2018年02月13日

チャルメラなくして高崎の街蘇生せず

チャルメラなくして高崎の街復活せず


「たかさき」でラーメンを語るには、一時、田町通りに軒を連ねた、「夜鳴き」なくしては後も先もない。

「来来軒」。

あれは、昭和の三五、六年頃・・・・・
だっただろうか?

僕の家の傍に住んでいた・・・いや、住んでいたというか、それは「居た」と云う趣であった。
あの時代、それぞれに訳ありのご時世だったし、ご多分に漏れずその来来軒ファミリーもまさにそれそのものだった・・・・・
縦に二畳一間、正真正銘の「うなぎの寝床」の間借。

そんなうなぎの寝床に親子三人で暮らすなんて言うのも別になんとも思わなかった時代だったし・・・・・・
周り中が似たか寄ったかの暮し向きの時代だった。

そのうなぎの寝床の店子の「来来軒」マスターファミリー。
ま、マスターと言ったかどうかは知らないが、そのマスター、なんでも出は良かったようで、高崎の「大店」の「ボン」だったと言う噂はその近所には知れ渡っていた。
来来軒、既に彼岸に旅立ったと風の便りに聞くが・・・その昔、高崎商業高等学校では野球部で腕を鳴らし「甲子園」にも行ったと言う、兵だったらしい。

僕よりも四歳年下の「息子」がその来来軒には居た。
マスターには訳在りの小母さんが時々入替わりに寄せていたが、もちろん「クレイマー・クレイマー」を地で行くような趣であった。
その息子、学校から帰ると健気にも来来軒、親父の「屋台」の支度を手伝い七輪に炭を熾すのも慣れた手つき・・・けして「幸福」とは言ないが、これが滅法明るい横丁の少年だった。
まあ、何処も彼処も似たようなもの、生活環境だったのだから暗くなりようがなかったのだろう。

来来軒のマスターと来た日には、兎に角「酒癖」が悪い。それは「悪い」と言うよりも、多分、酒に「弱い」のではないだろうか・・・〈弱いくせに酒好きで、飲むと人が変わるタイプ〉の人・・・時に良く見かける。

マスター、朝方には、その屋台を枕に酔い潰れている。

「父ちゃん、父ちゃん、風邪ひくよっ」

と、孝行息子。何処までも健気に酔いつぶれた親父を介抱する。

酔っ払った挙句喧嘩でもしたのだろうか、唸りながらブツブツ言ってる来来軒。

「しょうがねえなぁ・・・父ちゃん」

いたわるように呟く息子

「父ちゃん・・・俺、学校、行って来るからね」

と、学校に行く時間になるとそんな孝行息子の優しい声が路地に流れる。

日清製粉の板塀。そこの路地の奥まった所に「来来軒」の屋台はいつも置かれていた。

ある日僕はそんな孝行息子にしばらくぶりに出会った。

「元気ーーー!!」

と、僕に呼びかける無茶苦茶明るい昔の面影を残す来来軒の息子。
その孝行息子も、今度55になると言う。
ラーメンは延びてはいけないが、「幸せ」は延びれば延びるほどよいかも知れない。

その時僕の耳元にあの来来軒の“チャルメラ”がふとよぎった。

♪ピラリーラリ、ピラリラリーラリ♪

来来軒の息子、あの時のままの明るさと満面の笑顔・・・・僕は、その孝行息子にとっておきの元気を貰ったような気がして嬉しくなった。 

ふと目を閉じると、日清製粉の板塀と奥まった突付の日清製粉の社宅を背景の来来軒の屋台。
そんな高砂町、横丁の風情に孝行息子の父ちゃ~~~ん」が聞こえた。 

「本郷軒」

江木の方からは「本郷軒」。ここは2代目だと云う。僕は、「たつみ」が良いと言う方も居られるが、なんと云っても「本郷軒」が好みだ。ラーメンの「上がり」が早い。麺はいつも固めで、スープ味はさっぱり目。本当の「支那そば」って云う感じがする。

夕方5時過ぎ頃には「チャルメラ」を鳴らしながら町内を引いていく。先代は歩いて引いたが、2代目は「ホンダスーパーカブ」を、そろりそろりと横丁を往来した。

「ラーメン屋さ~ん」

あちこちからドンブリを手に屋台を囲む。不思議なもので一人が声をかけだすとつられるように四、五人がいつも決まって集まってくる。
当時は未だ「出前」ものを取るとかと言ったような贅沢は無かったし、子供が三、四人もいた日には「ラーメン代」だけでも大変な額になってしまう。

そんな時に決まって声をかけるのはこれから夜のお給仕に出かけるお姉さんかお兄さん。
どちらかと云えば僕等はそれを羨ましそうに眺めていた口であった・・・・・
もちろんそんなお姉さんお兄さんの暮らし向きは貸間住まい。アパートなどと言う代物ではなかったし「バス、トイレ」なんて言う時代ではないので、銭湯帰りだろうか・・・

「兄さん男前ねっ、チャーシュウおまけしてね」

「あいよ」

と、互い、軽口を交わし、柔肌だったかどうかは知らないが得も言えぬ芳香を振りまきながらそのドンブリを手に順番を待っていた。

「本郷軒」は二代目とか言っていた。

そうだ・・・この親爺も「酒好き」の意気地なし(失礼、そう見えた)・・・そして多分「弱い」のだろう。

その本郷軒、朝方は五時頃まで商っている。出掛けにはその途中、横丁の酒屋でコップ酒をすでに軽く一杯引っかけてくる「本郷軒」。車の通りの引けた頃合を見計らって大通りに屋台を張る。夜も更けて九時、十時が食べるなら丁度の時間かもしれない。

「午前様」を迎える頃ともなるとあとはいけない。あとは「へべれけ」で、目を据わらせながら「麺」を上げている。そうなると、折角の「本郷軒」のシコシコ麺もさっぱりスープあったもんじゃあない。

「親爺っ、このラーメン伸びてるぞ」

なんて客が文句のひとつも言おうものならさあ大変。

「なにを…じゃっ、ラーメンもうオシメエだっ。やならよしゃあがれ、ゼニはいらねぇ」

と、言ってさっさと火を落として提灯を消しちゃう本郷軒。

兎に角酒が入るとコロッと変わっちまうのだから始末が悪い。普段はどちらかと云うと物静かなお兄さんなの本郷軒なのだが。このところ、話も聞くことはないが、どうしているだろう。

チャルメラなくして高崎の街復活せず

チャルメラなくして高崎の街復活せず  


Posted by 昭和24歳  at 09:52Comments(0)

2018年02月12日

高崎から安倍政権を見る

高崎から安倍政権を見る

嘘だということがバレたけど・・・
適材適所。


安倍晋三首相、佐川国税庁長官の更迭を拒否
 安倍晋三首相は24日の衆院本会議で、学校法人「森友学園」問題で財務省の担当局長として売却は適正だったと答弁してきた佐川宣寿氏を国税庁長官に昇格させた人事について「適材適所の考えに基づき行った」と改めて述べ、野党の更迭要求を拒否した。

 森友問題に関する疑念に関しては「今後もしっかり説明しないといけない」と強調した。

 立憲民主党の枝野幸男代表が、佐川氏の答弁を「虚偽だったのは明白だ」として更迭を求めた。麻生太郎財務相も佐川氏について「引き続き職責を果たしてもらいたい」と述べた。

<引用:産経ニュース 2018年1月24日>
http://www.sankei.com/politics/news/180124/plt1801240032-n1.html

まあ、政治家たるものブタ箱で臭い飯食ってこそ一人前です。

世襲でない立身出世の代議士は下々であろうが官僚であろうが時に臭い飯食ってます。

田中角栄先生なんて2度も臭い飯食った(笑)。

我が郷土の誉れ福田赳夫先生だって、昭電疑獄ってぇのがあって、大蔵省主計局長だった福田先生は収賄罪容疑で逮捕された。
結果として無罪にはなったものの、これを機に大蔵省を退官し、政治家になった。

