2017年10月21日

【中銀今昔】中銀は女子高通り!!

【中銀今昔】中銀は女子高通り!!

昭和44年のワンサカ娘。
あれから50年(笑)


そらそうです、高女が末広町にあって、すぐ上の姉が通ってた市女が昭和町にあって、佐藤学園が大橋にでしたし。

それに女子は少なかったけど台町には高商です。で、ちょっと離れたところ線路向こうには男子校の高工、川向こうには高高。

で、ちょうどその頃、農大二高が石原に出来て、それぞれ1000人からの生徒がいたわけですから・・・・・

高崎中銀は若い血潮でムンムンしてたわけですもちろん田町通りも若い娘がわんさか、レナウン状態でしたね。

それに、今の健康福祉大付属でしたっけ、北通町にあった須藤技芸、僕の上の姉ちゃんも通ってました。

そうそう、あら町には岡本文化服装学院なんてぇのもありましたね。

そうです、女子高生ばかりじゃあないです。太陽誘電、沖電気には女子社員がワンサカ娘、レナウン状態(笑)。

だもの、中銀の「甘味喫茶・富士屋」なんて自慢焼きにあづきアイスにワンサカ、甘味喫茶って言ったら「一文字や」もワンサカ。

まあ、中銀には本屋のマルハク、天華堂(現存)、中銀を抜けたところに学陽書房、で、その先には文開堂が。

で、藤五ができたて、スズランもない、あったのは中銀のおしゃれデパートと中央スーパー、高島屋ストア。

もっとも、昭和42年当時は女子のブティックなんてなかった、ほとんどが男子専科、カナヤ、いよいよ店閉めるけど、閉めた?

で、中銀はおばさん相手の洋品店で「富士屋」「うろころ」、大正堂?正札堂?。

そうそう、中銀には食堂が何軒もあって、でもなんで団子やは「伊勢や」って言うんだろうか?

まあ、なんてったってエレキ時代の到来でしたから、「みゆきダンスホール」、僕らプラネッツはレギュラーバンドでした。

で、もう一軒砂賀町に「社交ダンスホール」ってぇのがあって、そこは高校生御用達(^_^;)

ま、不良の巣窟。高商の番長とか高工の番長とか、信越線、高崎線、両毛線の番長とか、そして総番とか賑やかでした。

なにせ、団塊世代、数千人が繰り出すわけですから街中、中銀はお祭り騒ぎ・・・・・

そうそう、映画館だって中銀には東宝、オリオン座、松竹、電気館、今のさやモールには日活、連雀町には銀星座、通町にピカデリー。

喫茶店だって、ローマ、アラスカ、あすなろ、街の横丁という横丁に喫茶店があった。

もちろん、ほろ苦い思い出の同伴喫茶、マーセル、キャンドル、そしてキャメル、18、9の頃でしたね。大人の階段のぼってました(笑)。

まあ、高崎の中銀が寂れたのも、要因は高女、高市、高商が郊外へ行っちゃったこともその一つかもしれませんね。

まさに、ハイスクールララバイでいっぺんに高校生2000人からが学校、直行直帰ですから。

だから、高女はそのままにして文化会館を日光町に作ればよかったんです。

だから、高市はそのままにして新島短大を浜川に作ればよかったんです、高商をそのままにして高崎警察を東貝沢に・・・・・

そしたら、今だってそこの学生数2000人からいるわけだし、今の学生バイトしてるしお金使うし経済効果あったかも。

そしたら、それわそれわ賑やかな街中になってたかもしれませんね。

そうそう、僕の長女が高商、次女が高北、三女が経附だからみんな町外れ、直行直帰です。

そうだ、北高だって、健大附属だってあんな田んぼん中に作らないで高崎駅徒歩15分圏内に作れば街中ワンサカ、レナウンでしたね。

今からでも遅くないと思うから、これから市長になろうとする若気、1万人規模の大学誘致するとか、少し考えたら?

オーパ、ヤマデン、ビックもいいけど箱作ったって、仏造って魂入れずじゃダメです。

特区で加計学園だっていいんじゃあないの、観音山丘陵あたりの市有地に無償供与、熨しつけて。

でも、1万人規模じゃないとダメね。高経、健大と合わせて1万人、地方から入学する学生には無料学生寮を。

前川喜平、前・文部事務次官に忖度してもらったら、中曽根弘文元外相の義兄なんだし。

そうだ、今の市長も文科省高級官僚だったんだし、忖度忖度、誰か早く総理大臣にならないかな、フクダ・・・・・

【中銀今昔】中銀は女子高通り!!  


