2018年04月02日

高砂町(上)は晴天なり

高砂町(上)は晴天なり


 大川(長野堰)と染物工場。

 ここ高砂町には僕らが子どもの頃、「大川」と呼んでいた、箕郷、榛名、そして高崎北部の農業灌漑用水を源流にする「長野堰」が町内を南北に分けるようにして流れていた。
 その長野堰は高崎市北部の並榎町辺りからその川沿いに何軒もの「染物工場」が林立していた。今では観ることもないが昭和四〇年頃まではその長野堰で染色上がりの布を川に流し、さらしながら大きな屋上の物干し台にそれを棚引かせるのが風物、風景だった。

 高砂町(上)には、戦前戦中は軍需工場だった小島機械、水島鉄工所があり、昭和の30年代までは忙しくしていた。今では7階建ての市営住宅が建ち、その左手、高崎でも最大規模の染物工場跡には高層マンションが2棟も並んで立っている。
 随分と様変わりしたものだと心なしか侘しい。もちろん日清製粉高崎工場も跡も形もない。

 その長野堰、大川沿いに、高崎随一の染物工場「川原染物店」があった。

 その、染物店は僕の同級生「川原君」の家が当時何代続いていたか詳しくは知らないが経営していた。
 僕は、小学校の頃その川原君ちの染物工場でよく遊ばせてもらったことを今でも良く憶えている。高崎一番の染物工場と言うだけあって、それは同じ町内であってもその「横丁」のそれではない。

 川原染物店は、あの時代に「勝手口」なる玄関があった。その当時、勝手口などと言う物がある家はそうはなかったのではないだろうか。その広さは盾には一〇〇メートル近くはあったのではないだろうか。そしてその川原君ちの工場には天を突くような高く、デッカイ煙突が聳え立っていた。
「お店」と言われた正面玄関はまさに名にしおう大店と言った趣で、上がり端の帳場にはその川原君のおばあさんが、高貴な、やはり大店の「女将さん」といった風でいつも「シャン」っと座っておられた。
 川上君のお母さんは織物では全国でも有数の桐生市の、やはり織物問屋、商家、そんな大店のお嬢さんで、高崎に嫁いで来たのだと川原君が言っていた。やはり大店の、良いとこのお嬢様らしく、とてもじゃあないが横丁のオバサン、僕のオフクロなどとは「月とスッポン」、なんとも言えない趣をなしていた。
 まあ、戦後のあの時代相当の大大尽だったに違いない。
 電話室

 昭和三〇年そこそこで、テレビはあるわ、僕の背丈ほどもあろうと言う「電蓄」、それよりもなによりも驚かされたのが、なんと、家の中に「電話ボックス」があるではないか。まだここら辺り、どこの家にも電話の「デ」の字もない頃の話なのだから珍しいの珍しくないのと言ったら半端ではなかった。
 ガラスの格子戸と、真鍮の重厚な取っ手のついた電話ボックスの扉には「電話室」と重々しく書かれていた。
 僕はあまりもの物珍しさにその電話ボックスから出たり入ったりして川原君ちの番頭さんに叱られたのを憶えている。

 もちろんその頃の僕の家なんかにはテレビなんて言う近代家庭電気製品などはまだなかった頃だったので、なにが楽しみったって、川原君ちで見せてもらう「ララミー牧場」が最高の楽しみだった。
 もちろん川原君はそのララミー牧場の「ジェス・ハ―パー」を真似て、本物そっくりのモデルガンを得意げに「クルクル」っと回しながら早撃ちのポーズをとって見せるのだった。

「渡辺―――ララミー牧場ごっこしようぜ」

 川原君は僕と遊ぶ時はいつもそれを楽しみにしていた。

「ララミー牧場ごっこ」とは、もちろん拳銃の早撃ちの真似もあるのだが、ジェスとスリムが殴り合いの喧嘩をするシーンの再現である。
 どっちが、ジェスで、どっちがスリムだったかは――――?
 たぶん交代々々だったとは思うがどっちにしても、いつもテレビではジェスが喧嘩に勝つ。そのことで時々僕と川原君とは、仲違をした。