で、福田先生の親分の佐藤栄作先生も「造船疑獄」で逮捕寸前時の法務大臣・犬養健の指揮権発動で逮捕は逃れ在宅起訴。

ま、諸説あるが岸信介先生(安倍首相祖父、佐藤栄作元首相兄)はA級戦犯容疑で3年間巣鴨拘置所。

そんなわけで、戦後の名宰相は、ブタ箱で臭い飯食わないと活躍できない(笑)。

それにしても、我が、郷土の誉れ中曽根康弘先生は、よく塀の上を歩いているけど内側には落ないと言われているが・・・・・

子分の藤波孝生先生が逮捕、で、山口敏夫先生もイタズラが過ぎて逮捕、中尾栄一先生も逮捕されてるし。

よっぽど、綱渡りが上手だったのかもしれない、我が郷土の誉れ。

そんなわけで、高崎から見た安倍政権なんだけど、閣僚も世襲と太鼓持ちばっか。

おまけに、東大での優秀な高級官僚までが忖度に長けていて、もっとも東大出って言っても教科書の暗記力はよくたって・・・・・

出来損ないのAIみたいなもんで行間を埋めることはできません。

実際ありえないことを平然と、抜け抜けという「一年以内に自動的に消える仕組みに」そんな公文書はないです。

で、高崎からって、そういうことじゃあないんだけど、絢爛豪華なハコモノ行政で大丈夫なのかねぇ。

ま、2030年までは少子高齢化による人口減少つづくんだろうけど・・・・・

高崎市に生息する絶滅危惧種「団塊市民」を中心におよそ11万人じは確実に消滅します。

で、来年は統一地方選挙なんだけど、若手って言ってももう50近いですから若くないわけです。

高崎アリーナは作られちゃったし、芸術センターも、浜川の運動場整備も、ま、コンヴェンションは県だけど、でも難題だよね、高崎市。

ま、加計学園じゃあないけど、大学誘致ったってそもそも学生の数が足りない・・・・・

どうするんだろか、つまり地方創世だとか人づくり革命だとか、働き方がどうだとか、そんなこと言ってたら地方は終わります。

ま、一つだけ言えることは少子高齢化は世界一速い日本だけど、そこから抜け出すのも世界一早い。

つまり、高崎市の総人口が20万人台になっても、生産性、経済規模が現在の状態に維持できいる政策を考えることです。

そもそも街のど真ん中、商業地区に高級マンション建てて、音楽がうるさいって、まるで「平成狸合戦ぽんぽこ』です。

そうです、猿が出る、イノシシが出る、鹿が出るったって、猪鹿猿が住んでるところを侵略したんだから人間が(笑)。

高崎から安倍政権を見る
  


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2018年02月11日

【高崎紀行】柳川町滅ノミ中熊とその界隈

【高崎紀行】柳川町滅ノミ中熊とその界隈

↑ココも「絶ノミ」なんだが・・・
常連さん、僕も含めて高齢化です。


そう――――

そんな店はなにも小奇麗である必要はない。

できれば、灯りは「松下式」二股ソケットの紐付き・・・・・

2段切替スイッチあたりが隙間風に触られていると嬉しい。

それに少しひしゃげたアルマイトの灰皿、

そして、漆の箸も使い古しの年季の入った塗りのやつ。

更に欲を言えば零れ張りのある格子の障子窓。

そこには雨露を忍んだ幾重もの染みでもあれば肴には困らない。

そして、開け閉めに一工夫させられる滑車の引戸・・・・・・・

もちろん取っ手の所は庶民の血と汗と涙が染み付いて黒光りしているそれ。

そこには、時期でも良ければ開け放たれた障子、格子の隙間から知った顔がちらほら。

それでもどう云うわけかそれなりに気を遣いながら、

開けかけた暖簾を避けて具合のいい席を選る。

「ここが空いてるよ」

と、常連だろう何気に気安いのはいつものこと。

そう云った店は団体で来る客はそうはいない・・・・・

大概が一人か二人と決まっている。

それでも3人寄らずとも、そこそこに仕上がってくると、

そこは酒場、つまらない揉め事を肴に客同士が結構賑やかになる。

当然、贅沢なブランデーやウイスキーなどは無い・・・・・

精々が「角」かトリスのポケットではないだろうか。

そんな店の中、口角に泡を飛ばした五月蝿さが日々の溜飲を下げている。

蝿取り紙に吸い付かれた蝿が裸電球にに透けてジタバタしている。

贅沢だろうか、そうかもしれない。

否、たしかにそれは贅沢というものである。

本当に贅沢であった。

昭和を離れて二〇と余年、もうそこにはその店はない

「中熊」。

僕らは、「チュークマ」と呼んでいた・・・・・・

高崎の夜の政官財界奥座敷として名を馳せていた「宇喜代」の路地を挟んで、

その辻向かいに「中熊」はあった。

「宇喜代」がお偉方の奥座敷なら、「中熊」は労働者の隠れ家。

それにしてもあの時代は棲み分けの良い時代ではあった。

「中熊」は亭主は厨房で肴を、おかみさんはカウンターで鍋守。

何と言っても、一番のウリ「モツ煮込」。

それは相当に年季の入った仕込であることはその味が証明している。

器は瀬戸物、箸はけして割箸などではない。ご案内のように上物ではないにしろ、

その漆塗り箸の持て成しのぶっちょうさが嬉しい。

それに、季節物の「漬物」と来た日には、「中熊」これが絶品である!!

当然、夏場には茄子と胡瓜、カブ、の糠漬けだ。そして冬場は白菜漬けが・・・・・・

申し訳ないが、これにその「煮込み」があれば、「宇喜代」とて敵うまい。

とは言うものの吾輩、「宇喜代」とやらに上がれるほどの身分でない、

よってそれは只の僻みじゃあないかと言われてしまえばそれまでだが。

何しろ、「宇喜代」とやらでいったいどんなものを飲ませて食わせてくれるのかは、

想像もしたことが無いし、できないのだから(笑)。

そこでの酒の銘柄は憶えていない。

と云ううよりそこは「中熊」で、「チュークマ」と呼ぶくらいだから、

呑むのは焼酎、ご存知「ウメ割」である。これがまた矢鱈と逸品である。

分厚い傷だらけのカットグラス、っていうか、そんな気取った物ではないそれは「コップ」。

皿受けに零れても尚、並々と注いでくれる・・・・・・

中学で習った・・・?

小学校だったかのそれ、「表面張力」に嬉々としながら、

まず、両手を膝の上に置き徐を装いグラスに口づけ、「チューッ」っとイクッ、それが作法だ。

まさに、「チュークマ」。

途中、溢れ零れた皿受けの「ウメ割」を・・・・・

まるで子どもの頃に駄菓子屋で「さぐり」に中った時のような気分でコップに戻す。

<少し増えている・・・>
 
裸電球に透かして量を確かめ「ニンマリ」。

「チュ―クマ」のもうひとつの売りは「濁り酒」だろう。

誰とはなしに酒飲みが度胸試しのつもりでそれを覚える。

変な話、胃カメラの時の「バリュウム」のような感じが最初の憶えである。

慣れて来ると確かに美味いに違いは無いが兎に角、足腰に来るのが騒ぎである。

僕は2杯目は遠慮する事にしていた。

そんな「チュークマ」のそれは、昭和45年。

僕が当時隆盛の「キャバレー」でドラムを叩いていた・・・・・

そんな時代の話である。

実は先日、飯塚の「ヤオコー」で、その「チュークマ」の息子さんとばったり。

僕より一学年下で高崎二中で、たしか柔道部。お勤めは役所だったと記憶するが確証はない。

昔の面影は十分たたえておられた。

「宇喜代」はビューホテルとなり、「チュークマ」は飲み屋のテナントビルに。

行き交う人も車も少ない、隔世の感ありの柳通り。そういえばラーメンの「ささき」は本物の「支那そば」で、「滅メシ」。

二代目、それとも三代目?大将、高崎二中で同級生、柔道部でしたね、当時はいかにもという趣の佐々木君だったけど・・・・・

店を閉める頃にはあれほどの巨漢だったのにツイッギーでした。

ラーメン屋の「珍満」も「一ノ倉」(?)も閉まっちゃって、唯一、その路地を入ったところに「華」というカラオケスナックは「絶ノミ」。

昔あったところから移転して狭い店になっちゃったけど、なんてったって「ぬか漬け「ナス・胡瓜」が絶品。

そして、昔ながらといえば「富士久」も絶メシ」どころか「滅メシ」(^_^;)。

そうそう、らっちゃん、大蓮も「滅メシ」んなっちゃたけど富士久」のギョーザ、タンメン、焼きそばは絶品だった。

ま、高崎の中華三大焼きそばといえば、「らっちゃん・大蓮・富士久」でした。

しかしねぇ、すっかり変わってしまった「柳川町」の夜。

そういえば「柳川町ブルース」「柳川町艶歌」というご当地ソングがあった。

たしか、流しの「ゆきちゃん」だったか「じゅんちゃん」だったか?

