2016年10月08日

団塊世代の「青春の光と影」(僕の細道)

団塊世代の「青春の光と影」(僕の細道)

「高崎の道」様より無断拝借しました。
ぴったりの画像だったのでつい。もしアレでしたら削除しますのでご一報下さい。

http://www.fuvic.com/takasakitomin/michi/ootemaedori/ootemaedori.html

社会そのものが老化している。

この町の街中は目線の外れた高層建築物の住宅と朽ちた商店街に「コインパーキング」の入れ歯状態。

40年ほど昔とは、その街を賑やかす若者の数は半分ほどに減少している。

その昔は「コンパクトシティ」そのものだったこの街・・・・・

駅前には「駅前旅館」「食堂」「土産物屋」が立ち並び小洒落た喫茶店が乗降客に一服を誘っていた。
それは、ディスカウントストアの走りだろうか、駅前通りには「イシヅカ」なるショップがあって当時の若者は結構重宝していたと聞く。
さらに「割賦販売」の「緑屋」なんていうのもデパートの趣の店構えであった。

「あら町」、「信濃屋旅館」のとっつきを右に曲がると、「VAN高崎」とか「リーガルショップ」があって、その斜向かいには「赤羽楽器」が唯一の楽器店として繁盛していた。
そしてその並びには「八木橋デパート」「赤かんばん」、しばらく行くと連雀町の交差点には「バラエティショップ西脇」がその四角に、そのトイ面が昭和、戦前からあった「高島屋ストア」。
その「高島屋ストア」は、聞く所によれば「10銭ショップ」、今の「百円ショップ」だろうか、結構盛っていたらしい。
そして、その連雀町交差点を通町方面に行けば、右に「十字屋デパート」、その前はたしか「銀星座」という映画館だったが、その左に「藤五デパート」そして「さくらや」が。

言われている「レンガ通り」はたしか「古着屋街」であったように記憶する。後に「ビギ」「メルローズ」とかの「ブティック」が立ち並ぶ高崎の「原宿」に。
そうだ、その一角に「メモリー」という、当時では走りの喫茶店でもない、今で言うスナックでもない「パブ」のようなお店は頻繁に寄らせてもらっていた。
まあ、その一角には「ピカデリー」なる映画館もあり、砂賀町には「三明」なるラーメン屋が忙しくしていた。

その連雀町の交差点を西に向かうと、「田原屋」があり、今では「さやモール」とかになっているがその四ツ角には「アサヒ商会」と「小板橋」といった文房具店両雄がその商いを競っていた。
もちろん、その「さやモール」だが、「喫茶あすなろ」があり、「東映映画館」があり、たしか「マギー画廊」なるものもあり、そして「文開堂書店」、「学陽書房」とがあり、その界隈はアーティカルなストリートの趣であった。

そう、その四ツ角だが、「中央スカイビル」の屋上展望レストランは当時は高崎一の高層で「回転式レストラン」として、その時代の名所だった。
そのお隣が、「いわと」という、喫茶店で当時はかなり盛っていて、その先にある「スズラン百貨店」の行き帰りに立ち寄ったと記憶する。
今ではすっかり閑散としているが東電のところからの「桜橋通り」。そこには僕が二十歳前後の頃から通い始めたラーメンの「成吉思汗」があった、いや、「ある」・・・・・

そこから、中央銀座通り、アーケードを入ると「みゆきダンスホール」。今風に言うなら「ライブハウス」だろうか、まさに「団塊世代」のたまり場で昭和40年前後から空前のブームとなった「エレキ」「グループサウンズ」に沸き立ち連日超満員のその中で演奏したことが懐かしい。
そうだ、その並びには「松原楽器」、当時はピアノ専門ではなかったかそんな高尚な楽器店もあった。
紳士服の「マツヤ」、和菓子の「観音堂」、昼間から酔客で賑やかだった「田島食堂」、そして「八百為」という大規模な八百屋に「天華堂」という大型書店、蕎麦の「すかや」、高崎一地価の高かった「関口メガネ店」。
そしてご婦人専門の「おしゃれデパート」にその界隈には「衣料品店」の数々が・・・・・

そんな中に映画館「オリオン座」「松竹」、「東宝」と封切り館が華やいでいた。そうだ、歌声喫茶「風」なども忘れられない存在だろう。あっ、大映の封切り館の「電気館」も忘れてはならないだろう。そしてその地下が、当時流行たての「コンパ」が。
まあ、昭和40年前後、高崎の街中には「喫茶店」がその時代を飾っていた。

団塊世代には、懐かしくもこそばゆい「同伴喫茶」なるものもあって善良健全な若き男女の密会の場所でもあった。
それは、嘉多町の「キャメル」、お濠端の「キャンドル」「マーセル」は甘酸っぱい思い出だ。

今言われる「コンパクトシティ」は東西駅前のみを中心とした人工的なものでしかない。
ただ、朽ちてゆくのを待つだけなのだろうか、旧まちなか、市街地。申し訳程度の予算で「活性化」の号令だが。

本来の「コンパクトシティ」とはそんなものではないはずだ。

それは「再生」か、もっと言えば街の「蘇生」か。

先日、中央銀座通りを盛り上げようと企画した矢先に組合理事長(57)さんが急逝した。  

先般、高崎電気館「昭和の風コンサート」でも一方ならぬお世話、ご尽力を頂き誠に残念なことです。

ここは何とか故・理事長さんの遺志を遂げるためにもと頑張ってるのですが・・・・・

団塊世代の「青春の光と影」(僕の細道)

  


Posted by 昭和24歳  at 12:04Comments(0)

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