・

ガスなんかありゃあしない、竃にケンタをくべて。
風呂なんかありゃあしない。盥に行水、よくて銭湯。
銭湯は旭町の「東湯」、椿町の「椿湯」。

蝿帳に芋の煮つけ、魚も肉も親父の給料日くらい。
断水、停電はしょっちゅう、年がら年中。

夏はゴムぞうり、冬は足袋に下駄。
遠足にお下がりのズックと接ぎ当てのないお下がりのズボンにシャツ。
汽車に乗って碓氷峠越えの「小諸懐古園」。
小学校4年だった・・・・・昭和33年。

抜けるほどの青い空・・・・・

大雨で雨漏りの度に親父がカンカン照りの中、屋根に登ってコールタールを塗る。
ポッポヤだった親父、休みの日には昼間っから酒を飲み俺を叱り飛ばす。
そんな親父をおふくろが叱り飛ばすそんな日常。

かくれんぼ、三角ベースの野球、馬乗りに竹馬。
38度線ごっこにベーゴマ、ビー球、メンコ。
真っ暗になるまで、泥だらけになって遊んだ遠い日。

アカギレ、田虫、ハタケにトラホーム。
デキモン問屋に蓄膿症。
教師には殴られるし、親父には蹴飛ばされる。

それでも風邪をひいて熱を出そうもんなら、そんな親父も俺を抱きしめながら寝ていた。
おふくろは、りんごを擂ってくれたり、葛湯を作ってくれたり、みかんの缶詰・・・・・・
あの頃は風邪をひいて熱を出すのが楽しみだった。

あの頃は貧しかったけど、時代そのものがとても温かかった。

大人のみんなが怖かったけど、優しかった。

僕はそんな時代を忘れない・・・・・・

懐古する「少年時代」
  


Posted by 昭和24歳  at 22:19Comments(0)

2018年04月04日

駄菓子屋横丁パラダイス

駄菓子屋横丁パラダイス


 高砂町(下)は駄菓子屋が多かった。

 その赤提灯と、対面の「安藤自転車店」をおいて、「山盛、長井」と駄菓子屋が2店、軒を並べていた。並べたと云うよりは、長屋状態で、安藤自転車、山盛、長井、そして持田鮮魚店と棟続きだったように憶えている。

 そうだ、自転車屋の「安藤の浩ちゃん」。何処で自転車屋の修行をしたかは知らないが、僕等が物心付く頃には三〇代そこそこで既に独立していて「社長」。
 今で言うなら青年実業家で威勢がよかった。まあ、横丁の若社長の趣ではあったが、いち早く時代に先駆けてテレビなんかも何処よりも早く入っていて、僕らも浩ちゃんにお嫁さんが車では毎晩のようにテレビを観に寄せてもらっていた。

 安藤の浩ちゃん―――けっこう面倒見が良かった。
 まあ当時のこと、自転車屋と言えば最もハイカラな商売だったに違いない。その内には自転車と花のオートバイの全盛時代。黒金のスクーター、富士のラビット、ホンダのスーパーカブ、カワサキの四気筒混合燃料のピカピカのバイクがその店先に燦然と輝いていた。

 その安藤の浩ちゃん、晩年と言うか六〇そこそこで平成の始まりの頃に亡くなったが、自転車屋の方は時代の盛衰か、ホームセンターに圧され店は閉めていた。
 何でも市内の大型ホームセンターの自転車売り場に勤めているとか言っていたが、横丁の寄り合いなどでは昔の「青年実業家」の面影もなくどことなしに淋しそうにしていたのが今でも気になる。
まあそれも20年から昔のお話ですから、推して知るべしかな、さみしいけれど。

 そうそう、安藤の浩ちゃんは東地区の消防「第四分団」で、時には勇ましい「火消し」の井出達で僕ら子どもたちの憧れの的だった。

「おうっ、みんなもデッカクなったら消防団へえるんだぞっ」

 と、それが口癖の浩ちゃんだった。

 今でもその「安藤自転車店」の店先で、自転車のパンク修理、バイクのエンジン調整をする浩ちゃんの姿、そしてそれをしゃがんで興味深々に見入る僕らの姿が見えるような気がする。
 浩ちゃん有り難う―――合掌