残念ながら、ご両人とも鬼籍に。

流しといえば、なんたって外せないのが「たまちゃん」。なにせ元祖弾き語り。

ギターに隠れちゃいそうな小さな体でした、たまちゃん。

最後に見たのは成田町界隈で、柳川町から柳川町らしさが消えそうな頃でした、昭和の終わり。

その「たまちゃん」、今はどちらかの施設で余生をとかを風の便りに、齢、オクターブエフ十くらいかと。。

【高崎紀行】柳川町滅ノミ中熊とその界隈

  


Posted by 昭和24歳  at 09:33Comments(0)

2018年02月10日

吉野家「SUPER! FRIDAY」脱脂粉乳(笑)

吉野家「SUPER! FRIDAY」脱脂粉乳(笑)


“牛丼無料渋滞”9日も一部で発生か…ネットには「クラクション鳴りまくってる」などの声も
 牛丼チェーン店の吉野家は9日、携帯電話大手のソフトバンクユーザーを対象とした「SUPER! FRIDAY」で、2月中の金曜日(2日、9日、16日、23日、前10時~後10時)に牛丼並盛り1杯(25歳以下の学生は2杯)を提供。今週もネット上では渋滞発生を報告する投稿が相次いでいる。
<抜粋引用2/9(金) 20:48配信 スポーツ報知>
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180209-00000234-sph-soci

タダほど不味いものはない(笑)。

娘が学生なんで2杯もらってきた。

「パパ、牛丼食べる、吉野家」

「吉野家、いらねぇなぁ」

「もったいないから具だけでも食べれば」

って言う娘のせっかくの進言なんで「具」だけ食べることにして蓋を開けた・・・・・

「なんだ、具なんかねぇじゃねえか」(笑)。

「いいじゃない、タダなんだから」

って言うわけで「具」を一口食ったけど、流石、吉野家「チン」だから美味いも不味いもない。

全部が全部の吉野家がそういうことじゃあないんだろうけど、飯塚の新幹線下は「チン」。

ま、松屋にしたって、すき家にしたって「チン」じゃあないと思うけど?

そんなわけで、その「タダ」の吉野家、小学校の頃無理やり飲まされた「ミルク」(脱脂粉乳)を思い出した。

それなんだけど戦後の子どもの栄養事情を考えて、文部省だか厚生省だか知らないけど・・・・・

アメリカ様からアメリカでは家畜の餌だという脱脂粉乳を日本の子どもに飲ませるため輸入したんだとか。

で、あの時代、給食って言ったら「コッペパン」でしたね。

コッペパンはやはりアメリカの農業政策の一環として小麦を日本へ輸出したんだとか。

それを日清製粉、日本製粉がせっせと製粉して、パンを大量生産した結果が給食は「パン」(笑)。

ま、「コメを食うとバカになる」なんていう流言飛語も当時は飛び交ってましたね・・・・・

で、吉野家のメシって国産米ですか?どうでもいいんだけどそこん所はっきりして欲しいよね。

ま、いわゆる団塊世代は給食ではコッペパン、脱脂粉乳、鯨の竜田揚げ、カレーがご馳走でしたね。

そこから考えると、今の吉野家「SUPER! FRIDAY」をとやかく言うつもりはないけど・・・・・

なんか、アメリカの「フードクーポン」みたいで、いよいよ日本も格差、底辺層広がってきたんでしょうかねぇ。

ま、「フードバンク」とか「子ども食堂」とか深刻なんだけど、一方、一晩で200万円も寿司食ったりステーキ食ったりする大臣がいる。

それって、やっぱりおかしいと思うし、ま、去りゆく戦後世代、なんとか先人の遺志を継いで恩返しできないものかと・・・・・

あっ、俺もソフトバンクだった、16日には行ってこなくちゃ、吉野家「SUPER! FRIDAY」(笑)。

吉野家「SUPER! FRIDAY」脱脂粉乳(笑)
  


Posted by 昭和24歳  at 10:20Comments(1)

2018年02月09日

Gメッセ群馬で「柳川町繁盛記」かもね(笑)

Gメッセ群馬で「柳川町繁盛記」かもね(笑)

「お江戸見たけりゃ、高崎田町」と、その繁盛ぶりが歌われた中山道の要衝の地―高崎市に誕生した『柳川町花街物語』。北関東の「吉原」と囃され、華やかに、賑やかに咲き誇った色街の人々の生活と、時代の流れの変遷史。

生かすも殺すも・・・
オール与党のセンセ次第です。
胡麻の蝿以外は(笑)


世の中には裏と表しかないんで・・・・・

なんか、レトロ・アヴェニューとか言っちゃって矢鱈、風俗出店しちゃいそう(笑)。

ま、そんなもんです。街外れなんだし中銀レトロ、その先何にもないし。

そうです、昔はバーやクラブがひしめき合っていて休日は正月元旦くらいしかなかったね。

柳川町で語り、バンドマンやってた頃はラートさがすのが大変だった。

最盛期はクラブ2軒掛け持ちで、それがはねると深夜サパークラブへ午前〇時から出勤深夜3時まで。

すごいのなんのって、そのサパー、売上が毎日30万円。昭和54年頃です。

で、柳川町なんだけど、チョイとしたオネエサン2、3人いれば売上ウン十万円ですから一日でバンドのギャラ稼いじゃう・・・・・

ま、客単、チョイうとした店なら1万円。クラブ銀座でも仕事したけど客単2万円はくだらなかったろうね。

もちろん、不動産屋とか建築屋の社長さんがほとんどで、ガラ悪かったけど、カネ払いはよかった。

鬼石の石屋なんか腹巻に万札詰めて長靴できてたもの(笑)。

もちろんカラオケなんてない時代だから、お客は歌いません、たまにバンドをバックに歌うオヤジさんとかいたけど軍歌でした。

今でもありますね、オイラが仕事した店のあと、そのままです(笑)。

で、Gメッセです。とにかく皮算用は年間100万人、アリーナ、芸術入れると群馬県民より大勢の人が高崎へとなびく。

そしたら、柳川シャトルバス、じゃあ貧乏臭いからリンカーン「リムジン」でGメッセから送迎。

できたら観光馬車なんていいんじゃあないの?

シカゴのコンヴェンションも、アトランタのコンヴェンションも街中、馬車が走ってました。

で、馬車、4人で乗って街中一周20ドルだったか。30年前の話だけど、コレ↓、シカゴの観光馬車。



まあ、「ぐるりん」じゃあ洒落になりません。運転手ときたら愛想悪いし。

皮算用だと、タクシーも足りないですね。もう乗用車はやめてリムジンとまで行かなくても大型ワゴン車でゆったりと。

しかも、オンデマンドで、街中どこでも乗り降り自由にするとか。

そしたら、柳川町も大繁盛で前橋、太田から出店の嵐でしょうね、困ったなぁ、どうしよう・・・・・

Gメッセ群馬で「柳川町繁盛記」かもね(笑)
  


Posted by 昭和24歳  at 18:15Comments(0)

2018年02月09日

群馬コンベンションセンターの愛称は「Gメッセ群馬」?

群馬コンベンションセンターの
愛称は「Gメッセ群馬」?