そう言えば、川原君ちにはピアノもあった。

 そのピアノを弾く真似をした。と言うのはララミー牧場の「スリム一家」にいていつもピアノを弾いていた爺やが・・・・・
なんとその爺やがあの「ホーギー・カーマイケル」だった。
 名曲「スターダスト、我が心のジョージア」の作曲家だと言うことを後々僕の仕事の中で知った時はなんともいえない感動を覚えた。


https://www.youtube.com/watch?v=X2b-MyeaBbI

 川原君の本物そっくりのモデルガン「コルト45」とガンベルト。きっと、お父さんに買ってもらったんだろう。僕は羨ましくて、羨ましくて仕方がなかった思い出がある。
 
 その川原君・・・・・

 顔つきはお母さんそっくりで、頭髪こそ白いものが大分目立ってはいたが、その笑い顔は小学校六年の時に川原君のお母さんに撮ってもらった川原君との写真、野球のユニホーム姿で笑っている川原君そのものだった。

 時代の盛衰か、その染物工場は昭和が終る頃にはなくなっていた。もちろん、水島鉄工所も、小島機械も、もうそこにはない。あるのは高層マンションだけ。まるで僕の生きてきたことをイレースするかのようなそれ。

 それでも目を閉じて耳を澄ませば今にも聴こえきそうなあの頃の長野堰のせせらぎの音が淋しい。

高砂町(上)は晴天なり

  


Posted by 昭和24歳  at 23:01Comments(0)

2018年04月02日

僕が育った町は曇りのち晴れ

僕が育った町は曇りのち晴れ


“高砂町”序

高砂町は日清製粉と東小学校の裏門の入り口からを起点に始まる、“高砂町一番地”。
そのとまくちは、弓町がわに武田文具店、高砂町がわが山田畳店、対面かぎ状の交差点、九蔵町がわが中村パン店。そこは辻違いに弓町、九蔵町、そして高砂町が絡まるようにしてあった。
正式にはその横丁の表通りを、「東二条通り」というのだそうだが、僕は一度もそこをそう呼んだことはない。
その高砂町一番地から北へおおよそ、百メートルあるかないかの所が僕にとっての「横丁」だった。

高砂町は(上)と(下)に別れていて、はっきりしたことは知らないが僕の横丁辺りは(下)で、その高砂町を二分していた「五本辻」から向こうが(上)と言われていた。
僕の“横丁”はその高砂町一番地から一八番地辺りの「五本辻」までと、その東二条通りから日清製粉工場敷地手前の袋小路からなっていた。

その横丁の東には今は空き地、駐車場になっているが、そこには広大な日清製粉高崎工場があり、そのはるか向うは上越線、信越線、両毛線が走っていて・・・・・・・
その時代は蒸気機関車、SLやら最新式の電気機関車が轟音をたてて忙しくしていた。

日清製粉は一年中、昼夜を違わず製粉機械の止まることはなかった。
その製粉工場の大きさといったら、ビルにしたら一〇階以上はあったのではなかっただろうか、円筒形のサイロ。
巨大な粉挽き機械の「ゴーッゴーッゴー」という音が、その異様に大きな建物と重なるようにしていまでも目に浮かぶ。

日清製粉はご存知、館林財閥の「正田家」の会社。
子どもの頃に噂で耳にした話だが、なんでも今上皇后、ご幼少の折にはそこ、日清製粉高崎工場をお訪ねになったとかならなかったとか。
というわけかどうかは知らないが僕の家の小路に面してその当時「テニスコート」なる物がその日清製粉にはあった。
さすが正田家の日清製粉、その頃はこの辺の工場ではテニスどころか社員、従業員が日曜休日にスポーツなどという時代ではなかったのだからいずれにしてもそのハイカラさを窺い知ることが出来る。
その日清製粉の塀づたいに小路を北へ詰めた所にその日清製粉高崎工場の“社宅”があった。

財閥系大企業・・・・・・
今にして思えば、あの時代「工場勤め」とはいえその横丁界隈ではエリートの趣で、
その社宅に住む僕の同級生などは通っていたのは「高崎保育所」ではなく「聖光幼稚園」という私立のキリスト教系の洒落た奴だった。
典型的な「社宅族」、ニューファミリーで、当時、昭和30年代、、まだ世間では“ボーナス”などという贅沢ないただきモノはなかったように思うが、その時代に「クリスマスプレゼント」とか、同級生たちは騒いでいたように記憶している。

もちろん、電気洗濯機、電気冷蔵庫、テレビと・・・・・・
あの時代のこと、その日清製粉社宅の屋根屋根には“テレビアンテナ”が見る間に林立して、横丁の垂涎を誘っていた。

今はその面影さえない。
何もかもが変わってしまっている。

良かったのか悪かったのか、そんな思いがそこに立ったとき交錯する・・・・・・

僕が育った町は曇りのち晴れ

  


Posted by 昭和24歳  at 18:11Comments(0)

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