Posted by 昭和24歳  at 23:14Comments(0)

2017年10月21日

【中銀今昔】らっちゃんと浅間カメラ

【中銀今昔】らっちゃんと浅間カメラ

↑らっちゃんビルだって!!
ここにあったんだね・・・・・
発見、らっちゃんと浅間カメラ。


そういえば、「らっちゃん」って「高見沢不動産」も商ってたんじゃなかった?

その中銀の「らっちゃん」が店をたたんでしまってもう20年?
いや、もっと経つかもしれない・・・・・

その「らっちゃん」は僕が中学に通ってる頃から同じ場所にずっとあった。
その頃の「らっちゃん」はひとつの店舗を半分にしたような店で。
隣は多分「らっちゃん」のマスターの親父さんだろうが「カメラ屋」を商っていた。

いや・・・多分ではない絶対に「らっちゃん」の親父さんだ!!
第一そっくりな「ひょー」っと言う顔をしていたし、よくもこうまで似るものだと思わせるほどの迫力があった。

その「らっちゃん」の親父さんのカメラ屋のおやじさんが面白かった。
たしか「浅間カメラ」とかいった屋号だったと記憶する。

「僕、・・・いい物を見せてやるよ」

丁度カメラに興味があった年頃の僕たちで、学校帰りの途中に店を覗き込むと・・・・・
おやじさんが小さな望遠鏡のような覗きメガネのような物を出してきて、

「見てごらん」

と、ニコニコ笑ってる。

覗くと、その望遠鏡、覗きメガネの中で裸のオネエサンがくるくる回ってる。

僕等が「ワーッ」と騒ごうものならその「らっちゃん」のマスターそっくりのおやじさん。

「ハッハッハッハーーーー」

と、僕らをからかうように大笑いしていた面白い小父さんだった。

もっともあの時代、昭和35年当時「カメラ屋」をやろうというのだから相当にハイカラな粋人だったのだろう。

僕が、キャバレー「ニュージャパン」のドラマーだった頃は、毎晩のように食いに行っていたが、その頃にはもう「カメラ屋」はなかった。
その分「らっちゃん」は倍の広さになっていて奥には座敷もあった。

「らっちゃん」は、一に「焼きそば」、二に「湯麺」、三、四がなくて、五に餃子。

五に餃子とは言うものの「らっちゃん」の餃子は「カラッ」としていて、薄皮の「もっちり」した、「焼き餃子」。
これもそん所そこらの餃子とはその餃子が違う。

本当は「一」に「餃子」を上げたい所なのだが、幾ら美味くても餃子は添えもんである。
その薄皮も然ることながらアンコも癖のないのが癖と言った感じの絶品。
何のことはない、僕は何を食べるにしろ、焼ソバであろうが、湯麺であろうが必ずその餃子を一緒に食べた。

しかし、秘伝を継承するお世継ぎは時代の流れか店に立つ事はなかった。

「らっちゃん」の息子・・・大学生だったのだろうか、その頃は休みの時には時々店を手伝っていた。 

どうも、あそこんちは代々男親の「DNA」が強烈なのか・・・・・・
二人の息子、小さい時からみているが、「らっちゃん」は、カメラ屋の親父にそっくりで、息子達は二人とも「らっちゃん」にそっくりと来ている。
「らっちゃん」のママさんは丸顔の品のいいお母さんだったが「男衆」はみんな「ラッキョ顔」。

しかし、あの「らっちゃん」の焼ソバがもう今はない、食えないと思うと寂しいのは僕だけではないはずだ。
それぞれの理由で高崎を離れた幾人かの知り合いに聞いても決まってこう言う。

「真っ先にらっちゃんの『焼ソバ』だよな!!」

あのラッキョ顔のマスターも、どうやら草臥れて焼きが回ったのか、それともたんまりと身上残して悠悠自適の隠居暮らしなのか・・・・・・
おそらく今時分は古希も半ば過ぎだろう。そう僕らの我が侭に付き合っているわけにも行かないのだろうが。

しかし残念だ。またひとつ、大切なものが零れてしまったような気がする。

ところで、↑の写真に「不動産のアクト」とあるが、高見沢不動産とは、まさか・・・・・

【中銀今昔】らっちゃんと浅間カメラ
  


Posted by 昭和24歳  at 17:39Comments(0)

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