2020年春の施設完成の暁には・・・


愛称は「Gメッセ群馬」
群馬県が高崎競馬場跡地で建設計画を進めているコンベンション施設の起工式が11日に現地で行われた。

大澤正明知事は起工式で「本県の玄関口であるJR高崎駅の近くに奇跡的に残された大規模空間を50年先、100年先の群馬のために生かしたいという強い思いから、人もの情報の集積拠点として、群馬コンベンションセンターの整備を決断した。2020年春の施設完成の暁には交流人口の増加による新たな経済需要の喚起、企業のビジネスチャンスの拡大、新産業の創出、若者や女性が活躍できる魅力ある雇用の創出につなげ、本県の発展を実現したい」とあいさつした。

<抜粋引用:高崎新聞(2018年01月14日)>
http://www.takasakiweb.jp/news_cat/6755/

さ~て困ったぞ~

あと2年しかないけど、どうすんだろ宿泊施設。

ま、どうせ決まってるんだろうけど、それにしたって「今は言えない」って大澤知事。

「今でしょ!!」大澤知事(笑)。


で、年間100万人からの来場者を予定してるらしいから、月計算だと8万人強が数日間滞在するわけです。
それに既に着工している芸術センターと、開業している高崎アリーナ、そしたら年間・・・・・
100万、いや、200万人が、っていうかそれくらいの来場者がないとペイできないと思うんだが。

そしたら少なくとも月間10万人くらいの来場者、宿泊者が、計算通りなら皮算用できるわけです。

ま、現状でも高崎のビジネスホテルはめいっぱいらしいし、いわゆる観光ホテルはビューしかないわけだし・・・・・
ビューだってそんな規模はないし、しかしカネ使って皮算用外れたらそれはそれで泣きっ面にハチだし(笑)。
ま、県がケツ持ってくれるんなら話は別だろうけど、ま、難しいところですね。

ここはいよいよドンレミーの出番でしょうか、微妙だけどね。

まあ、「Gメッセ群馬」の東側はだいぶ土地空いてるし、玉村スマートインターチェンジ辺りまでならOKかも。
しかし時々通るけどホテル建設の様子は見えないし、どうなんだろ?
大澤知事としては前橋、地元の桐生使って欲しいんだけど、いどる距離がありすぎ(^_^;)

で、アレです。メッセ、日本全国はおろか、ま、メッセですから基本、世界中からの来客を予想してるんだろうけど。
新幹線、高速でおよそ1時間の距離だし。で、東京と違って宿泊滞在にも割安感が欲しいところだろうけど・・・・・
問題はクォリティっていうか、アメニティっていうかレベル的にハイソな紳士淑女も高崎に来るわけですね。
そこで、食事にしても「ダサッ」じゃあリピートないですね。
そこで和風でシャレオツな料亭って言ったら今や「暢神荘」くらいでしょうか、独立系は、メトロ、ビューはともかく。
ま、高崎名物パスタのシャンゴだけど、イタリアのうどん屋ですし、ステーキだってハイソな舌をうならせるモノ出せるかなぁ?

そんなわけで、最も重要なのが「紳士のディズニーランド」です(笑)。
綺麗になりましたねぇ、高崎レトロア・ヴェニュー、ちっともレトロじゃあないところが素敵です。
当然、昭和の北関東最大の歓楽街柳川町は伝統が違いますからそら極上のおネエさんのおもてなしが期待できるかも。
ま、新潟の朱鷺メッセだって、吉原なみとまではいかないけど紳士のニーズにお答えしているようですから。
まあ、それもこれも行政のお勤めですから、硬い事を言っていてはメッセ、成功しません。

あとは「世界おもちゃ見本市」とか、「アニメ」とか「コスプレ」とかあったらそれに見合うアフターフォローも考えないと。
アキバのメイド喫茶とか、子どもたちファミリー層には群馬サファリもいいけど観音山丘陵にハウステンボス創るとか。
とにかく、アリーナといい、芸術センターといい、メッセといい、集客命なんだからチマチマとお茶濁しちゃあいけませんね。

ま、いずれにしても順調に行けば高崎市にとっては経済効果はバッチリだし、雇用も増大します・・・・・

そんなわけで、行政の手腕の見せどころです。
さて、大沢ちゃん、来年の知事選にも立候補するんでしょうか、4選目だけど・・・・・
ところで高崎市長もです、ここまで風呂敷広げたからには綺麗にたたんでからって言うともう一期?

群馬コンベンションセンターの
愛称は「Gメッセ群馬」?



  


Posted by 昭和24歳  at 11:44Comments(0)

2018年02月08日

歩きスマホの二宮金次郎(笑)

歩きスマホの二宮金次郎(笑)

政府を疑うことを知った戦後世代。
政府を疑うことを知らなくなった平成世代。


気になって日本の「無条件降伏」・・・・・
ポツダム宣言受諾の歴史を齧った。

「国体護持」をたった一つの条件の「条件降伏」と読んで取れたがそれでいいのだろうか。

「国体の護持」。

その「国体」とは、昭和20年8月15日以前のそれの全てではないか。

大日本帝国時代の支配者のいう「国体」。
欧米列強に互し、富国強兵政策、そして万世一系天皇を中心とした神国ニッポンの「国体」。

そして丸裸に近い降伏、敗戦でなおもこの国の支配者層が勝者に求め、すがった「国体護持」とは・・・・・・

「それは一体なんだったのか」

無差別爆撃、原爆に焼殺された国民大衆はその「国体」とは無縁だったのか。
そして未だ、そこにいう「国体」と「国民」は無縁なのか。

そして平成、21世紀の今日に「国体の護持に」に奉げた英霊の御霊の鎮魂と平和の誓いに靖国を詣でるメルヘン。

しかるに、戦争終結に際し国体の護持を・・・・・

「日本国政府の形態は、日本国国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす」

という曖昧な連合国回答を了として、ポツダム宣言受諾を決定した。

まさにメルヘン、メルヘンでなければウソップ寓話だ。

ものの見事に成就した新制小学校、新制中学校と「教育基本法」。
そしてその対象が僕ら団塊世代だった。
校庭には撤去された「捧安殿」の変わりに決まって歩きスマホならぬ歩き読書する「二之宮尊徳像」。


確かに日本からは戦争は遠のいたが、
朝鮮戦争、文化大革命、中東戦争、ベトナム戦争、カンボジア等の内乱・・・・・

世界史はめまぐるしく騒乱を極めているのにこの国だけが、このニッポンだけが・・・・・・
可笑しい、これが本当の事実なら、実に可笑しい、変だ。

60年、70年安保世代も家庭に入りそこそこに食えはじめると、昨日のことはまるで嘘のように、
所得倍増、岩戸景気、高度成長経済、バブルと・・・・・・
およそ、その無条件降伏の敗戦国とは全く不釣合いの思考回路を享楽しているかのような様。

その「エセ革命世代」、革命ごっこに憑かれた中産階級の子女が今や、還暦、古希。
笑わせる・・・・・
実に笑わせてくれる。

はっきりいえば、今、あの大東亜戦争の戦後処理が終わったのではないか。
史実を忘却した先進各国・・・・・・・
今日、世界をいう政治家は第二次世界大戦の経験者は皆無。
米国大統領にしたところで、戦後っ子・・・・・・

今、世界第一の経済大国(実質)として、はっきりと世界に向けて「戦後処理」をすべきだろう。
米国と戦争をしたこと、そして敗戦、無条件降伏をしたことを知らない子どもたち。
それどころか、それを教える教師が既にその「戦争を知らない子どもたちJr」。

惰眠を貪り逝くも良しか・・・・・・
今朝の新聞の訃報欄にも、同級生の名前があった。

歩きスマホの二宮金次郎(笑)
  


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2018年02月07日

「八間道路の夜店」を、中銀レトロ・アヴェニューで

「八間道路の夜店」を、
中銀レトロ・アヴェニューで


本通り商店街約1kmに渡り露店が立ち並び、夏の尾道を盛り上げます。
金魚すくいをしたり、わた菓子やりんご飴を食べながらブラブラしたり。
子どものころに戻ってみませんか?

尾道市、総人口135,545人。高崎市はおよそその3倍の人口規模ですから・・・・・
レトロアヴェニューって言うんなら中銀、やってみたら。
「高崎の夏を盛り上げます」って。

八間道路の「夜店」

その昔、渋川までの「ちんちん電車」が走っていた田町通から、弓町の四つ角までの道幅「八間」。
その道をはさんで大正昭和と栄えたと聞く、「大類里街道」をそう呼んでいるようだ。いつの頃であったかはそれは定かではない。
僕が物心ついた頃にはその「八間道路」、夏の風物詩として「夜店」が子ども心を躍らせた。
もちろん、テレビなんぞはなく、映画館でさえ東小学校の校庭で夜間に上映されたそんな時代の話だ。

「夜店」、それは「法輪寺」の門前を中心に、露天が縁日の賑わいを創っていた。

その時代、それぞれの家にまだ「風呂」などと言うものはそうはなかった時代のことで、あの界隈だけでも「銭湯」が、旭町の「東湯」、屋号は忘れてしまったが、山田町と椿町の「椿湯」。
それに「八間道路」北通町にも大きな銭湯があった。戦後、間もない昭和30年の始まりの頃その「銭湯」でさえ贅沢だったのかも知れない。
もっぱら僕らは、タライ行水を浴びて、短尺帯の浴衣を着せてもらい母に手を引かれ行ったんpが「夜店」。ノスタルジックな響きの言葉だ。
定番の金魚掬い、ヨーヨー、綿アメ、それに多分5円くらいだったか木箱の中で「飛行機」の回るクジ。焼きそば、お新粉細工、アメ細工・・・
ハリガネ鉄砲を器用に作る小父さん、木の鉄砲・・・カーバイトの灯りの下で焼く「焼き饅頭」。極めつけは、法輪寺の境内で開かれる「のど自慢」と、どう言う訳か「ボクシング大会」があったりして。