 その安藤自転車店の隣が「山盛模型店」。

 模型店とは言ってもほとんどが「駄菓子」ばかりを商っていた。ただ天井には竹籤を組んで、紙を貼った、ゴム駆動の模型飛行機が所狭しと吊るされていた。

 山盛模型店の駄菓子屋は、小父さんも小母さんも僕等子供達の間では評判があまりよろしくなかった。と云うのも小父さんは模型作りの名人のようで本業は何であったか知らなかったが、後々に長男が「山盛一平」と云う名前で「看板屋」で結構、著名であったことからもその手の有能な職人さんだったのかも知れない。明治生まれのいかにも武骨な「職人風情」の趣をしていた。

 小母さんは、後妻さんで僕等と同世代の息子、5歳くらい年上の兄貴がいたが、とにかく商い屋にしては愛想が悪く、僕ら子どもにはとにかく意地が悪かった。もっともその頃の「ガキ」の僕ら、今にして思えば僕らガキの方が小五月蝿くて始末に終えたもんじゃあなかったのかも知れないが。
 しかし、その小母さん晩年は人が変わったように善いお婆ちゃんになり、数年前に葬送した。

 駄菓子屋「長井」は冬場は一卓だが、「お好み焼」なるものもやっていた。僕より2級上の「明ちゃん」と言う男の子がいた。
 駄菓子の種類は山盛よりはずっと豊富で、小母さんは愛想もよかった。
 やはり、その「長井」で僕等は「駄菓子」の真髄を覚えた。「ソースイカ、ボタンキョウ、サグリ…」と、何でもあった。

 僕が今でも忘れられないのが「ソースイカ」と「ボタンキョウ」。それは忘れられないと言うよりはもう二度と口にすることができない、そんなものへの思い入れからかも知れない。
 戦後の話だ、今のように食品衛生法も糸瓜もあったもんじゃあない。しかし当時、ほとんどの子ども、ガキ連中、なにを食おうがそう腹を壊してひっくり返ったと言った話は聞かなかった。

 もちろん今のように冷蔵庫があるわけではない。
 考えてみれば駄菓子であろうが、食品であろうができ立てのほやほやで「新鮮」そのもの。賞味期限だの消費期限だのも無い。
 思えば、贅沢だったのかも知れない。

 そんな駄菓子屋「長井」・・・・・

 本業、ご亭主は下駄職人だったようで壁、軒には桐下駄やら、朴歯やら、鼻緒の部品が所狭しと並び吊るされていたのを憶えている。本来は下駄屋であったようだ。

 当時は下駄の鼻緒どころか、「歯」まで差し替えて使っていた時代であった。中には、歯を差し込む溝も磨り減って下駄を草履のように、裏に古タイヤのキレッパシを貼り付けてはいていたのも見たことがある。

 もっとも物もない時代だったが、物もとことん大事に使い倒した時代でもあった。まっ、早い話が買い換える「お金」が無かったと言うのが本当のところかもしれなかったのだが。

 思えば「ないほうがある」のかも知れない―――――
 何かが。

駄菓子屋横丁パラダイス
  


Posted by 昭和24歳  at 17:15Comments(0)

2018年04月04日

保育園落ちた、死ね!!

保育園落ちた、死ね!!

昭和29年夏「高崎保育所」竹組
今から64年前です(笑)


認可保育園落ちた…これからどうすれば、専門家に聞く
 今年も市区町村から各家庭に認可保育施設の選考結果が届き始めました。保育園を探す「保活」で苦労し、4月の復職予定を目前に落選通知を受け取って、途方に暮れている人も多くいます。どちらかの親が仕事を諦めないためには、これからどういう方法があるのでしょうか。あやしい情報に惑わされないように、専門家に聞いてみました。

 高層マンションが立ち並ぶ武蔵小杉駅のほど近く。川崎市の中原区役所に1月29日、抱っこひもやベビーカーで子どもを連れた親たちが詰めかけた。

 川崎市は1月26日に1次募集分の落選通知を発送。週末を挟み、受け取った親たちが認可保育施設の窓口に駆けつけたのだ。区は整理券を配り、昼には70人を超える列ができた。午前9時前から並んだ女性(31)は「4時間待ってやっと自分の番が来た。10園以上を申し込んだが、すべて落選。自分と同じ立場の人がこんなにいると知って、ますます落ち込みます」と話した。