そうそう、法輪寺のボクシング大会と言えば法輪寺門前横にあった「太陽堂」という菓子屋のオヤジさんが仕切っていたようだった「。
というのも、そこには大河原くん」という転校生の同級生がいて、そんな話を聞いたことがあった。

兎に角、その「八間道路」弓町の交差点から先は、東、北と戦前から工業地帯。
開かずの踏み切りには、まるで問答無用のように「SL」が怒るようにしてけたたましく往来していた。
その辺り、満州帰りやら、復員のニイサン、小父さんが朝に夜に口角泡を飛ばしていた時代であった・・・・・

その時代、労働者の足と言えば、もちろん「自転車」・・・それさえも贅沢な時代だったかもしれない。
サラリーマンの月給が1万円台の頃の話だから差し詰め一ヶ月分の月給を叩いて手にしたに違いない当時のサラリーマン。
僕も自転車を覚えたのは親父の通勤用、「自家用自転車」の「三角乗り」からだった。

まあ、その時代はデパートもないし、もちろんスーパーだってない。朝餉夕餉の買い出しはもっぱら九蔵町か、その八間道路だった。
子どもだった僕らには駄菓子屋華やかりし頃で、ベーごま、ビー球、面子と遊びに事欠くことはなかった。
気づいた時には、そんな「夜店」の風物も消えてしまっていた・・・・・
駄菓子といえば、もう一度どうしても食いたいのが「ボタンキョウ」。薄汚れたガラス瓶の中にプカプカ浮いた奴。
其の「ボタンキョウ」だが最後に食ったのが昭和50年の夏、ようやく探し求めてたどり着いたのが芝塚の駄菓子屋だった。

どこにでもありそうな「町」・・・

それが「高崎」かも知れない。
でも僕にとっての「高崎」は、世界でたった一つの「高崎」なのである。

僕の横丁には駄菓子屋が数軒あった。東小学校、東二条通の八間道路から高砂町五本辻の300メートルほどの間。
高砂町下には、山盛、長井、長谷川、戸塚とあった。入り組んだ町名に、九蔵町の中村、弓町の栗原、神田・・・・・
その中でも完全に駄菓子屋と言えるのは、山盛、長井、栗原だったろうか。
山盛は、模型専門。模型とは言っても竹籤をセメダインで貼付け、障子紙を翼に貼り、竹のプロペラをゴムの動力で飛ばす奴。山盛は、どう言う訳か小父さんも小母さんも無愛想で、子どもには人気が無かった。それでも、初めての少年マガジンはそこ、山盛で買った。
長井は、山盛とは二軒長屋続きですぐ隣にあった。もともとは、下駄屋を商っていた。もっぱら低学年の子どもたちは「長い」で買っていた。
冬には、「お好み焼き」もやっていて・・・小母さんも面倒見が良かった。残念ながら今はその二軒とも、往時を偲ぶものは何も無い。

「ビー球、メンコ、ベーゴマ」はみんなそこで買った。
雨が降ればその横丁の軒先でベーゴマ合戦。僕らがよくやったのは藤巻箪笥店の軒が「ショバ」であった。
長井と言えば、ボタンキョウはもちろんだが、ひとつどうしても忘れられない駄菓子があった。

それは「ソースイカ」である。

今にして思えば、その「ソースイカ」なんだが、なんとも不気味に着色された代物。
スッパイんだけど、今の「ヨッチャンの酢漬けイカ」なんて足下にも及ばない美味さだ。

で、僕らはどう言う訳か「長谷川」には行かなかった・・・どうやら「長谷川」は女の子専門だったようだ。
その長谷川の手前に「杉山」と言う貸し本屋・・・今で言えば、「TSUTAYA」か(笑)。
その「杉山」では、赤胴鈴の助、いがぐり君、月光仮面・・・よく借りた。遅れても延滞金は付かなかった。
小学校の入り口に「武田」と言う「文房具屋」もあった。当時はセルロイドの下敷、セルロイドの筆箱・・・
兎に角割れやすいし熱に弱くすぐに曲がったりして持ちが悪い。鉛筆も芯が良く折れたから結構その「武田」繁盛していたようだ。

弓町に行くと小高の床屋、泥鰌屋、タバコ屋、寺田の肉屋・・・そして栗原へと続く。栗原は僕らが小学校の時はまだ無かった。
栗原に気付いたのは、僕の娘たちが駄菓子屋通いを始めてからだ。
次女はもっぱら、高崎保育所の帰りには必ず、「長谷川」で駄菓子を買って、「ウサギの本屋」で、付録を買うのが楽しみだった。
昭和50年も呉れようとした静かな時代・・・
なぜか、とっても静かな時代だったような気がする。
もしかしたら、今の時代に似てるのかも知れない・・・その静けさは。

昭和30年代、東小学校の生徒数は800人を切ることはなかった。
駄菓子屋も、文房具屋も繁盛したはずである。

「八間道路の夜店」を、
中銀レトロ・アヴェニューで
  


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2018年02月06日

高崎レトロ・アヴェニューは「中銀ゴールデン街」に(笑)

高崎レトロ・アヴェニューは「中銀ゴールデン街」に(笑)

「新しくなった中央銀座アーケーへ行こう」なんだが・・・

なんtもイヤハヤで、昼間行っても何もありません。

かろうじて焼肉屋さん「ひとまかせ」さんが、ランチだけ・・・・・

そもそも「新しくなった」は昭和40年代全盛の頃中銀、北のはずれでしたし(笑)。
ま、東宝があったり、パチンコ屋があったり徳井の玩具屋のところは紳士の殿堂「「フランス座」のゲートだったし。
で、レストラン「ピナン」があって、中心が関口メガネ、ナポリ、おしゃれデパート。婦人洋品店の「富士屋」。

で、レトロ・アヴェニューなんだが、中銀の入口から見たらあすこは北のはずれです(笑)。

ところで、高崎市には「景観条例」って、ないんだろうか?

ま、「オリオン座」なんだけど、僕が小学校4年の頃ですから昭和34年でしょうか。

高崎市立東小学校4年3組、担任は新井先生。クラスメイトに北沢くんというのがいて、新井先生・・・・・・

「オリオン座は北沢君のお父さんの会社が作ったんです」とか言ってたけど、かれこれ60年になります。

まあ、普通なら明らかに景観条例違反ですね、条例があるんなら。もっとも、条例あるんじゃないの?
だって、高崎駅東口の「ビックカメラ」、だいぶ前だけど店舗外壁「真っ赤か」にして、景観条例に違反するとか言って塗装し直し。
もっとも、ビックカメラの真っ赤かは「ビック・カラー」なんだし、ビックカメラも臍噛んだんじゃないだろうか?

で、レトロとかなんだけど、昼間はシャッター通り」で夜はピンサロ客引き通り。

まっ、寂しい高崎「中銀ゴールデン街」です。ま、本家の「新宿ゴールデン街」も昭和の頃とは客層、だいぶ変わってるらしいけど。
でも、街並みは「レトロ」です。

そんなわけで。レトロ・アヴェニューなら「成田町」でしょ。「通町でしょ」(笑)。
成田町なんて80がらみのママさんの小料理屋っていうか赤ちょうちん、通町だってママさんはかなりレトロです。

で、ちいきしんぶんだけど「新しくなった中央銀座へ行こう」なんだが、いつ行ったらいいんだ?
昼間行ったて何にもないし、夜行ったって客引きしかいないし・・・・・
しかも、賑わいを見せる駅前からは歩いて行ける距離じゃないし、駅前から無料の「中銀シャトル」でも出します?

まあ、どっちかっていうと高崎「レトロ・アヴェニュー」よりはおしゃれデパートの先、天華堂あたりから向こう、
「オーサキ」なんてレトロだよ、古いレコード、LP売ってるし、天華堂だって昔ながらの本屋さんだし。
田島食堂だって頑張ってるし、昔からの常連さん少ないようだけど、昼間から酔っ払ってるお兄さん、おじいさんになっちゃたんだろけど。
なんたって、和菓子の「観音屋」だよね、それに小泉薬局、レストラン「ニュー三好」とかとかです。

ってなわけで、高崎「レトロ・アヴェニュー」を言うんなら、こっちのほうじゃないの。
まさに、中心市街地だし、飲食店誘致するにしたって、「ジャマーズ」とかの、レトロ・ニューカマーも貢献してるし。
入口には「中央銀座通りのネオンも、明かりは点いていないけど・・・・・

高崎レトロ・アヴェニューは「中銀ゴールデン街」に(笑)
  


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2018年02月06日

おじいちゃんの「少年時代 」話をしよう

おじいちゃんの「少年時代 」の話をしよう

昭和24年2月11日生まれだから・・・
もうすぐ69歳だ、孫、6人。
ずっと「おじちゃん」を拒んできたH少年(笑)。


 昭和30年代のことだ・・・・・
 僕が物心ついての祭りというと、そこいら中の神社という神社の入り口にはアコーディオンやバイオリンを物悲しそうに奏でる白服の傷痍軍人の姿が必ずあった。もちろん兵隊帽子を深々と被り、色眼鏡に松葉杖、義足に片腕での演奏と、色々だった。

 それをまるで無視するかのように、いや、無視するというよりは忌み嫌い蔑視するようにして聴き流し、見て見ぬフリをする父母のその時の何故かしかめた顔もその音とともに思い出される。
 ほぼ同世代。戦前、戦中と南方、北支にお国のためと、家族の、国民のためと銃後の守りを信じた末の負傷復員兵。新生日本「万歳万歳」の出征も敗戦焦土に迎える同世代の目はこうも冷たいものだったのかと今にしてみると思えてならない。

 そして、それはこの平成の世に上野公園、墨田公園のブルーテントの脇を見て見ぬフリをしながら通り去る僕らの顔を映しえに見るようで心地は悪い。

 何れの時代それは「傷痍軍人」も、ブルーテントの「ホームレス」のみなさんも、その時代を括る風景としての「音」をそこに見る。時代に作られた耳に残る「音の風景」。

 それは今にして作られたのではなく、おそらく「ホームレス」の人たちは僕等世代に違いない。

 高度成長期、バブル経済―――
 いや、それ以前の受験戦争、企業戦士といわれた競争社会を生き抜いてきた―――
 それが僕ら世代の答えなんだろうか。
 こんな答えを得るために僕等は生きてきたのだろうか。

「それで良かったんだろうか?」と、そんな気がしてならない。

 月光仮面世代がこの国の中枢から去ろうとしている今、悪戯にどうしたことか余念がない政官財。かとおもえばニュースを騒がせるのは「子殺し、親殺し事件」や、得体の知れぬ「伝染病」やら、当時では想像することもなかったSNSとか言ったネットに絡む事件を報じる新聞、テレビの毎日。
 情報過多なのだろうか。あの時代、知らされないことも随分とあったようにも思えるが、逆にそれが嘘のニュースを創作することもなかったような、あの時代は良心の時代だったのかもしれない。

 言われる敗戦直後からの政治腐敗、汚職、疑獄。それらも単純明快でそこには幾分その「良心」の呵責が見て取れたような気がする。それはいつでもやり直しの利く「悪戯」のようなもので「嘘に嘘を重ねる」と言ったような慇懃なものではなかったような気がする。
 今の平成のそれは、ひとつの嘘に幾重にも重ねに重ねてもなおボロボロとほころびの絶えない疑惑、事件。そこには聴く「音」は何もない。空耳か、耳鳴りか――――
 記憶に留まる「音の風景」は何処を探しても見当たらない。そう感じるのは僕だけだろうか。

 僕ら戦後世代には「夢」があった。

 それは「戦争を知らない子どもたち」と歌われ、その意味では極めて「幸せな」な時代を過した世界でもまれな時代に生まれ育ったからではないだろうか。まあ、それにしても何もなかったせいなのかも知れない。
  
 たしかに何もなかった(笑)。

 テレビどころの話ではない。ラジオだって物心つくころでさえそう記憶はないし、オモチャや、ゲームがあるわけでもない。毎日は学校の校庭で、原っぱで、横丁で汗まみれ、泥まみれで仲間同士遊ぶしかなかった。
 履物はズックなどは上等な物で、正月にやっと買ってもらえるくらいで、普段はゴム草履か下駄。靴下なんていう洒落た物はなく「足袋」それも幾重にも継ぎ当てをしたような代物で、真冬だって素足に草履、下駄なんていうのも珍しくはなかった。
 真冬はしもやけ、アカギレ、青ん洟垂らしたり、ハタケにタムシなど等。着るものといえばお下がりのズボンに詰襟のツンツルテンのテッカテカで汚いの汚くないのと今時のパパやママが見たら目をむいてひっくり返ってしまうかも知れない。このところテレビで良く流してるお隣の「地上の楽園」の子ども達のよう。

 それは今に言う、〈あの頃は良かった〉などといった代物ではない、それしかなかったのだ。
 それは時代そのものが貧しく、それまでの軍国主義、富国強兵一辺倒時代から解放された親世代の安堵感のの中にも明日をも知れぬといった不安な毎日を暮らしながらも僕らの寝顔を見てその意味での平和を感じていたのではないだろうか。

 しかし僕等、子ども達には「夢」があった。とてつもなくデッカイ夢をもてた。

 それは敗戦による自由解放、民主主義のお陰なのだろうか。おそらく物不足の中にもその時代、初めて手にした自由。大人たちは雑誌を読み漁り、僕等子どもたちは次々と発刊される「少年王、冒険王、漫画王、少年画報」、  そしてそれらに連載される月光仮面、赤胴鈴の助、はては二一世紀の現代を予測する鉄腕アトム、正義、正義、正義のオンパレード。

 やがて、ラジオ、映画へと、そして、それは白黒テレビの西部劇に、アメリカ製のホームドラマに、そして洋楽のヒットパレードに夢中になる頃になると夢は外国へ行くこと、自動車を乗り回すこと、自分のなりたいものになると言う将来未来を描くこと。
 しかしそれはけして手の届くことのない叶うことのない「夢また夢」の毎日だった。それでも僕等は夢を追いかけて、求め続けた。

 はたしてそれが今はあるだろうか。僕らが夢にと描いていたことが今ではそれがいとも簡単に「手品」のように叶ってしまう。
 しかし、その「夢」は掴むのではなく買う「夢」。じっくりと時間をかけて、心から願ってのそれではない「お金で買う夢」。自分で想像した夢ではなく誰かが拵えた売り物の夢。

 僕の言う夢とは今の小学生が見るような夢ではない。女の子なら看護婦さんになりたいとか、ケーキ屋さんになりたいとか。男の子ならパイロットとか野球選手、サッカーの選手とかのことではない。

 やはりそれは一五、六で見る夢。それは「自分」を探しの夢。

 まさかそんな僕自身、その時には自分が69歳になるなどとは「努々」思いもしなかったがその一五、六で見た夢。

 ドラムを叩いて、エレキを弾いての生活、それを今日していると言うことは、くどいようだが「場末の楽士」であろうとも満悦至極とふり返る。

 僕には平成の「音の風景」はない。あるのは戦後のセピアカラーに染められた昭和の「音の風景」。

 目を閉じた時の、その音の風景――――

 それはまるで少年だったあの頃、押入れの中で見た「幻灯写真」のように、僕に話しかけてくれる。

おじいちゃんの「少年時代 」話をしよう


  


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2018年02月04日

エンゲル係数上昇はアベノミクス効果(笑)

エンゲル係数上昇はアベノミクス効果(笑)

自民党大丈夫か?
総裁こんなこと言っちゃてるケロ。


安倍首相が珍答弁 エンゲル係数上昇は「食生活の変化」
 大新聞やテレビはあまり報じていないが、31日の参院予算委員会で「エンゲル係数」を巡って、珍妙なやりとりがあった。

 民進党の小川敏夫議員がアベノミクスによって国民生活が苦しくなっていることを表すデータを挙げる中で、「生活の豊かさを示すエンゲル係数が顕著に上がっている」と指摘。これに安倍首相は、「(エンゲル係数の上昇には)物価変動、食生活や生活スタイルの変化が含まれている」と反論、「景気回復の波は全国津々浦々に」と、いつものフレーズを繰り出したのだ。

 えっ! 生活スタイルの変化? エンゲル係数は消費支出に占める食費の割合のことで、一般に「その係数が高いほど生活水準が低い」というのは経済学の常識じゃないのか。

「食費は生活の基礎的な部分。支出に占める割合が大きければ大きいほど、生活に余裕がないという指標です。安倍首相の答弁はテストなら0点ですよ。『生活スタイルの変化』と言いますが、ひところは『外食にシフト』というデータもありましたが、今や外食の単価が下がり、ワンコインでおつりがくることもある。外食費は多くありません。安倍さんや麻生さんは1万円を超えるステーキを食べに行く金持ちだから、自分と国民の違いが分からないのでしょう」(経済評論家・斎藤満氏)

<抜粋引用:日刊ゲンダイDIGITAL 2018年2月2日 15時00分>
https://www.excite.co.jp/News/politics_g/20180202/Gendai_439568.html

>「・・・安倍さんや麻生さんは1万円を超えるステーキを食べに行く金持ちだから、自分と国民の違いが分からないのでしょう」


オマエなぁ、すき家、松屋、吉野家で三食牛丼は贅沢だぞ・・・・

昼は「イオンスタイル」でカップラーメン。

夜は「タイムサービス」の弁当にしとけ、お茶はタダだし(笑)。

ま、一食「ワンコイン」は贅沢です。朝昼夕で三食1,000円でどうだ!!