 認可保育施設の1次募集に落ち…

<引用:2018年2月3日08時00分 朝日新聞デジタル>
https://www.asahi.com/articles/ASL213RD5L21UTFL007.html

>森友小学校や加計大学つくるなら、保育園をたくさん創って・・・

地方の保育園・幼稚園はお寺のサイドビジネスです。
文科省、厚労省の利権。ほとんどが行政の補助金で成り立っている税金たかりビジネス。
本来なら、市立、区立でやればいいだけの話なんだけど、対象が0歳児~5歳児だからそんな面倒なこと行政はやらない。

まあ、お寺は戦後この間葬式があまりなかったから坊主が理事長で、カミさんが園長。
そういう仕組みで、園児集めたら一人イクラで補助金が出てそれで運営してきた。
ま、行政だってデタラメに補助金出すわけにはいかないから、そら、保育士の給料抑えます。
昔は、保母さんとかって大した資格もいらなかったから良家の子女の腰掛け仕事だったわけです。
それが今じゃあ、保育士、結婚しないから年功序列ならいいんだけど、法人、お寺だって決まった金額しか入ってこないわけで、給料アップできません。

つうことは、市立幼稚園のように保育士は「地方公務員」、これだったら年功序列で賃金アップしますから。
つまり、要すれば、社会福祉法人にしろ宗教法人にしろ、保育士は「地方公務員」にしてその保育園、幼稚園に配属させればいいだけです。
ま、なにも坊主ファミリーが補助金ピンハネする必要はないわけで、施設にしたって行政が借り上げればいい。
要すれば、いわば、小学校のようなもんなんです。

東京だってバンバン東京都、区が作っちゃえばいいんです。必要なんだから。
場所だってないわけじゃあないんだから、それを無認可とかわけのわかんないこと言って、子供作ったら自己責任で、一人5万円だ、6万円だじゃあ少子化は当たり前です。

で、地方保育園は「園児」の獲得合戦です(笑)。
ま、小学校だって児童生徒数激変なんですから当然なんだけどね。

全寮制の保育園に「園児疎開」

で、「保育園落ちた、死ね」って言うんなら、それこそ「学童疎開」っていうか3歳児以上は全寮制の保育園に「園児疎開」。
まあ、3歳くらいになったらそれくらいしてもらっても、そしたら東京都の保育園0歳児から2歳児までで、かなり空きができる。
だって、だいたい、0歳児、2歳児まで一人の園児に50万円前後が税金でっていう話なんだし。
例えば、日本一過疎の南牧村に村営保育園作ってそこに1000人くらいの園児を面倒みちゃう。

まあ、南牧村だけじゃあない少子高齢化過疎地域、そんなもん東京にだってあるだろうし、千葉、神奈川、埼玉にだってある。
群馬なら全域がそう、少子化で保育園の存続どころか、小学校の閉鎖も言われている。
高崎だって似たようなもんで、東小なんて6年まで単学級で、ひとクラス30人前後。つまり教室は10室くらい余ってます。

高崎だったら近い、東小なら高崎駅徒歩15分の優良物件だからそこへ全寮制の保育園を併設して「保育園落ちた」ママさんを救済しましょう。
全寮制でも、高崎なら新幹線通勤するサラリーマンいるわけだし、ママかパパが交代で休みの時に迎えに来ればいい。
そうだ、市行政がそうしたママ、パパさんのために宿泊施設を提供したっていい、新幹線定期を負担したっていい、そしたら高崎市の住民になるかも(笑)。
そしたらそのままその園児たち東小学校に入学して高崎市の住民になる、高崎市万々歳。

ま、その費用は安倍友じゃあなくたって国、政府から補助金が出るでしょう、加計学園に総額600億円、年間運営費だって数億円なんだから。

そしたら、東京のママ、パパさんも楽だろうしお金がかからない、「保育園落ない死ね」はない。

いっそのこと、高崎に移住しちゃおうかっていう話にも・・・・・

保育園落ちた、死ね!!
  


Posted by 昭和24歳  at 11:44Comments(0)

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