オマエ、「イオンスタイル」で、マッジーッ「シャンゴ風」790円は後悔するからやめとけ。

食うなら本店にしたほうがいい「イオンスタイル」は全く別もの。

>『生活スタイルの変化』と言いますが、

確かにそれはアベちゃん正しい、いわば「生活スタイルの変化」です。

つまり、食料品の値段上がってますから、松屋なんて朝から家族連れがいますね。

ま、外食って言ったら外食なんだけど。

うちで朝飯作ったら一汁一菜だって米、野菜、光熱費かかるし・・・・・・

アベノミクス効果で人手不足だし、カミさんもパートに行かなくちゃあだから炊事はできません。

そんなわけで、子どもはコンビニで済ませて父ちゃんと母ちゃんは、すき家。松屋、吉野家で。

ま、松屋は「味噌汁付き」だし、朝のシャケ定450円?まあ、シャケ、むちゃくちゃ薄くて小さいけど(笑)。

そこへ行くとデニーズの朝定、シャケはそれでもMサイズだし、のんびり食うには高齢者にはいいかも、540円。

結構、ジジババのカップル、楊枝でシーシー言いながら食ってます。

ま、たしかに今や、家で作るより安上がりなことは確かです、生活スタイルの変化かも。

っていうか、そこから見えてくるのは収入の激変ですから、最早冷蔵庫の電気代ももったいないくらい。

我が家でも、この半年コメ炊いてないです。冷蔵庫は「冷凍食品」でチンには慣れっこになりました。

まあ、どうでもいいけど、アベちゃんも、アソちゃん、一晩に200万円も使うんなら「すき家、松屋、吉野家」でもいったら。

もしかしたら1万円のステーキよりも「すき家、松屋、吉野家」の牛丼のほうが美味いかも。

徳川の殿様が「さんま」を食ってあまりのうまさに驚いたってぇ話があるようにね。

ま、アソちゃん、カップラーメンが450円だって言うんだから、エンゲル係数もへったくれもないわけです。

エンゲル係数上昇はアベノミクス効果(笑)

  


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2018年02月03日

昭和元禄「太陽の下の18歳」

昭和元禄「太陽の下の18歳」



「GO KART TWIST」(ゴー・カート・ツイスト)は、イタリアの歌手、ジャンニ・モランディ(イタリア語版)の楽曲。1963年発売。

昭和38年(1963年)。団塊世代が中学生、高校生の時代です。

僕は高崎市立第二中学校3年1組、担任は石原征明先生。
確か石原先生はテニス部の顧問で、帰宅部だった僕に・・・・・

「オマエ、テニスでもやってみろ」

って言って半ば強制的にみどり幼稚園の隣にあったテニスコートに連れて行かれた(笑)。
ま、言ったら僕の生活環境は下町の横丁、路地裏ですから、確かに家の前には日清製粉のテニスコートがあったけど、
そもそもテニスがなんたるものかということは考えたこともなかった。

で、その日清製粉のテニスコートには今上皇后の美智子さまが時折訪れてテニスをしてたとか・・・・・
庶民、大衆中のオバさんのオフクロが言っていたもんだから、家庭訪問で来た石原先生が全くやる気のない僕に「テニス」をと言い出したから、「まさか」と言うような顔して僕を見たのを今でも脳裏に残っている。
そうそう石原先生と言ったら昭和36年当時は32歳で、今風に言うなら超イケメンでしたね。しかも身長も170センチくらい以上あったんだろうか、当時の二中の悪ガキは、コレまた音楽教員「細谷先生」と勝手にロマンスを作り上げ騒いでいたもんです。
たしかその頃の石原先生は独身だったと、しかしながら、その年度の途中、美人音楽教師の細谷先生は結婚のためブラジルへ。

まあ、昭和38年です。いろんなことが立て続けに起きた時代で、日本は高度経済成長の入口に立ったところでした。

日本で初のテレビアニメ「鉄腕アトム」が始まったり、「コカ・コーラ」というアメリカ生まれの変な飲み物が新発売されたり・・・・・
そして、ビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」のアルバムが発売とか、「吉展ちゃん誘拐殺人事件」が発生とか。
まあ、なんと言ってもエポックな出来事は「ケネディ大統領暗殺」といった事件が「衛星中継」と、プロレスラー「力道山刺殺」とか。

そんなわけでいよいよ「昭和元禄」の時代です。

で、話は長くなっちゃったけど、「GO KART TWIST」(ゴー・カート・ツイスト)です。

なぜ中学3年の僕が聴いたこともない洋楽に目覚めたか、、実は当時ドラムに興味を持って習い始めた頃だったわけです。
もちろん家にはレコードプレイヤーなんてないし、そしたら、そう、力道山の大ファンだった小林君っていうクラスメイトが・・・・・

「俺んちにそのレコードならあるよ」って。

そら、驚きました。たしか、小林君ちは嘉多町で高崎神社の参道の路地をちょいと入ったところ。
いかにもといった瀟洒なお宅で、時折奥の方から「ちんとんしゃん」が聴こえてきたりして。
で、小林君の部屋があってそこに入ると、なんと驚くことなかれ、そこには四本の足の生えた「ステレオ」とか言うのがあって、「EP」シングル盤は当然ながら、LP盤も本棚らしきところにズラッと並んでいるではないか。

「ほらこれだよ、オマエの言ってたレコード・・・・・」

そう言うとおもむろにその神々しいステレオとかのターンテーブルにそれを置くと小林君はおもむろに、なんかスイッチを押す。
すると、ステレオとかの針のついた枝のようなものが自動的にレコード盤の上に降りる、その瞬間アレが鳴り出す、

E gira e gira e vai
E non frenare mai
E gira e gira e vai
E non fermarti mai

Mettiti il casco esatta sul go-kart
E vai e vai col go go go-kart
E ballerai il twist del go-kart
Twist go-kart and twist go-kart…

ま、イタリア語ですから「なんだこりゃ」みたいな感じだったけどとにかく夢中になっちゃいましたね。
しばらくして姉にねだって通町の「ピカデリー」で観たのが、カトリーヌ・スパークの「太陽の下の18歳」でした。

そうだ、小林君ちはいわゆる「花街の母」でした、多分、もう僕なんか見るもの聞くもの別世界でしたから。

で、衝撃を受けたもがフランク・シナトラの「想い出のサンフランシスコ」

ま、戦争み負けた日本が昭和元禄です(笑)。

で、同じく敗戦国のイタリアが「太陽の下の18歳」、きゃぴきゃぴです・・・・・

ドイツは知らないけど、戦争に負けたおかげで天井が抜けた、時代はその戦後の10代20代の時代。

日劇のウエスタンカーニバル、ロカビリーひゃっかりょうらんそんな時代でしたね。

今思うと、訳のわかんないのが、ただ年だけ食って、内閣総理大臣ですからお先真っ暗です(笑)。

昭和元禄「太陽の下の18歳」
  


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2018年02月02日

【大竹まこと】お笑いの娘(28歳)が大麻所持がどうした?

【大竹まこと】お笑いの娘(28歳)が大麻所持がどうした?

よせよ、お笑いだろ大竹(笑)。
まじんなっちゃったら話しんなんないぞ。
28歳の娘が大麻、それが何か?
くらい言ってやれよ!


大竹まこと、会見で報道陣に逆質問 “公人の娘”のあり方を問う 
 タレント・大竹まこと(68)が1日、東京・浜松町の文化放送で会見を行い、長女で会社員の女性(28)が1月末に大麻取締法違反(所持)で逮捕されたことについて謝罪した。一方で、長女の人格に関わるような質問には多くを語らずだった。

<中略>

 大竹は「私は公人」と会見した理由を何度も口にし、矢面に立つ一方で、長女については「一般人」とし、今後の生活も見据えて守った。二世が逮捕される度に話題となる“親の責任”はどこまでなのか。結論は難しい。
<抜粋引用:2/1(木) 13:05配信 オリコン>
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180201-00000331-oric-ent

>大竹は「私は公人」と会見した理由を何度も口にし

まぁ、ねっ(笑)。

「大竹まこと」って公人じゃあないです。

大きな勘違いで、オマエはただのコメディアン、芸人なんだよ・・・・・

場末のミュージシャンもそうだけど、そら、覚悟があるわけで、そんなもん終生「チンピラ」、根っこはね。

だからフリーで偉そうなことも言えるっで、「お笑いですから」ってね。

それが今じゃあ、芸人が職域を超えて政治を言ったり、世の中に説教たれる。

そもそもが、そんなもん、社会で当たり前のことやってたら自分の生き方通すなんて(ヾノ・∀・`)ムリムリ無理。

まあ、偉そうなことは言えません、そんなオイラだけど、

「子どもは育てたように育つ」

そう、うちの末娘、23歳。大学3年だけど一浪して、留学で一年休学して、この春からが就活(笑)。

そしたらのんきなもんで、高齢の両親をこの雪原に置き去りにして・・・・・

「パパ、アタシ、来週からイスタンブールの友達のところえいってくるから」って、そしたら「パパにそっくり」ってママ(笑)。

もとい、大竹某は「公人」なんかじゃあない。ただのコメディアンです。

たまたま「大竹まことのゴールデンラジオ」とか、たけしの「TVタックル」で持ち上げられて勘違いしてるんだろうけど。

しかも、今回の事件だけど、大竹まことの娘、28歳って、なんで親が出てくるわけ?

だいたいねぇ、俺たちの世代、団塊世代ってある意味、戦後の「バブル世代」、世界を見渡しても稀有。

結果、アベチョビレハッパフミフミ、エンゼルチョコレートが内閣総理大臣になる時代ですし。

そら、まとも、普通じゃあないです。だって、エンゲル係数上昇は景気のいい証拠だって言うんだから流石Fです。

政治家、総理大臣になるような傑物なら「ブタ箱」経験しなくちゃ。

つまり、人間、人間としての最低の恥ずかしめを経験しなくちゃあ世の中のことはわかりません。

で、吉田茂元首相は戦中特高に逮捕、投獄。麻生太郎の祖父、岸信介は、A級戦犯容疑者」で巣鴨拘置所に3年は安倍晋三の祖父。

佐藤栄作は犬養健法相の指揮権発動で逮捕は免れたが、逮捕寸前まで行ってる・・・・・

で、我が、郷土の誉れの「福田赳夫内閣総理大臣」も昭電疑獄っていうやつで逮捕、大蔵官僚時代だが。

ま、一度あることは二度あるはいけません、田中角栄元内閣総理大臣「炭管疑獄」で逮捕、拘留、不起訴だったが、二度目は「ロッキード」。

ま、その後、郷土の誉れ平成の大勲位、平成オジさんも綱渡りで塀の内側には落なかった、竹下登元首相もね。

そらね、大竹まことじゃあないけど、今の森永エンゼルチョコレの内閣総理大臣をはじめ閣僚の皆さんだけど、皆さん門前の小僧(笑)。

「働き方?」働いたことないじゃん。少子化、「森永エンゼルチョコレ」子どもいないし・・・・・・

ま、自分の娘、息子のうんち、手で触ったこともないやつには、少子化、子育ては語れない。

そんなわけで、大竹まことなんだけど、言ってやれよ!!

「娘は28歳の自立した女です、コメディアンの俺がどうのこうの言える立場じゃあないです」って。

大竹、終わったな。同世代だから期待してたのに、ま、たけしのコメント聞きたいね・・・・・・

TVタックルのレギュラー任命権「者として、「よせやい」って言うかもしれないけど(笑)。

「あいつはああいうやつだよ、どうでもいいよそんなの」

そういやあ、たけしにも娘いたなぁ、そうそう明石家さんまにも・・・・・

結局、大竹まことって、中途半端、脇役なんだよね。

それが主役はらされちゃったもんだから「公人」って、ラジオだけど(笑)。

【大竹まこと】お笑いの娘(28歳)が大麻所持がどうした?
  


Posted by 昭和24歳  at 07:22Comments(0)

2018年02月01日

イオン駅前店が終了!!

イオン駅前店が終了!!

まあ、三井不動産と国策でできた都市です。
鉄道までひいちゃって、つくばエキスプレスだけど。

イオン駅前店に幕 つくば象徴クレオ休館
つくばエクスプレス(TX)つくば駅前で、総合スーパー「イオンつくば駅前店」が31日閉店し、33年の歴史に幕を下ろした。入居する商業施設「クレオ」では8専門店も同日閉店。既に西武百貨店は昨年2月に閉店しており、つくば駅前の象徴、クレオは入居店舗がなくなり「休館」となった。相次ぐ大型店の撤退により、中心市街地の空洞化が懸念される。

イオンつくば駅前店は、クレオの核テナントの一つで、1985年に「ジャスコつくば店」として開店。1階で食品を、2階で衣料品や日用品などを販売し、地域を代表する商業施設の一つとして親しまれてきた。

近年は、周辺に食品スーパーやドラッグストア、ホームセンター、家電量販店などの進出が相次ぎ、売り上げはピーク時の半分に減っていた。

営業最終日は通常より1時間早い午後8時に閉店した。整列した従業員が深く頭を下げながら、「ありがとうございました」と買い物客を見送った。イオンリテール北関東・新潟カンパニーの担当者は「たくさんのお客さまに来ていただいた。長年のご愛顧に感謝している」と話した。

約15年間利用してきたつくば市小野崎の主婦(49)は「子どもが幼稚園の時、この店で『初めてのおつかい』をさせた思い出もあって寂しい」と別れを惜しんだ。

抜粋引用:2/1(木) 6:00配信 茨城新聞クロスアイ
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180201-00000005-ibaraki-l08

>つくば駅前の象徴、クレオは入居店舗がなくなり「休館」となった。

どうなんだろ?老舗高島屋のデパ地下はデパ地下の趣だけど・・・・・・

イオンスタイルはイオンスタイルで単なるスーパーです(笑)。

しかし、いつ行ってもイオンスタイルには賑わいがないね、華やかさがない。

で、「高崎食堂」7Fなんだが、なんだ、あのシャンゴ風のミートソースのとんかつ???

とんかつも、パスタも「チン」しただけなんだろうけど・・・・・

ま、先代の社長が存命だったら怒り狂っただろうね。とにかく「チン」だろうからヌルイ(笑)。

請地にできた頃から通ってるけど、問屋町本店も、「ペスカトーレ」Mサイズを頼んだのにSが出て来る。

「これ、Mじゃあないだろ?」ってスタフに聞くと「Mです」と、平気な顔していう。

高校生のバイトなんだろうけど、チーフらしいオバちゃんに言うと「申し訳ありません」と。

で、高崎食堂に話を戻すと、あのシャンゴがです、期待して食いに行ったら「なんだこれ、シャンゴ風」。

案の定、ファミレス並みでオッサンがフライパン振っているわけじゃなくて、レトルトをいじってる(笑)。

1Fのイオンスタイルのスーパーも、昔の本町3丁目にあった「主婦の店フードセンター」の方が気が利いてるんじゃない?

「うろころスーパー」の方が、宮本町の中央デパートのスーパーの方が、気が利いてるんじゃない?

で、仕事柄だけど、楽器屋に顔出したんだけど、「なんだこれ?」でした(笑)。

それにしても、「イオン駅前店が閉店」の報に接して、もうかい?と勘違いしちゃったじゃないか・・・・・・



まだ、中銀にあった松原楽器の方が気が利いている、今は無き「雪草楽器」の足下にも及ばない。

ブティックだってレンガ通りのメンズビギとか、メルローズとかピンクハウスとかの方が全然、気が利いている。

イオン駅前店が終了!!

  


Posted by 昭和24歳  at 12:05Comments(0)

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